関ヶ原(関ケ原)は、岐阜県不破郡に位置する地名であり、日本の歴史における最大の合戦「関ヶ原の戦い」1600年の舞台として知られています。
豊臣秀吉の死後、天下の権力を握ろうとする徳川家康(東軍)と、豊臣家への忠義を貫く石田三成(西軍)が激突した戦いです。
全国から計15万人以上の大軍が集結し、わずか半日ほどで決着がついたとされています。小早川秀秋らの裏切りによって東軍が勝利し、家康は江戸幕府を開く足がかりを築きました。
その関ケ原の戦いを思い描きながら、かつて武将たちが戦ったその地を実際に歩いてみました。
目次
1 関ケ原駅
出発は関ケ原駅です。

まずは岐阜関ケ原古戦場記念館を目指します。

看板が並んでいるので、写真撮りが忙しく前に進めません。

石田三成です。


三成の旗印は、それぞれの漢字を分解して解釈する最も有名で代表的な説です。
「一(大一)」:一人の人間
「万(大万)」:万民(全ての人々)
「吉(大吉)」:大きな幸福・吉兆
つまり、「一人が万民のために尽くし、万民が一人のために尽くせば、天下に大きな吉(平和や幸福)が訪れる」という相互助け合いの精神を表しています。

大谷吉継
永禄2年(1559) 近江国に生まれる。
豊臣秀吉の小姓として仕える。
慶長5年(1600)、 関ヶ原の合戦では、西軍の最後部にて中山道の防備に当たる。
大谷諸隊をまとめ、藤堂、京極らと戦うも、 小早川隊らに襲われ、 自刃する。

黒田長政
永禄11年(1568) 播磨国に生まれる。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦では、石田三成と対峙し、家康につく。
東軍の主力として活躍し、 東軍を勝利に導く。
合戦後、 筑前国52万3,000石を与えられ、 福岡城主となる。

福島正則
永禄4年(1561) 尾張国に生まれる。
幼時より豊臣秀吉の小姓として仕える。
慶長5年(1600)、 関ヶ原の合戦では、 東軍の主力として最前線で活躍。
合戦後、 安芸、 備後国49万8,200石を与えられ、 広島城主となる。

小早川秀秋
天正10年(1582) 生まれ、3才の時、 豊臣秀吉の養子となる。
文禄3年(1594)、秀頼誕生に伴い、 小早川隆景の養子となり秀秋と改名。
慶長5年(1600)、 関ヶ原の合戦では、大谷隊をつき西軍敗北の原因をつくる。
合戦後、 備前国、 美作国51万石を与えられ、 岡山城主となる。

