史跡 美術館/博物館

文豪が愛した熱海・起雲閣

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熱海・起雲閣は個人の別邸からはじまり、高級旅館をへて、現在観光用の建物として利用されています。

特に昭和初期の旅館時代は、数多くの文豪がここに宿泊し、後世に残る作品が書かれました。

起雲閣の入口の門です。

1918(大正7)年、内田信也により「内田別邸」として拓(ひら)かれたのが、この 「起雲閣」の始まりです。

その後、1925(大正14)年には鉄道王の異名を持つ根津嘉一郎の手に渡り、 「根津熱海別邸」として意匠を凝らした洋館や庭園の整備が進められました。

第2次世界大戦後の1947 (昭和22)年、 桜井兵五郎が旅館「起雲閣」として開業してからは、山本有三、 志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治といった日本を代表する文人たちにも好まれ、特に舟橋聖ーや武田泰淳は、その表作をはじめとする数多くの作品をここで執筆しました。

そして2000 (平成12)年、 熱海市はこの由緒ある建物と庭園を文化と観光の拠点とするために整備し一般公開しています。

門を抜けて玄関までの道です。

1        麒麟

玄関前の大広間です。

起雲閣の歴史を綴ったパネルです。

歴史については後程、各時代に分け説明してあります。

パネル右上は歴代の起雲閣のオーナーの写真です。

左から内田信也、根津嘉一郎、桜井兵五郎となります。

碁盤と碁石。

これは、昭和24年2月に、この部屋で呉清源と本因坊薫和が行った打込み十番碁の最終局で使用されたものです。

 

2        大鳳

2F(麒麟の上)にあります。

「大鳳」は 10畳の御居間と8畳の次の間からなる二間続きの座敷で、庭側の三方に畳廊下を廻してございます。

壁の色は旅館起雲閣になって塗り替えた色を配しております。

こちらの「付書院」 は、 組子を割り竹で作っており、竹の節を模様のように取り入れているようにも感じられます。

通常の障子と違い節がある分、 障子張りは手間がかかります。

太宰 治は昭和23年3月18日から2泊 「大鳳」のお部屋に山崎富栄を伴って滞在しております。

二人で入水自殺する3ヶ月前の事です。

二人は、どのような心境でこの部屋から庭園を眺めていたのでしょうか?

創設時(大正8年) の歪んだガラス窓からは、 根津嘉一郎が手がけた庭園を真下に見ることができます。

根津嘉一郎は山梨県出身です。

故郷に流れる笛吹川を想い 「根津の大石」 の傍を流れるように池を配したのではないでしょうか。

こちらからは洋館 「玉姫」 のガラス張りの屋根がご覧いただけます。

下はステンドグラスを配したサンルームです。

 

3        玉姫

玉姫・玉渓

根津嘉一 郎により 1931 (昭和6)年に着工、 翌1932 (昭和7)年に完成したこの建物は、「サンルーム」、これに続く 「玉姫」、そして主室となる 「玉渓」 の3部屋からなっています。

ステンドグラスの天井とタイルの床が印象的なサンルームは、 “アールデコ” のデザインを基調としています。

天井とともに屋根もガラスで葺かれていて、これらは、鉄骨によって支えられています。

天井と高窓の間に施された唐草模様の装飾は石膏を刻んだものです。

玉姫は、正面中央に暖炉を据えた洋式のデザインを基本にしていますが、 桃山風の天井をはじめ、長押を廻した真壁、欄間、暖炉周辺、 建具などに和風の造作が見られます。

また、細部の装飾には獅子頭や 『喜』 の文字をデザイン化した中国風の文様が散りばめられ、シルクロード沿いで広く見られる唐草模様も取り入れられています。

玉渓は、“チューダー様式”に“名栗仕上げ”を取り入れたヨーロッパの山荘風の仕上がりを見せています。

しかし、 暖炉の覆いにはサンスクリット語の飾り、入口の天井には竹があしらわれるなど、独特の空間となっています。

また、暖炉脇の古い円柱は、古い寺か神社の柱とも、江戸時代の千石船の帆柱ともいわれていますが、これらは床柱と床の間にも見立てることができます。

この建物の上下に開閉する窓の両側の柱は内部が空洞になっています。

ここにワイヤーでに繋がれた鉛の錘が吊り下げられていて、 滑車によって上下に開閉する窓の動きを滑らかにしています。

 

 

4        庭園

庭園について

根津嘉一郎の庭園好きは夙(つと)に知られ、 築庭の際には、自ら現場を指揮し、 職人に混じって働いたというエピソードをしばしば耳にする。

現在根津美術館のある青山本邸の敷地選定について根津は「私は土地を求めるのは第一に水の豊富に湧くところ」 を条件としたと述べているが、 熱海別邸の敷地も庭園の中央を小さなせせらぎが横切っており、 さきの条件にかなって、購入したものと思われる。

葛山朝三氏の 「根津邸の大石」 (『熱海新聞』 省は22年6月)より引用「今の昭和にある起雲閣は、戦前は山梨県出身の財閥、 根津嘉一郎の別荘であった。

根津さんはたいへん石が好きで、ときどき熱海付近の山を見て歩き、 気に入った大石を見つけると、金にまかせて別荘の庭に運ばせたものだ。

私たちが子供の頃、 和田山へ行く狭い道をふさいで、 大きな石に人がたかって引っ張っているのをよく見かけたことがある。

この石運びの仕事は、 水口町 20-16、 熱海造園の石井彰一さんが全部やっていた。

石井彰一さん(当時 77歳)は 『植彰』 の名で知られた熱海では古い植木屋さんで、 負けん気の人で、 未だに老人会には出ず、 若い衆といっしょに仕事に熱中している元気者である。

