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緑豊かな世田谷公園・平和資料館

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東京都世田谷区池尻にある世田谷公園は、緑豊かな敷地に多彩な施設が揃う区立公園です。

シンボルの大噴水を中心に憩いの場が広がり、ファミリーでの休日やお散歩に最適です。

 

1       噴水広場

芝が噴水を囲むスロープに張ってあるため、噴水を見ながらごろごろしてお弁当を食べたり、おしゃべりしたりして過ごすことができます。

2       プレーパーク

子供達の遊び場です。

3       ミニSL乗り場

丁度、休止していました。

 

4       蛇崩遺跡

蛇崩遺跡 (世田谷区遺跡 No.96) は、 世田谷区池尻一丁目および下馬一丁目にかけて所在する遺跡です。

遺跡は、 武蔵野台地南東の目黒台上に位置し、 目黒川の支流である蛇崩川左岸のやや舌状に張り出した台地上に立地します。

これまでに4度の調査が行われており、縄文時代中期の竪穴住居跡が複数検出され、当時のムラの跡と考えられています。

今回の発掘調査は、 都立青鳥特別支援学校の新校舎建設に先立って行われる発掘調査で、蛇崩遺跡の包蔵地範囲の北側にあたる約8,000 平米を調査対象とします。

「蛇崩」は、蛇行する崖や斜面の崩れやすい地形を表すもので、古くから地理的特徴を示す名称として存在していました。

崩れた崖から大蛇が出たという江戸時代の文献「新編武蔵風土記稿」もあります。

トピックス

今回の調査は、令和6年11月から開始しました。

5つの区画に分割して調査を進めており、3月現在では、調査地北~西側の区画を終了し、 南東側の区画で調査を行っています。

調査の終了した北~西側の区画では、近現代の土地の改変で既に削られてしまっている部分も多くありましたが、西側の区画からは、縄文時代中期の竪穴住居跡 4軒を部分的に検出しました (写真1)。

特にSIO20 とした竪穴住居跡はよく残っており、柱穴や火を焚いた炉跡、 埋甕等の施設を検出し、縄文時代中期後半の加曽利E式土器を中心とした約2,500 点の遺物が得られました (写真2・3)。

現在調査している南東側の区画でも、縄文時代中期の竪穴住居跡を複数確認しており、土器片等の遺物も多数出土しています(写真4)。

蛇崩遺跡は、これまでの調査により縄文時代中期の集落跡と考えられており、今回の調査でその集落がどのような広がりをみせるのか明らかになることが期待されます。

まだ大半の区画が未調査ですので、今後の調査の進展をお待ちください。

(令和7年3月現在)

5     東京オリンピック・パラリンピックレガシー

JRA馬事公苑で馬術競技が開催され、 無観客ではありましたが、世界の人馬が集まり、 熱戦が繰り広げられました。
オリンピックレガシー (遺産)として、 大会組織委員会より障害物を譲り受けました。

東京2020大会のためにデザイン・製作され、実際の競技で使用された実物を展示しています。

JRA馬事公苑で馬術競技が開催され、 無観客ではありましたが、世界の人馬が集まり、 熱戦が繰り広げられました。
オリンピックレガシー (遺産)として、 大会組織委員会より障害物を譲り受けました。

東京2020大会のためにデザイン・製作され、実際の競技で使用された実物を展示しています。

5       世田谷区立平和資料館

鮭革の子ども靴
本来靴を作るために使われる牛革が戦争で使われ、手に入りにくくなったときに、代わりに
鮭の革を使って作られた代用品。

寄贈者が3歳のときに七五三で履いたもので、 子どもの祝い事に、少しでも良いものを送ろうとした親の思いが垣間見えます。

栗林一路 (1924-2013、 くりばやし・いちろ)さんは、 世田谷区奥沢に生まれ育ち、 青山学院から出陣学徒として1944年に入営しました。

学徒動員される前後数年間のイラストとユーモアでもって記された日記には、戦時期における栗林さんの生活が生き生きと描かれています。

これらの日記や詩集などを息子さんが寄贈してくださいました。

徴兵された人々

明治6(1873)年に制定された徴兵令により、 満20歳になった男子は徴兵検査を受ける必要がありました。

昭和2(1927)年、 徴兵令は兵役法に変わりました。

この兵役法 (同年に制定された施行令、施行規則を含む)により、徴兵検査では、身長が155cm以上あり、 体格や健康状態が良い者は甲種に分類され、 その大半は現役兵として入営しました。