島津義弘
天文4年(1535) 薩摩国に生まれる。
慶長5年(1600)、西軍として関ヶ原の合戦に参加するも不動。
西軍の敗戦が決定的になったとき、 敵陣への正面突破という捨て身の戦法で難を逃れ(島津の退き口)、海路、薩摩国に戻り蟄居。
合戦後、当主島津忠恒が上洛し徳川家康に謝罪、これにより島津家は薩摩国、大隅国60万5,000石を安堵される。
当日、関ケ原は濃霧に包まれていました。
辰の刻ころ霧も晴れ、 徐々に西軍の旗指物が見え始めました。
これを見て東軍の井伊 松平隊が宇喜多隊に向けて発砲をするとともに、福島隊も宇喜多隊に 攻撃し戦端の火蓋が切られました。
同時に東軍が岡山烽火場より戦闘開始の狼煙をあげました。
戦闘が開始され、 両軍の優劣ははっきりせず石田隊と黒田・細川・加藤隊、大谷隊と藤堂・京極隊、特に宇喜多隊と福島隊は激戦を重ねていました。
この間、黒田隊の攻撃により石田隊の島左近が負傷、更に東軍の度重なる波状攻撃を受けましたが、 石田隊も応戦したため、 東軍の前線も押し戻されました。
西軍の予想以上の善戦により、東軍は押され気味となりました。
家康は桃配山より、 前線の陣場野に陣を移しましたが、戦況は好転しません。
戦況有利と見た三成は、 南宮山の毛利、 松尾山の小早川に向けて総攻撃の狼煙を上げました。
しかし、吉川隊は家康と内通しており、毛利隊の参戦を阻みました。
同じく家康と内通していた小早川隊も応じませんでした。
正午になっても勝敗は決しません。
西軍の反撃も激しくなってきたため、家康は、松尾山の小早川隊に向けて、 催促の一斉射撃を行いました。
それに反応し、遂に小早川隊は大谷隊に攻撃を開始しました。
小早川隊の裏切りにより西軍は浮き足立ち、大谷隊もなんとか持ちこたえたものの、 脇坂隊らも加わることにより遂に破れ、 吉継はその場で自刃しました。
大谷隊が敗れ、 東軍の総攻撃を受け、宇喜多隊、 小西隊も崩れました。
西軍の諸隊が敗走する中、 石田隊は頑強に東軍と 抗戦していましたが、な東軍に、遂に石田隊が北国街道方面へ敗走し、戦いはついに決着し ました。
島津隊は、自ら攻撃を加えることもなく自陣に近づくものは打ち払うという姿勢で合戦に参戦して いました。
西軍総崩れとなり、最終的に残った島津隊は、家康の本陣前を突破し、東軍の諸隊を振り切る形で、牧田を経て伊勢街道方面へ脱走しました。
慶長5年(1600年)9月15日
天下の覇権を狙う徳川家康率いる東軍と、これを阻止するために挙兵した石田三成ら西軍が、関ヶ原を舞台に、天下分け目の決戦を繰り広げた。
両軍布陣後も前夜からの深い霧で見通しがきかない。
薄暗い霧が、これからここで起こる激戦を予知するかのような空気さえ醸し出していた。
緊張感の漂う中、無言の睨み合いは続く。
霧が少し晴れた辰の刻頃、東軍 井伊・松平隊が 西軍宇喜多隊に発砲し、決戦の火蓋が切られた。
総勢82,000余の西軍が必勝の陣形で東軍を迎え撃つ。
一方、東軍は74,000余。 東軍の総大将徳川家康は、当初、桃配山に本陣を置くも、その後、最前線近くまで本陣を前進させ、東軍の士気を高める。
午の刻頃、家康からの圧力もあり、小早川隊は反旗をひるがえし、同調した他の隊とともに 大谷隊を衝く。大谷隊の敗走後、小西、宇喜多隊も敗走。
さらに石田隊も勇猛果敢に応戦するが、挽回の余地なく敗走した。
天下分け目の決戦は、開始よりわずか半日あまりで勝敗が決まった。
2 岐阜関ケ原古戦場記念館

正3年(1575年)に起きた「長篠の戦い」の様子を描いた伝統的な『長篠合戦図屏風』の一場面を模写したものです。
中央上部には徳川家の家紋である「三つ葉葵」の馬印(標識)が描かれています。
災害時などに備えた緊急用飲料水備蓄タンク(セーフティータワー)ということです。


