史跡 美術館/博物館

平成の大改修を終え当時の姿が蘇る東京駅

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東京駅は、東京のシンボルとして旅行者を魅了します。

大正時代に造られたその美しい姿は平成の大改修を経て現代に蘇りました。

1        東京駅ステーションギャラリー

「東京駅ステーションギャラリー」は、丸の内北口の建屋の中にあります。

この美術館の見どころは展示品だけでなく、創建当時の建物の様子を内部から見学することができることです。

では北口から駅舎に入って見ましょう。

ギャラリーの入口は左手です。

美術館がらドーム2階のテラスにでられます。

テラスから撮った写真が下の一枚。

テラスには東京駅関連の展示があります

 

1.1         装飾レリーフ

南北ドームの装飾レリーフ

干支 復原用石膏原型

(上段左から丑、寅、 辰、巳

下段左から未 申 犬 亥)

2007-2012 (平成19-24) 年 (復原時)

鉄道博物館蔵

創建時、 南北ドームの天井には、ドームの方位にしたがって十二支中の八支の石膏彫刻が、ホールを見下ろすように取り付けられていました。

これらの干支レリーフは、 第2次世界大戦中の空襲によって焼失したため、 今回の保存・復原工事では、 古写真と文献をもとに試作が重ねられ復原されました。

レリーフの復原デザインにあたっては、 東京芸術大学美術学部彫刻科の深井隆教授が美術監修を務めました。

 

1.2         丸の内の変遷

丸の内の変遷 - 3時代のジオラマから -

2014年に当館で開催した「東京駅開業百年記念東京駅100年の記憶」展の中で、いわば定点観測地点としての東京駅が目撃した、 建築と都市の100年を振り返るための手法として、 1914年・ 1964年・2014年の丸の内のジオラマを制作しました。

丸の内という一つの地区の歴史は、 100年の間に日本の都市がいかに劇的な変化をとげたかということの縮図であるといえます。

 

1.2.1    1914年、東京駅創建時の丸の内

駅前は、左上にある「一丁倫敦」と呼ばれる区画以外は何もない原っぱです。

この「一丁倫敦」が今の「三菱一号館」の所です。

1914(大正3)年、東京駅創建時の丸の内

江戸時代、 大名屋敷が軒を連ねていた現在の丸の内は、 明治維新以降に国有地となり、 陸軍の練兵場として使用されていました。

市区改正で道路計画が定められ、1890(明治23) 年には三菱に一括して払い下げられます。

東京駅創建当時、駅舎の南西側には三菱地所によって「一丁倫敦」 と呼ばれる日本最初のオフィス街が形成されつつありましたが、駅前は未開発で、 「三菱ヶ原」と呼ばれた空地が広がっていました。

駅舎開業後は東京海上ビルディング本館 (1918年)、 日本工業倶楽部会館 (1920年)、 丸ノ内ビルヂング (1923年)、 日本郵船ビルディング (1923年)、 東京中央郵便局 (1931年) など、次々と近代建築が建てられていきます。

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では、 堅牢な鉄骨レンガ造の東京駅は被害を免れましたが、 周辺には倒壊、 炎上した建物もありました。

震災の瓦礫により宮城(皇居) の堀の一部が埋め立てられ、1926(大正15) 年に皇居と東京駅を結ぶ行幸通りが完成します。

 

1.2.2    1964年、東京駅創建から50年後の丸の内

戦災で破壊された南北の駅舎は3階から2階へ改修されます。

周辺の建物は31m以下に建築制限されていたため(今の感覚からすると)低層階の建物が並んでいます。

低層階と言っても10階位ありますので、地方に行けば立派な高層階です。

1964年、東京駅創建から50年後の丸の内

東京駅は第2次世界大戦末期の空襲で被災し、 1945 (昭和20)年9月から1947(昭和22)年3月にかけて行われた戦災復興工事によって、3階建てから2階建てに姿を変えて復旧されました。

駅前に広がる丸の内一帯には、 時代を象徴するさまざまな様式の建築が一定の高さで建ち並んでいます。

これは丸の内が1933(昭和8)年に「美観地区」として指定され、 都市景観の保護のため、建物の高さが百尺 (31メートル) 以下に規制されたためです。

しかし、急激な都市への人口集中により、 1963(昭和38) 年 、 建築基準法に容積率法が導入され、規制が撤廃されます。

これが都市に超高層ビルが立ち並ぶ契機となり、 現在まで続く超高層ビル時代への転換点となりました。

このジオラマはその直前のようすを再現しています。

1.2.3    2014年、 東京駅創建から100年後の丸の内

低層階の上に高層の建物が乗った感じです。

中央郵便局の建て替えの様子は当時居たビルから見ていましたが、ファサードだけ残して、後ろに高層ビルを建てていました。

2014年、 東京駅創建から100年後の丸の内

2002 (平成14) 年4月、 「都市再生特別措置法」が制定公布されたことで、 都市の超高層化が加速します。

東京駅舎周辺では、2002 (平成14)年に丸の内ビルディングが高さ約180メートルに、2007 (平成19)年には新丸の内ビルディングが約200メートルに建て替えられました。

