日比谷公園は、1903年に開園した日本初の近代式洋風公園です。
東京都千代田区に位置し、ビジネス街のオアシスとして親しまれています。
ドイツ式庭園の技法を取り入れた「第一・第二花壇」には、四季折々の花やネモフィラ、チューリップが美しく咲き誇ります。
園内のシンボルである「大噴水」や、日本最古の「鶴の噴水」がある雲形池など見どころも豊富です。
さらに、音楽堂や公会堂といった文化施設、歴史ある洋風レストランも併設されています。広大な敷地では年間を通じて様々なイベントが開催され、豊かな自然と高層ビル群が織りなす、都会ならではの美しいコントラストが魅力のスポットです。
現代の地図と江戸時代の地図を並べています。
この地図では日比谷公園は、「松平大膳大夫慶親」=長州藩(山口藩)の13代藩主である毛利敬親(もうり たかちか)の屋敷が、
南側は、「松平肥前守(まつだいら ひぜんのかみ)」=幕末に肥前国・佐賀藩(現在の佐賀県)の第10代藩主を務めた名君、鍋島直正(なべしま なおまさ)の屋敷がありました。
皇居側に近い北の有楽門から入ります。


幕末までは松平肥前守(まつだいら ひぜんのかみ)等の屋敷地で、 明治初期には陸軍練兵場となっていたところでした。
当初から近代的な「都市公園」として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、日本初の「洋式庭園」として明治36年(1903年)6月1日に開園しました。 (開園面積: 161,636m)
文化の先駆者としての公園設計者 (本多静六等)の意気込みが随所に感じられます。
そして、 それは今日に伝えられ、広く利用されています。
今日に至るまでに、関東大震災や太平洋戦争により改修等をおこなってきましたが、心字池(しんじ いけ)・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っています。
花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、公園を訪れる人々の憩いの場になっています。
目次
1 日比谷見附跡
日比谷見附跡
この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓(わたりやぐら)・番所が石垣でかこまれていましたが、 石垣の一部だけが、ここに残っています。
当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、 心字池としました。

日比谷門跡
門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。
1614年(慶長19年)に熊本藩 (現在の熊本県) 藩主加藤忠広によって石垣が築造され、1628年(寛永5年)に仙台藩(現在の宮城県) 藩主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。
日比谷門は現在の日比谷交差点付近にありましたが、1873年(明治6年)に撤去されました。
現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残りです。

2 心字池
心字池
ここは日比谷公園ができる前は濠でした。
その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると 「心」の字をくずした形をしています。
このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉、室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。

3 仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。
慶長六年(1601年)、 政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、 外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。
その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。
政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。
政宗は江戸参勤の折、 寛永十三年(1636年) 五月、ここで七十年の生涯を閉じた。
伊達政宗が江戸初期に拝領し、政宗の臨終の地ともなった日比谷(外桜田)の上屋敷は、明暦の大火で江戸の大部分とともに全焼しました。
江戸城(特に日比谷門付近)に近い日比谷エリアは、広大な「火除地(ひよけち=防火帯)」や幕府要人の屋敷地として再編されることになり、大名たちの屋敷は城下から郊外や沿岸部へ移転させられました。
伊達家も日比谷の土地を幕府へ返還(収公)することになりました。
伊達家の屋敷が去った後の日比谷の地には、後に長州藩毛利家や薩摩藩島津家などの屋敷が置かれました。幕末までそれらの藩邸として使われた後、明治維新によって政府に接収され、現在の日比谷公園や官庁街へと生まれ変わっています。
4 旧日比谷公園事務所
旧日比谷公園事務所
我が国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治43年(1910年) 11月に竣工したドイツ・バンガロー風の瀟洒な建物です。
昭和51年(1976年)より公園資料館として内部を改造して使われていました。
明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして、平成2年(1990年)3月22日に東京都指定有形文化財に指定されました。
建物の規模は、桁行 12.6m、 梁間 7.2mです。
この建物は日比谷公園事務所として明治43年(1910) 当時の東京市授師福田重義氏 (1887-7971)の設計にはバンガコー様式をとりいれて 造られたものである。当時としてはきわめて斬新なもので貴重な公園建造物である
東京都指定有形文化財(建造物)
旧日比谷公園事務所
(東京都公園資料館) 一棟
所在地 千代田区日比谷公園
指定 平成二年三月二二日
旧日比谷公園事務所は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治四三年(一九一〇)一一月に竣工した建物である。
設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。
建物の規模は桁行一二・六メートル、梁間七・ニメートル。現在、内部は一階部分に倉庫・物入・厨房・便所、二階部分にベランダ・ホール・展示室・事務室などが設けられている。
昭和五一年(一九七六)に公園資料館として使用するため内部を改造しているが、構造の躯体、軸組、外観の変更は僅かでよく旧態を留め、二階の展示室にある腰板・棹縁天井・ベイウィンドーの腰掛け、また階段などに当初の名残りがある。
この建物は、洋式の日比谷公園に相応しいように設計されたドインガロー風の瀟洒な建築物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとし建築史上貴重である。
平成二年一二月二七日
東京都教育委員会