2.1 展望台
円が展望台から見える範囲です。
正面に見える山麓が、石田三成が陣を引いた笹尾山です。
前田利家
[1538-1599)
尾張国愛知郡荒子村 (名古屋市) の土豪の家に生まれた。
織田信長に 仕え、 戦功により赤母衣衆 (信長の親衛隊)に加えられた。
天正3(1575) 年、越前国を与えられた柴田勝家の目付役として同国府中 (福井県越前市)に赴き、天正9(1581)年8月には能登一国を与えられ、大名格となった。
豊臣秀吉と親密であったことから、本能寺の変の後は天正11 (1583)年のヶ岳の戦いで秀吉方につき、加賀国北半分を与えられた。
さらに文禄4(1595)年に中国でも領地を加増され、石高は83万石におよんだ。
慶長3(1598)年に利家は家督を息子の利長に譲ったが、 秀吉から後事を託されたため、秀吉の遺言に従って秀頼の後見役として大坂城に入った。
秀吉死後、徳川家康は無断で政略結婚をすすめるなど断が目立ち、石田三成ら奉行衆と対立した。
この際、三成と対立する加藤清正 福島 正則ら「武断派」の豊臣系大名が家康に加勢して一触即発の状況となったが、利家の調停により事なきをえた。
このように秀吉死後の豊臣政権で 重要な位置を占めた利家であったが、病により慶長4(1599) 年閏3月3日に大坂の自邸で病没した。
利家の死後、 政情は不安定となり関ヶ原合戦 に至る。
豐臣秀吉
[1537-1598]
尾張国愛知郡中村(名古屋市)の生まれ。
織田信長に仕え、抜群の知 略と行動力をもって頭角をあらわした。
はじめ木下藤吉郎と名乗っていたが、天正元(1573)年に長浜城(滋賀県長浜市)の城主となった頃から羽柴姓を用いた。
天正10(1582)年に信長が本能寺の変に倒れると、交戦中の毛利輝元と急ぎ和睦し、山崎の戦いで明智光秀を破った。
その後、ライバルの柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、ついで小牧・長久手の戦いを経て徳川家康を臣従させた。
これに続き、四国の長宗我部氏、九州の島津氏、関東の北条氏、東北の諸氏を次々と屈服させ、天正18(1590)年に天下統一を 成し遂げた。
また、この間の天正13 (1585)年に関白、翌年に太政大臣となり朝廷から豊臣姓を受けた。
しかし、文禄元 (1592)年からの朝鮮への侵攻 (文禄・慶長の役)は、朝鮮 水軍の抵抗などにより苦戦した。
この結果、現地で戦う加藤清正や福島正則らと戦況を報告する立場の石田三成らの間で対立が生まれ、豊臣 家臣団の間に亀裂が生じた。
秀吉は、関ヶ原合戦の2年前の慶長3 (1598)年8月18日に、合戦の火種と幼子の秀頼を残し、伏見城 (京都 市)において63歳で波乱の生涯を閉じた。
豐臣秀長
[1540~1591]
若くして秀吉に従い、政治・軍事面で才能を発揮して秀吉の天下統一に貢献した。
天正5(1577)年の播磨攻めでは、勢いにのる秀吉軍は但馬の朝来・養父二郡をも占領し、秀長は竹田城(兵庫県朝来市)に入って城代を任された。
天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦い後は、播磨・但馬の守護を任されて姫路城を居城とする。
また同13(1585)年の紀州攻めでは副将を務め、平定後は紀伊・和泉の二国を与えられ和歌山城に移った。
さらに続く四国攻めでは病気の秀吉に代わり総大将を務め、戦後に大和一国と伊賀の一部 を加増され総石高は百万石余におよび、 郡山城 (奈良県大和郡山市) を居城とした。
天正14(1586)年に豊後の大名・大友宗麟が国元の家臣に出した手紙 には、秀長が「内々の儀は宗易 (千利休)、公儀の事は宰相(秀長)にお任せあれ」と言ったと記されている。控えめな補佐役というイメージが強い秀長であるが、豊臣政権を支えているという矜持をもった人物であった。
天正18(1590)年に病が悪化、天下統一の総仕上げの小田原征伐には参加できず、留守居を務めた。
同年10月19日に秀吉が郡山城の秀長を 見舞い、病気平癒の祈祷も行われたが翌年1月22日に秀長は城内にて 死去。享年52歳。
3 御霊神社
御霊神社由緒
慶長五年九月十五日(一六〇〇年)東軍の将徳川家康と西軍の将石田三成の軍十五万余の将兵が運命をかけ関ヶ原一帯において展開された所謂関ヶ原合戦であります。
この合戦で幾千、幾万とも言われる将兵がこの地に屍をさらし、中には子孫も絶え慰霊すら行なわれていない将兵が数多くあると思われます。
この諸霊を祀るため、広く有志の浄財を呼びかけ幸い本年は関ヶ原合戦三百八十周年を機として、神社建立の運びとなった次第であります。
毎年九月十四日に慰霊祭を厳修します
昭和五十五年四月
関ケ原振興会

4 貴船神社(きふねじんじゃ)
水不足に悩まされた地域とのことです。
貴船神社は水の神様をお祀りしている神社です。
古くから「水神の総本宮」として崇敬を集めており、清らかな水を司る神様として知られています。
貴船神社の総本社(本宮)は、京都府京都市左京区にあります。

貴船神社
鎮座地 関ヶ原町字陣場野
たかおかみのかみ くらおかみのかみ
御祭神 高龗神(闇龗神)
御祭神の系譜
高龗神 祖父は伊邪那岐神 祖母は伊邪那美神父は火之迦具土神
闇龗神 高龗神と同一の神
年中行事 祈年祭 三月二十一日 秋の大祭 十月第一土曜日 新嘗祭 十一月
御創建の由来
昔から陣場野地区は用水の便に恵まれず、わずかな日照りにも井戸水が枯渇した。
大正八年(一九一九年)、当時の関ケ原村は大日本紡績(現ユニチカ)の工場誘致を行なったが、それにより地区人口も急増し、ますます用水不足が切実となり、困り果てた住民は、この苦境から脱するため、大正十五年(一九二六年)一月に、大規模な汲み上げ施設(隧道工事)を計画、関ケ原村の援助を受け、直ちに着工し、同年四月に完成をみた。
このとき歓喜に沸いた住民一同は、水神として有名な京都の貴船神社の祭神高龗神の分霊をもらいうけ、地区の鎮守とした。
5 関ケ原町歴史民俗学習館