また、 甲種に次ぐ者は乙種となり補充兵となりました。

丙種に選ばれた者は第二国民兵として、 戦時になった際に召集されることになり

ます。 検査の内容は身長や体重を測るだけでなく、 視力や聴力の検査、 精神に異常がないかの検査もありました。

身長が150cm 以下、 精神や身体が健康ではない者は丁種に分類され、兵役が免除されます。

徴兵はされる本人にとっては、身体的苦痛、 心理的負担、 そして経済的負担がありました。

徴兵から逃れたいと、あえて体を傷つけたり、逃亡して失踪した人もいました。

戦争が激しくなるにつれ、 入隊の基準が引き下げられ、さらに多くの人が軍務につきました。

戦争状態になってからは、 現役兵以外のものも一時的に入隊させる、 「召集」も行われていました。

召集する際に発行された臨時召集令状は、赤色をしていたため 「赤紙」 と呼ばれていました。

徴兵検査で現役兵にはならなかった者も、赤紙が届いたら兵隊として戦争に参加することになりました。

昭和18 (1943)年には、 就学中による猶予がなくなり、 大学や高等学校に在学中のものが学業を中断し、 入営するという 「学徒出陣」も行われました。 また、 国民兵役の年齢が40才から45才に引き上げられたり、 徴兵の適齢が20才から19才に引き下げられたりして、兵員が増加しました。

 

国家総動員法(1938年制定)は、政府に対し、帝国議会の承認を経ずに人権や財産権を制限し、人的・物資的資源を戦争に回す強力な法的権限(勅令制定権)を与えました。

この中の「国民徴用令」などが、国民を特定の労働現場へ配置する直接の根拠となりました。

学徒動員(学徒勤労動員)は、国家総動員法に基づき、学生・生徒を労働力として組み込んだ制度です。

挺身隊(主に女子挺身隊)は、成人男性の出征によって生じた軍需工場の深刻な人手不足を補うため、未婚女性らを組織化した労働部隊です。韓国では、女子挺身隊と慰安婦が混同されていますが、本来は別物で、「女子挺身隊に応募・徴用されると、戦地に連れていかれて慰安婦にされる」という流言飛語(噂)が広がっていたことが原因です。

徵用

徴兵されていない男性は、昭和14 (1939)年に公布された「国民徴用令」により、 労働力として動員されました。

最初は学校卒業者、 無職者などに限定されましたが、 その後徴用対象が拡大し、技能者以外のものも対象となり、 対象年齢も広がりました。

戦争のための労働力として、多くの人は自分の元々の仕事や生活から離れ、動員されてしまいました。

 

学徒勤労動員

戦争末期、国民学校高等科の児童や中学校 高等女学校の生徒などが戦争のための労働に動員され、授業ができなくなり、 建物疎開 (空襲による被害を防ぐため、 あらかじめ建物を取り壊すこと)や軍需工場での作業を行なっていました。

軍需工場は爆撃の標的となるため、そこで働いていた多くの人々が空襲で亡くなってしまいました。

 

女子挺身隊

女子挺身隊は、女子に対する強制的な労働を強いる政策でした。

十四歳以上二十五歳未満(のち十二歳以上四十歳未満)の未婚の女性が、戦争に出征した男性労働者の代わりとして、主に軍需工場で働くことになりました。

早朝から深夜の勤務の上、食べ物も乏しく、 男性と同じ内容の仕事にも関わらず給料は安いという過酷な労働条件のなか働いていました。

そのため体調不良者が続出しました。

参考: 吉田裕 森武・伊香俊哉 高岡裕之 「アジア・太平洋戦争辞典」

 

物と金で戦争を支える

: 供出と貯蓄

戦争に必要な物資は、広く民間からの供出が求められ、 特に兵器生産のために金属の供出が求められました。

最初は廃品だけが集められていましたが、 次第に金属製の鍋や釜など一般家庭の日用品や、建物の鉄柵や門扉、 さらにお寺の鐘なども対象となりました。

農家には、 米や野菜、 馬糧などの農作物の提供が求められ、負担となりました。

また、 動物の毛皮を使う軍需品もあるため、 牛や馬、 ウサギ、 さらには犬の供出も強制されました。

また、戦争をするにはたくさんのお金が必要になるため、 民間からお金を集めることにもなりました。

政府は節約を呼びかけるとともに、 貯蓄の目標金額を設定し、さらなる貯蓄や、国債を買うことを奨励しました。

しかし、 債券は終戦直後に起こった急激なインフレにより、実質価値がなくなってしまいました。

供出と貯蓄では隣組が重要な役割を果たしていました。 建前上は自主的な協力になっていますが、 実際に供出しない選択はなかなかできないことでした。

 

陸軍のまちと世田谷

駒沢練兵場をはじめ、 世田谷区には数多くの軍事施設がありましたが、 これらの施設が設置されるまでは、静かな農村地帯が広がっていました。

軍事施設ができたことで、農家は、 軍馬から出る馬糞を肥料として利用し野菜などを作り、多くの兵士の食糧をまかなうことが出来ました。

また、 鉄道の整備等で人の移動も多くなり、 農業・商業ともに発展していきました。

焼夷弾(しょういだん)は、爆発の衝撃ではなく、激しい炎で目標を焼き払うための兵器です。中にはゼリー状のガソリン(ナパーム)や化学物質などの燃えやすい薬剤(焼夷剤)が詰まっています。

上空から投下されました。

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