さらに、 多くの近代日本を象徴する建築が建て替えられていきます。

東京駅では、 それらの建築の建て替え時に、 「空中権」という駅舎の未利用の容積を売却することによって得られた資金を元手にして、 2007 (平成19) 年から2012 (平成24)年にかけて保存・復原工事が行われました。

1914(大正3)年の駅舎創建時には空地が広がっていた丸の内一帯は、 その後100年の間に近代的な都市として劇的な変化をとげ、現在も進化し続けています。

 

1.3         トラスの一部(戦災復興時)

トラスの一部

1945(昭和20) 年頃 (戦災復興時)

東京駅蔵

駅舎の戦災復興工事で作られた屋根を支える骨組みの一部です。

第2次世界大戦中は木材の入手が困難だったため、 多くの軍事施設が 「新興木構造」という、ドイツで生まれた構法で建設されました。

この構法は、 短い木材を金具 (ヂベル鋲やボルト) で接合することで、 大きなスパンの小屋組みを作り上げることができます。

駅舎の戦災復興工事でも用いられ、 木材を接合する金具には日本で考案されたヂベル鋲が使われています。

終戦直後の状況を伝える貴重な資料です。

 

1.4         東京駅創建時の杭基礎 「松丸太」

東京駅創建時の杭基礎 「松丸太」

1909 (明治42) 年頃~2007 (平成19) 年頃使用

東京ステーションギャラリー蔵

「松丸太」という呼称は、東京駅創建 (1914 年) 後にまとめられた金井彦三郎の工事記録 「東京停車場建築工事報告」 によります。

この記録によれば松丸太は青森大林區署 (現在の青森森林管理署) から購入し、 直径 21cm 以上、 長さは地質に応じて約 5.5m から 7mが用意され、 およそ 3.7m 掘り下げられた地面に蒸気杭打機によって等間隔に埋めたとあります (総数 11,050 本)。

杭の上にはコンクリート、花崗岩の石材、 レンガを積んで建物の基礎とし、 そこに鉄骨の柱が建てられました。

2007年から2012 年にかけて行われた東京駅丸の内駅舎保存復原工事の主な目的は、駅舎を創建当時の姿に戻すことと建物の免震化でした。

地下に免震層をつくるためこれらの基礎は撤去されます。

切断して掘り出された松丸太は腐食もなく良好な状態だったそうです。

戦災復興工事

第2次世界大戦末期の1945(昭和20) 年5月25日深夜、 東京駅はB-29の空襲を受けます。

駅職員の奮闘によって幸い犠牲者はありませんでしたが、南北ドームおよび内装や3階部分を焼失するなど、 駅舎は大きな被害を受けました。

戦災復興工事は戦後すぐの同年9月にはじまり、駅機能の回復と建物の安全確保を急ぐため、 3階部分を撤去し2階建てに改修されることとなりました。

工事は1947(昭和22)年3月に竣工します。

工事によって南北ドームの屋根は八角屋根に変更され、 ドームの内側は、焼け残ったレリーフ装飾類を裏に残したまま、ジュラルミン製の天井で覆われました。

中央寄棟屋根はひと回り大きくし、外壁は切妻部の3階躯体を撤去して2階建てとし、 その際外壁のピラスター (装飾用の付柱) を短くして3階部分にあった柱頭飾を2階へ移設しています。

線路側壁面は焼けた化粧レンガをとりのぞき、モルタル塗りにペイントで仕上げられました。

当初、 戦災復興工事は4~5年をもたせることを想定していたようですが、結果的に駅舎の保存・復原工事が始まる2007 (平成19)年までの60年間、そのままの姿で使い続けられました。

 

 

1.5         辰野金吾の設計

 

辰野金吾の設計

1903 (明治36) 年12月、 逓信省鉄道作業局から正式に中央停車場の設計を依頼された辰野金吾は、 バルツァーのデザインを否定しつつも、 各施設の配置計画そのものは高く評価し継承します。

日露戦争の影響もあり、設計に約7年かけて1910 (明治43)年に最終計画案を提出しました。

ただし基礎工事は1908 (明治41) 年に始まっています。

駅舎の外観デザインには、 辰野がイギリスに留学していたころ流行していた、赤いレンガに白い花崗岩・擬石の帯石を配したクイーン・アン様式の影響が見られますが、 地震が多い日本ならではの環境に配慮して、構造には鉄骨レンガ造を採用しています。

6年9か月の工期をへて完成した駅舎は、最終的に3階建てで全長300mを超える、 それまでにない大型の駅舎建築となりました。

 