壬申の乱、中山道関ケ原宿、近代の歴史遺産など、合戦以外の関ケ原の歴史を紹介しています。
松尾山城
松尾山城は織田信長の近江侵攻に利用された後、慶長5 (1600)年の関ヶ原の戦いにおいては、 石田三成が大垣城主伊藤盛正に、毛利輝元を入れるために改修をさせています。
現在残る多くの遺構は、 その時のものであると考えられています。
戦いの前日、突如小早川秀秋が布陣し、 東軍勝利の立役者となりました。
6 関ヶ原古戦場(徳川家康最後陣地)
床几場(しょうぎば)
関ケ原の戦いに大勝した徳川家康は、論功行賞の判断材料とする め、この場で床几に腰掛け、 方が討ち取ってきた敵将を自ら首実検 た。
実検した首や戦場の遺骸は首塚を造らせて葬られた。
関ケ原町内には東首塚と西首塚が存在する。
敵味方を問わず戦死者を弔うのは戦国時代の慣習とされ、死者への表敬の儀礼でもあった。
正面中央の土壇と周囲の土塁や松は、天保12 (1841)年に幕府の命を受け、この地の領主・竹中家 (13代重明)が築いた。
7 決戦の地


西軍は総兵力で東軍を上回っていたが、開戦から積極的に戦っていたのは石田三成、宇喜多秀家、 小西行長、 大谷吉継らごく一部だった。
西軍に与しながら、事前に東軍へ内通していた松尾山の小早川秀秋は去就を決めかね戦況を傍観。 南宮山 (垂井町) の毛利秀元は、やはり東軍に内通した一族の吉川広家に進路を塞がれ、南宮山麓の安国寺恵瓊ら諸隊も動くことができない。
小池村に布陣した島津義弘に至っては専守防衛の姿勢で敵味方構わず討ち払っていた。
それでも、黒田長政らの猛攻を幾度も押し返した石田隊をはじめ西軍諸将は善戦し、正午 頃まで一進一退の攻防が続いていた。
桃配山に布陣した徳川家康は、いち早く陣を進めて全軍を指揮したが、この状況に極めていらだったといい、煮え切らない秀秋に向け鉄砲を撃ちかけたと言われている。
しかし、秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなる。
その時ここ決戦地一帯は、最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍隊で埋めつくさ れていたと考えられる。
東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わる。
天下分け目と言われる国内最大級の戦いは、わずか半日程度でその幕を閉じた。
8 笹尾山交流館
西軍主将・石田三成が陣を敷いた「笹尾山」の麓にある観光案内・休憩施設です。
本物の兜や甲冑の着用体験(要予約)が楽しめる体験型スポットです。