5 松石
松石
今から3~5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没された後、珪酸質の液がしみこんだものを珪化木といいます。
北九州の炭田では、炭層中に珪化木が含まれこれを松石または松炭と呼んでいます。
ここにあるものは、昭和初期、 福岡市外亀山炭坑の地下300mのところから長い木のまま発見されたものの一部です。
6 第一花壇にある「ペリカン噴水」
ペリカンは第一花壇の北側にあります。


有楽町にある複合商業施設「東京ミッドタウン日比谷(日比谷三井タワー)」がよく見えます。
7 ルーパロマーナ(第一花壇の西側)

ルーパロマーナ
(ローマの牝狼)
この彫像は、昭和13年(1938年) にイタリアから東京市に寄贈されたもので、ローマ建国の大業を成し遂げたロムルス、レムス兄弟の有名な伝説に基づいた像です。
幼い兄弟は、祖父を殺し王位を奪ったアムリウスによってチペル河に流されましたが、 忽然と現れた一匹の牝狼に助けられ、その乳を飲んで成長し、成人した兄弟は祖父の仇を討ちローマを統一したと言われています。
1938年(昭和13年)にイタリアから当時の東京市へ寄贈されたブロンズ像のレプリカです。
オリジナルはイタリア・ローマのカピトリーノ美術館に所蔵されており、ローマ市の象徴としても知られています。
味の素スタジアム(東京都調布市)の南側レストラン街「ポケットガーデン」にも、日比谷公園の像とまったく同じ「カピトリーノの牝狼(ルーパ・ロマーナ)」のレプリカ(複製)があります。
味スタのほうは、2001年(平成13年)に東京都とローマ市の友好都市提携5周年、および「日本におけるイタリア2001年」の記念行事として、ローマ市から東京都へ改めて寄贈されたもので、新しいです。
8 自由の女神像

彫刻家・乗松巌(のりまつ いわお)氏による作品『自由』(通称:自由の女神像)です。

開園時から現在と同じデザインの第一花壇
江戸時代から花卉園芸は大衆の趣味でしたが、 明治に入って西洋の美しい 花を愛でることで、 新たな展開を見せ始めます。
日比谷公園は市民が洋花を 見ることができる数少ない場所でした。
洋花を提供した第一花壇は公会堂予定地を利用してつくられたものですが、 洋風花壇にはチューリップ、パンジー、バラ、 ダリアなど、 初めて見る洋花 が数多く植えられ、人気が高くそのまま今に残されることになります。
この間、 関東大震災後は花壇にも被災者のバラックが並んだり、 2.26事件 のときは花壇脇に据えた野戦重砲の射程の邪魔になるとして、シュロの木が 伐採されたりしました。
一方、ここでは昭和5年(1930) を第1回目として花壇展覧会が催され、 昭和26年(1951) からは野外創作彫刻展も行われました。
期待された西洋式の公園デザイン
日比谷公園のある土地は入江を埋め立てた低地でした。
文明開化の都市生活の中で、中心的な位置に公園が必要と され、東京市区改正設計により、明治36年(1903)に日比 谷公園が生まれました。
まだだれも 「西洋式公園」 を知らない時代に、本多静六案 に収斂されるまで、様々な設計案が提出されるも、決定に は至りませんでした。
時代・社会の要望に対応し柔軟に変化する空間
日比谷公園は開園当初から大きな骨格は変わっていませんが、 震災や戦争などの非常時も含めて、 時代や社会の要望にフレキシブルに対応してきました。
その場所は主に、 現在の草地広場のところです。 公園を設計した本多静六博士の当初の設計案では、 この場所は日本庭園が計画されていましたが、 採用 には至りませんでした。
草地広場と健康広場周辺には児童遊園やプール、 動物園があった時期もあります。
また、 第二次世界 大戦中は野菜畑にもなりました。
児童遊園は、 明治 43年(1910) 当時は少年用の鉄棒と木製ブランコが あるだけでしたが、 その後、 児童遊園は拡大してい きました。
大正11年(1922) 頃から遊びの指導が始められ、 関東大震災後はネーチャースタディ (自然学習)の考え方により、さらに力が注がれ、 昭和4年(1929)に は日比谷児童クラブができます。
児童遊園にはたくさんの子どもたちが集まり、 昭和15年(1940)には 2,850坪に達し、 児童指導員23名を擁したほどです。 戦後に入り、 児童遊園も、 指導も徐々に縮小し、 遊園 は昭和57年(1982)に廃止になりました。
9 雲形池



鶴の噴水
この噴水は、明治38年(1905年) 頃東京美術学校(現在の 東京芸大) の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、 公園 等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。(1番目は長崎、 諏訪神社、 2番目は大阪、箕面公園)
当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下が る景色は、当公園の冬の風物詩となっています。

10 京橋の欄干柱
京橋の欄干柱(らん かんばしら)
この石柱は、明治8年(1875年)築造された京橋の 欄干柱で、 大正11年(1922年) 架け替えの際にここに 移されたものです。
当時は、橋名を刻んだ親柱もありましたが、昭和9年 (1934年) 京橋の橋台地が整備されたときそちらへ移されました。

11 野外大音楽堂
解体工事中でした。

12 ネモフィラの庭

2分咲きでした。ひたち海浜公園にはかないませんが、都心でアクセスも良く手軽に見学できます。
13 芝生広場

都心にある大きな芝生広場です。皆さんごろごろして過ごしていました。
















