トロッコ嵯峨駅は、保津川渓谷沿いを走る観光列車「嵯峨野トロッコ列車」の発着拠点として賑わい、館内には実物のSLを展示する「19世紀ホール」を併設しています。
今回、ここから亀岡まで保津川に沿ってトロッコ列車で景色を眺めながら上流を辿ります。
目次
1 トロッコ嵯峨駅とジオラマ京都JAPAN




野宮神社 「斎宮行列」 御所車
「斎宮行列」は京都嵯峨嵐山の秋の風物詩として、 毎年10月の第3日曜日に行われます。 野宮神社から斎宮代は、官人官女などを従え当トロッコ嵯峨駅前を経由して嵐山渡月橋に向かいます。
その後大堰川(桂川) の嵐山北乗船場で、斎宮代による「御禊の儀 (みそぎのぎ)」 が行われ、 雅楽も奉納されます。 この『御所車』は「斎宮行列」 で実際に使用され、 催事期間以外はこちらに保管・展示されています。
2 19世紀ホール(19th CENTURY HALL)
トロッコ嵯峨駅に隣接する展示館で、19世紀の産業革新をテーマにSL(D51などの蒸気機関車)やベーゼンドルファーのグランドピアノ、大型パイプオルガンなどが展示されています。
現在の嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)の線路やトンネル・橋脚(保津川渓谷沿い)は、明治32年(1899年)に鹿島組(現・鹿島建設)によって建設・施工された歴史パネルが展示されています。
随分な難工事であったという事です。
鹿島組は江戸時代に大工の棟梁・鹿島岩吉が江戸で店を構えたのが起源ですが、日本の近代化に伴い鉄道建設へ参入。ダム建設なども手掛け成長した企業です。
京都鉄道を建設した鹿島組 ①
鉄道請負・鹿島組の誕生
○時代背景
明治5(1872)年の新橋~横浜間開業以降、全国で鉄道建設が進められていたが、外国人技術者への依存や通訳を介した施工指導、役所が直接作業員を集めた施工等では、 多くの路線で工事の遅れが生じていた。
○鉄道請負・鹿島組の誕生
当時の鉄道局長 井上勝は、 実力・信頼がある鉄道請負業者の必要性を痛感し、 その人材を探していた。
毛利公爵邸西洋館を普請中の鹿島岩吉・岩蔵父子の仕事ぶりに目をとめ、 鉄道請負への転進を勧める。
この要請を受けた鹿島岩蔵は、 明治13 (1880)年5月に大工・鹿島方から転進し、 ここに 「鉄道請負・ 鹿島組」 が誕生した。
明治13 (1880)年5月から、 敦賀線 (長浜 敦賀間)のうち、柳ケ瀬トンネル (1,352m) 前後の約8kmの施工を開始する。
当該路線は、 高さ約9mの築堤や深い切土区間を有し、 渓流沿いに多くの橋梁と5本の短いトンネルが連続する難工事であったが、 これを完成させた。
その後も鹿島組は全国で進む鉄道建設に携わり、優れた施工実績を重ねることで「鉄道の鹿島」 としての信頼を確立していくことになった。
京都鉄道を建設した鹿島組②
京都鉄道建設へ参画
○時代背景
京都鉄道は明治29 (1896)年に京都から建設が始まり、 平坦な京都~ 嵯峨間10kmは翌30 (1897) 年に開通した。
一方、 嵯峨~亀岡間(現:嵯峨野観光鉄道線) では、 京都の侠客 『いろは』 による工事妨害により、施工業者が次々に変更となり、 京都鉄道株式会社は困り果てていた。
○鹿島組が京都鉄道建設に乗り出す
義侠心あふれる鹿島岩蔵は、旧知の京都鉄道株式会社重役・ 浜岡光哲から、この区間の工事を請け負うよう懇願され、 これを引き受けた。
腹心で鹿島の三部長のひとり池田亀吉を代人として向ける。
○侠客 「いろは」 との交渉
池田は工事の成功は困難と判断して現地入りを断る。
新見七之丞を向けるが、 工事費の増額なしでは引き受けられないと報告。
京都の侠客「いろは」の横暴ぶりは、当時、 全国で鉄道建設を手掛けていた鹿島組にとってさえ厄介な問題であった。
最後に派遣された星野鏡三郎は「いろは」 に対し、 時には毅然とした態度を示しながら粘り強く交渉を重ね、 ついに理解と協力を取り付けた。
施工中は、 万一に備え、 鹿島組随一の気骨と腕っ節を持つ前田健次郎を現地へ送り、 「いろは」 との交渉を一手に担わせ、 巡査経験者による警備体制により工事妨害を防いだ。
「いろは」 にはトンネルのれんが積み工事の一部を任せることで対立を協力へと転換し、 工事を進めていく。
京都鉄道を建設した鹿島組 ③
嵯峨・亀岡間 (現:嵯峨野観光鉄道線) の建設①
○嵯峨・亀岡間の建設
嵯峨~亀岡間は、 断崖や川、山が連なる嵐峡の険しい地形を通る区間であり、水面から約12mの断崖上に1/100の勾配で亀岡へと登る線路を敷設する必要があった。
また、8箇所のトンネルと51箇所の橋梁の新設が必要であり、 明治期の鉄道建設を代表する難工事の一つであった。
○景観への配慮
保津峡は景勝地であり、景観や保津川下りへの配慮が求められた。
このため、工事資材の運搬に用いる軽便鉄道の敷設区間が制限され、 嵐山付近では曳き船の使用が指定された。
また、護岸は石材の大きさまで定められ、保津川への土砂流出防止や風光明媚な景観の維持が厳命された。
○トンネルおよび橋梁の建設
トンネル (れんが造) は8箇所あり、 最長の朝日トンネルは499mであった。
設計を担当した小川資源は構造物の意匠にも関心を持つ技術者であり、景勝地である保津峡に配慮して、 坑門に特徴的な意匠を採り入れた。
京都鉄道を建設した鹿島組 ④
嵯峨・亀岡間(現:嵯峨野観光鉄道線)の建設②
○橋梁の建設
橋梁は小規模なものが多いが、 最長の保津川橋梁では保津川下りへの配慮から河川内に橋脚を設けず、 径間280フィート (85.34m)の単径間トラス橋を採用した。
これは当時の標準設計であった200フィート(61m) を大きく上回る規模であった。
橋台にも保津川下りからの景観を考慮し、意匠性を持たせた。
○材料調達の工夫
石材は鹿谷産、砂利は保津川上流の宇津根大橋下流、 まくら木は丹波北桑田産の木材を使用した。
また、 れんがは丹波亀山城跡に工場を設けて製造するなど、資材をできる限り近隣から調達して工事費を節減した。
一方、鉄材、 レール、セメント、 電柱、 化粧石等は他地域から調達した。
○工事の完成
当該区間は上述のような難工事であったが、 明治30 (1897)年4月に着工、 予定工期より7カ月も早い明治32(1899)年8月に竣工した。
この工事の完成により、 鹿島組の信用はますます高まることとなった。