参戦した武将たちの甲冑が展示されていました。

9 笹尾山

関ヶ原合戦のあらまし
西暦1600年(慶長五年)九月十五日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。
豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年六月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ。
八月会津攻めから引き返した家康は、
九月一日江戸を発ち、十四日には美濃国赤坂に着陣した。
この間家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。
一方豊臣家への義を重んじた三成は八月下旬から大垣城に立てこもっていたが、急遽十四日の夜大垣城を出て早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。
西軍の動きに呼応し、午前七時頃には家康は関ヶ原の桃配山に陣取った。
午前八時東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いて井伊直政隊が発砲し、かくして決戦の火ぶたは切られた。
地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形をとった西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた。
しかし、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業を煮やした家康が、小早川の陣に向けて誘い鉄砲を打たせると、気が動転した小早川は味方の大谷吉継隊を襲い吉継は自刃、ここに形勢は逆転した。
正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜多秀家隊と崩れ、頑強だった石田隊も敗走をはじめた。
桃配山家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、内応した吉川広家に阻まれ最後まで参戦することなく陣を引いた。
最後に残った西軍の島津義弘隊は、正面から敵中突破を敢行し、多良方面へ去り、家康の追撃中止命令が下った。
時に午後二時半のことである。
天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五家の所領を大きく削ったという。
その後大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川三百年の太平の基礎を築いたのであった。
10 島左近陣跡
左近島陣地
島左近 (清興・きよおき)は、「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われたほどの将で、三成は自らの俸禄の半分を与えたとの逸話が残る。
関ヶ原の戦い前日には、杭瀬川の戦いで東軍の中村一栄らの軍勢を破った。
当日はここ笹尾山に布陣し、攻め寄せる黒田長政や細川忠興ら東軍を幾度も押し返す活躍を見せたが、長政の家臣、菅六之助(菅正利)の射撃 で負傷し、奮戦の末、討ち死にしたとも、戦場を脱したともいわれる。 これを機に、善戦していた石田隊は徐々に押し込まれていった。
11 石田三成陣跡
島左近の陣跡の上に位置しています。
笹尾山は北国街道を押さえる位置にあり、高所で盆地を一望でき、防御に適している。
石田三成隊約6千は、西軍諸隊とともに前日の夜半に大垣城を出て、合戦当日の午前1時 頃ここへ布陣した。
午前8時頃に戦いの火蓋が切られると、 黒田長政や細川忠興ら兵力で勝る東軍諸隊が猛攻を仕掛けるが、 島左近(清興) を中心に石田隊は獅子奮迅の働きを見せ、東軍を幾度も押し返す。
しかし、左近が 黒田隊の射撃で負傷し戦線から脱落すると、石田隊も徐々に押し込まれる。
西軍は善戦していたが戦っていたのは一部の部隊だけだった。
島津義弘は三成の度重なる参戦要請を拒否。
午前11時頃、三成はここから総攻撃の烽火を上げたが、 松尾山の小早川秀秋、南宮山 (垂井町)の毛利秀元らは動こうとしない。
その最中、正午頃に秀秋が東軍へ寝返り均衡は崩れる。
大谷吉継隊が壊滅すると、西軍諸隊は次々に崩れ敗走。
勢いに乗って押し寄せる東軍 諸隊を相手に、石田隊は決死の覚悟で踏み止まり奮闘した が、午後2時頃にはついに壊滅。
三成は再起を期して、 背後の 伊吹山方面へ逃れていった。




山の麓の小高い所に、石田三成の本陣があった

慶長5(1600)年9月15日、 日本列島のほぼ中央、 交通の要衝であるここ関ヶ原において、 天下分け目の戦いが繰り広げられました。
天下の覇権を狙う東軍・徳川家康と、豊臣政権の維持存続を図る西軍・石田三成の雌雄を決する戦いは、この関ヶ原盆地において東西両軍あわせて約15万人の兵が激突しました。
笹尾山は西軍の石田三成が本陣を構えたところです。


12 島津義弘陣跡
小池神明神社の由来
鎮座地 関ケ原町字神田一八七一-一
旧社格 無格社
御祭神 左社殿 秋葉神社 火之迦具士命
右社殿 神明神社 天照大御神
由 緒
当社の創建年紀は不詳であるが、秋葉神社を勧請し祀ったといわれている。
日照りの時には関ヶ原では町中廻り持ちで「雨乞い」をすることになっているが神神しく信仰するために神明神社を勧請された次第。
もともと当社は慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦時には現在地ではなく字西甲斐墓一九五〇番地の丘陵に祀られていたが西軍の将 島津維新は陣地として好適地につきこの境内を本陣とし戦勝を祈願したといわれている。
又嘉永六年(一八五三)火災にあい都合により隣地の現在地に移転し元の礎石は薩摩軍の使った井戸の側に残っている。
惜しいことに慶長以後の棟札が残っていたが、嘉永六年(一八五三)の火災で焼失してしまった。
例祭日 秋祭り 十月二日
春祭り 三月十七日
御神徳 天照大御神 国土平安 国家隆昌 五穀豊穣
火之迦具士命 火災消除 家內安全 厄除開運