辰野金吾

(1854-1919)

鉄道博物館藏

唐津 (現 ・ 佐賀県唐津市) に生まれる。

工学寮 (後に工部大学校)で政府によって英国から招聘されたジョサイア・コンドルに学び、 1879 (明治12) イギリスに留学。

帰国後は工部大学校教授を務め後進を育成した。

1903 (明治36) 年に教職を辞し、建築事務所を開設。

日本銀行本店、大阪市中央公会堂など日本の近代化を象徴する多くの建築を手がけた。

 

1.6         バルツァーの中央停車場プラン

バルツァーの中央停車場プラン

市区改正計画によって建設が計画された高架線について、政府はベルリンの市街高架鉄道を完成させたドイツに技術指導をあおぎます。

そこでベルリンでの建設に従事したヘルマン ルムシュッテルが基本案を提案し、 彼の帰国後はフランツ・バルツァーを技術顧問として招聘します。

バルツァーは高架線の建設に加えて、 中央停車場の建設計画も担当しました。

バルツァーのプランでは、 高架線西側 (現・丸の内側) の駅前広場に面して、機能ごとに4棟の建物が配置されています。

南側に改札所 (入口)、北側に集札所 (出口)が置かれ、その間に皇室用玄関と電車専用出口を配しています。

土木技術者でありながら、 建築についても造詣の深かったバルツァーは、 日本建築について熱心に研究し、 日本を代表する駅舎として、 建物全体を和風建築の意匠でデザインします。

しかし、このプランは西欧列強に肩を並べようとする風潮に満ちた当時の日本にあって、 鉄道関係者には受け入れたく、 1903 (明治36) 年にバルツァーが任期を終えて帰国すると、駅舎の設計は日本建築界の第一人者 辰野金吾に託されることとなります。

バルツァーの駅舎案はデザインこそ採用されませんでしたが、 施設や構内配置はそのまま辰野によって踏襲されており、 東京駅の建設でバルツァーが果たした役割は大きいといえます。

 

フランツ・バルツァー

Franz Baltzer (1857-1927)

ドイツ人鉄道技師。 プロシア国有鉄道にてベルリン市街高架鉄道の建設に従事。 政府の招聘で1898(明治31) 年に来日した。 逓信省技術顧問となり、 東京市街高架鉄道の設計・施工の指導にあたる。

帰国後は日本建築に関する著作を発表した。

1.7         東京駅丸の内駅舎の変遷

東京駅丸の内駅舎の変遷

- 中央停車場 (東京駅) 建設決定から完成まで-

東京駅丸の内駅舎は1914(大正3)年の創建から、戦災復興工事 (1945~1947年) と保存・復原工事 (2007~2012年) の2度の大規模な工事を行っています。

こちらではその変遷を、 模型やオリジナルの建材などで紹介します。

それぞれの工事にたずさわった人々の、駅舎にかけた思いを感じとっていただければ幸いです。

1872 (明治5)年、日本で最初の鉄道が新橋~横浜間で開通し、その後、東京と各地方を結ぶ鉄道が方面別・会社別に建設されていきます。

しかし、 東京の市街中心部は、江戸期以来、人口の密集地であったため、なかなか鉄道ネットワークを建設することができませんでした。

こうした状況を打開すべく、 明治10年代に入ると、東京の都市計画と連動して鉄道を整備しようとする 「市区改正計画」が策定されます。

このなかで市街地の鉄道として、 道路交通のさまたげにならないよう高架線を建設し、 ネットワークの中枢には、各方面へのターミナルを統合した中央停車場の建設計画が盛り込まれました。

計画から実現にいたるまでには、日清・日露戦争などの影響を受け、長い歳月を要しましたが、 1910 (明治43) 年に市街高架線が竣工し、さらに1914 (大正3)年12月には中央停車場が完成し、「東京駅」 と名づけられました。

 

1.8         東京駅丸の内駅舎

 

東京駅丸の内駅舎

創建時の階段跡

東京駅が創建した 1914 年当時、 1階から3階へと続く階段がありました。

当館ではこの鉄骨の階段跡を、創建時の様子を伝える貴重な資料としてのこし、公開しています。

現在の階段は、2007年から2012年に行われた駅舎の保存・復原工事による当館リニューアルオープンの際に、新たに設置されました。

 

2        丸の内南口

 

2.1         原首相遭難現場

丸の内の南口は何といっても原首相遭難現場です。

駅舎の完成が大正3年で事件は大正10年ですので、まだ東京駅周辺は開発途上で、今のように人はいなかったとは思いますが、警備が甘かったのでしょう。

原首相遭難現場

大正10年11月4日 午後7時20分、 内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向っていた。

そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、 いきなり、刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。

原首相はその場に倒れ、駅長室で手当を受けたが、すでに絶命していた。

犯人は、原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し 背後関係は不明であった。

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