島津義弘(惟新)陣跡
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。
「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。
関ケ原町
「関ケ原戦跡踏破隊(せきがはらせんせきとうはたい)」の名碑
鹿児島県日置市の青少年で組織する関ケ原戦跡踏破隊は、昭和三十五年から毎年夏休みを利用して関ケ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。(途中電車等も利用)
この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて設置しています。
また、関ケ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で関ケ原町と日置市(旧伊集院町)は、昭和三十八年に兄弟都市盟約を結んでいます
関ケ原町
島津義弘隊1千5百余は、未明までに関ケ原へ入り、この地から北西約250メートルの薩摩池付近に陣を敷いた。
二番備えとして石田三成の側面の守りと、北国街道の押さえを任される。
開戦後は、自ら攻撃 に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両軍にかかわらず打ち払う姿勢をとった。
三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成の家臣・八十島助左衛門 が下馬しなかったことを無礼として、激怒し追い返す。
その 後、三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、 面々切に手柄 次第に相働くべく候」と呼応しない。※今日の合戦は、各々が好き勝手に手柄を立てられる よう戦いたい。
一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返りにより戦況は一変。
東軍の猛攻に耐え切れなくなった西軍諸隊は次々に敗走する。
孤立した 島津隊へ東軍諸隊が迫る中、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、撤退を決める。
西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、東軍諸隊が群がる正面を突破し、 伊勢街道を南方に抜ける進路をとる。
島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。
13 小西行長陣跡
慶長5 (1600)年、 徳川家康は会津征伐のためとして東下、それを好機と石田三成らは、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ大坂で挙兵し、関ヶ原の戦いの幕が開く。
西軍は、 西上する家康らを美濃・尾張国境で迎撃しようと、三成自身も大垣城に入城する。
しかし、東軍の福島正則らは、三成の予想に反し先んじて美濃に侵攻。
岐阜城をはじめ西軍の諸城を次々と陥落させ、大垣城にほど近い赤坂 (大垣市)に集結する。
後を追って9月14日 に着陣した家康は、長期化が 予想される大垣城攻めを避けるため、 「東軍はそのまま大坂に西上する」という噂を流させた という。
西軍は、 東軍の西上を阻止しようと雨の中、夜半に大垣城を出発。
15日未明までに、最左翼の笹尾山に三成、小池村に島津義弘、 天満山に小西行長と宇喜多秀家が着陣。
先に布陣していた藤川台の大谷吉継や、南宮山 (垂井町)の毛利秀元率いる毛利勢、 松尾山の小早川秀秋と合わせ、鶴翼の陣で東軍 を迎え撃とうとする。
後を追う 東軍は、 関ケ原の盆地中央に 進出、 福島正則を先陣に魚鱗の陣を形成した。
雨があがり、霧が晴れ始めた午前8時頃、 東軍の松平忠吉と井伊直政が抜け駆けして宇喜多隊に発砲。
天下の覇権を賭けた 国内最大級の戦いが、ここ関ケ原 で繰り広げられることとなった。

小西行長は、 宇土城 (熊本県 宇土市) で肥後 (熊本県) 半国を領していたが、同じく肥後 半国を治める加藤清正と政治 的に対立を深めていた。
慶長の役の対立も絡み、 これが文治派・武断派分裂の一因とも言われる。
文治派の石田三成らが挙兵すると西軍本戦の当日は、夜明けまで に約6千の兵を率い、北国街道 と東山道 (中山道)の間に位置 る北天満山に布陣。
午前8時頃に開戦を告げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川安らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまう。
小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し総崩れとなり、小西隊も敗走。
行長自身は春日 (揖斐川町) 方面へ逃走した。
熱心なキリシタンで自害できなかったと言われ、19日に関ケ原の庄屋・林蔵主を介して自首し、この地を治める竹中重門の家臣の手で捕縛された。
これに出された徳川家康からの感状は、今も関ケ原町に伝わる (小西召捕感状)。林蔵主は、はじめ行長に逃げるように薦めたが、最後には東軍の陣へと送り届けたと伝わる。
行長はその後、10月に三成らとともに京都の六条河原で処刑された。
14 東首塚
関ヶ原の戦いでは、両軍合わせ15万余とも言われる兵が集結した。
戦死者数は諸説あり未だはっきりしていないが、夥しい数に上ったであろう。
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、 戦いで破壊された神社の修復や、 首実検に供されたり戦場に残された夥しい戦死者の処理を命じた。
関ケ原一帯を領していた竹中重門は、その命を受けて遺体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営した。
敷地内には、文化14(1817)年に建てられた首級墳碑が残る。
墳墓は、 国史跡指定された昭和6(1931)年の官報に、「周囲5間、 高さ5尺(周囲 9メートル、高さ1.5メートル)の円塚」 とあるが、風化によるものか現在はその形を留めていない。
玉垣に囲まれそびえるスダジイの古木が残るのみである。
唐門と供養堂は、 尾張藩第7代藩主・徳川宗春に関連する建造物といわれる旧山王権現社(名古屋市) の一部を昭和17(1942) 年に移築したもの。
戦いの後に敵味方の区別なく供養を行うのは当時の習わしであり、東西両軍の戦死者の供養は、 現在に至るまで時代を通じ丁重に行なわれている。
15 首級墳碑(しゅきゅうふんひ)
首級墳碑(しゅきゅうふんひ)
文化14 (1817)年、 関ケ原宿本陣の主を務める古山兵四郎は、 関ケ原の戦いの地が将来忘れ去られることを危惧し、首級墳碑を建設した。
要旨は次のとおり。
「徳川家康が東国で勢力を拡大したため、 石田三成は豊臣政権が不利と見て兵を挙げた。 慶長5(1600) 年9月、関ヶ原において両勢力が激突したが、 三成側が大敗。 家康は東西2箇所に首塚を造り、 全ての首や遺骸を葬らせた。 豊臣のために犠牲になった者を納め葬ることは仁義に厚く、 家康の教えが泰平の世をもたらしたといえる。 将来この首塚が丘や谷に変わり果てることのないよう願うものである。」
16 松平忠吉と井伊直正陣跡
徳川家康の四男松平忠吉(まつだいら ただよし)と、その舅で徳川四天王の一人として名高い井伊直政は、ここより約200メートル東、現在のJR 関ヶ原駅付近に約6千の兵を率いて布陣した。
忠吉はこの戦いが初陣で、 直政が後見役を務めた。
関ヶ原に布陣した徳川家直属の兵力は、家康の本隊約3万、 他に本多忠勝の約5百のみ。 家康の嫡男・秀忠が率いる別部隊は、未だ東山道(中山道) の途上にあり間に合わない。
このため、 先鋒は豊臣恩顧の福島正則に任されていた。
しかし、徳川家が先陣を切ることが重要と考えていた直政は、午前8時頃、 忠吉とともに数十騎を従え、 福島隊の脇を進み抜け駆けする。
正則の家臣・可児才蔵 (吉長) に咎められるが、 直政は初陣の忠吉に合戦の見聞をさせると弁明し、そのまま宇喜多秀家隊に近づき発砲。
抜け駆けされた福島隊も続いて発砲し、戦いの火蓋が切られた。
戦いは東軍の圧勝で幕を下ろすが、 直政と忠吉は戦いの終盤に戦地から脱出する島津義弘隊を追撃するうち、反撃を受け負傷してしまう。
二人はこの傷が原因で後に亡くなったという。
17 電柱が語る関ケ原豆知識と武将物語
関ケ原はただ歩いているだけで、飽きさせないように電柱のカバーに関ケ原の戦いに関係する豆知識や武将の物語を表示してくれています。
今回、歩いた範囲で撮影したものをアップしますが、域内の電柱はもっとあるはずなので電柱だけを目当てに歩けば、沢山の蘊蓄を集めることができると思います。
三献の茶 (さんけんのちゃ)
石田三成は寺小姓であった際、偶然立ち寄った豊臣秀吉に茶碗の大きさと温度を変えた茶を三度献じ、その気遣いから秀吉に引き立てられたという逸話がある。
石田三成
豊臣家への義を貫き挙兵。
大垣城から関ケ原に転進し、実質的な総大将として笹尾山にて東軍を迎え撃つも、小早川秀秋らの反応により敗北。
島津義弘
前日の作戦会議で夜襲を主張するも、聞き入れられず戦意を失った義弘は、本戦では積極的には戦わず目の前に来た敵だけを相手にしたという。
横槍
両軍が戦っているときに、別の部隊が側面から槍で攻撃すること。
そこから、仕事中などに第三者が横から口を出して妨げる行為「横槍を入れる」の語源となった。
島津義弘
甥の島津豊久と共に約千の軍勢を率いて参戦。
西軍が敗走する中、家康本陣の前を敵中突破。
追撃により多くの犠牲を払う猛烈な撤退戦を行った。
井伊の赤備え
戦国屈指の精鋭部隊と言われている井伊直政軍は、兜や鎧を始めとする戦いで使用する全ての装備品を赤色で統一し、『井伊の赤備え』と呼ばれ恐れられていた。


























