彼にそのころの様子を聞いてみた。

以下は彰一さんの話である。

「根津さんへは随分石を運びました。 そうですね、 大正の末から昭和4年頃までの間だったでしょう。

多賀の山から 70~80 個、 和田山から50~60個、 それに真鶴の岩から 70~80個も運びました。 中でも大きかったのは梅園の撫松庵の上にあったカグラ石です。 20 トンもあったでしょうか、10人以上の人がこの石にとりついて2ヶ月もかかって引っ張りました。

道具といえば今のようにクレーン車もなければブルドーザーもない。

まずチェーンブロックで吊り上げソリへ乗せます。

道には枕木を敷いてウインチを巻きながらそろそろ引っ張って行くのです。

狭い道ですから勿論、人も車も通行止めになってしまいました。

このため警察からは呼び出されては叱られ何度もストップされました。

そんなわけで2ヶ月かかってようやく根津邸まで運びいれたのですが、いま考えるとまったく悠長な話です。

この根津さんがまた変わった人で、 少しも旦那ぶったところがなく、 自分も職人の中に入ってスコップを持ち、 モッコを担ぎました。

困難を極めた石の運搬ではありましたが、 主人もいっしょに仲間に加わって働く姿を見ると職人連中もいつしか気分が乗って、まるでお祭りの山車でも引くかのように、少しずつ動いていく大石を、 一面楽しみながら引っ張っていたように思われました。」

このカグラ石は現在の起雲閣の池の水の元口に近いところに西に向かってデンと据えられている。

「根津邸へ運んだ石で、もう一つ忘れられないのは、 多賀の宮川のいまの浄水場の上から運んだ大石です。

これは10トンぐらいだったでしょうか。

この運搬には横浜からトラクターを借りてきました。

ドラクターは1日の借料が 150円で、 熱海へ来るだけで1日かかりました。

まず石を乗せる車ですが、 いまのトラックのように荷台の上へ積むのではなくて、 枠だけで出来ている車へ石を抱え込むようにして地面からわずかに吊り上げ、 それをしっかり固定して、その車をトラクターで引っ張るのです。

多賀から熱海までの道は狭いしそのうえデコボコがひどかったので、途中で車輪が道路にめり込んで往生しました。

それで、 車輪を上げるのには何時間もかかり、 一般の車は多賀から網代まで繋がってしまい、警官は飛んでくるし大騒ぎになりました。

何しろそのころ私はよるに警察署でやる稽古に通っていましたから、部長さんとも顔なじみになっていました。

それで大目玉を食いながらも、始末書と罰金50銭だけで許してくれました。

このときの交通渋滞はよほどひどかったとみえ、 話は伊豆一円に広がり、しばらくの間はこの辺の同業者仲間では大きな話題になったもんです。」

とにかく、 いまも起雲閣には、彰一さんの言うように、何百もの大石が運びこまれているからここの庭も大したものである。

葛山朝三氏 「根津邸の大石」

( 『熱海新聞』 昭和22年6月)より引用

 

 

5        展示室

旅館起雲閣 (昭和22年~平成11年) の時代は、多くの文学者や政財界の著名人、 文化人らが訪れておりますが、 その主だった著名な文学者をご紹介しております。

山本有三、 志賀直哉 谷崎潤一郎はそれぞれ文化勲章受章者であり、昭和23年3月15日にはこの三大文豪が起雲閣「玉渓」にて文学対談を行っており、 その際の三人のダンディーな容姿に下駄履き姿がアンバランスな貴重な写真は必見です。

なお、平成7年6月20日には池田満寿夫, 杉本苑子、佐藤陽子 (それぞれ熱海市在住でした) の三人による文化座談会も「玉渓」で行われております。

舟橋聖一は昭和27年1月から連載の 『芸者小夏』 など夏子シリーズの作品は、 和館 「孔雀」 「大鳳」を仕事場として長期滞在し、 執筆したと伝えられております。

『女の四季』の直筆原稿などの展示も見応えがあります。

太宰治は昭和23年3月7日から31日まで、 今は無き起雲閣別館 「雲井の間」 にて 『人間失格』 を執筆致しました (写真展示あり)。

また、 その間3月18日から起雲閣本館「大鳳」に山崎富栄を伴って、 2泊滞在しております。

旅館当時は太宰治(故人)を偲んで 「桜桃忌」 を行ったこともあったようです。

三島由紀夫、竹下景子、仲代達矢ほか、当時、 熱海は新婚旅行のメッカであり有名人も多数宿泊しておりました。

文豪に愛された起雲閣の素晴らしさをご堪能下さい。

起雲閣

 

 

一枚の写真の物語り

三月上旬、偶然のことから一枚のネガフィルムが発見されました。

とても手に入らないと思っていた一点でした。

その内容は、起雲閣の庭園で写した山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎が写っている、あきらめていたフィルムでした。

これを使ってパネルを作り、起雲閣の展示物へ加えるべく作業を始めましたが、先ず、ネガのサイズが現在ある引伸し機に納まらないので、各方面を探し、ネガケースを改造して使用する現像所を発見し、依頼しました。

さて、撮影時の状況ですが、当時発売されたばかりの富士フィルムのネガシートキャビネ型カメラは組立暗箱で全て手動の物です。

定刻に伺うと、世話役の方が現われ、只今、御三人の話に花がさいている、しばらく待ってほしいと言われ、私としては、御相手が何しろ有名人で一息入れることができる事は何としても有難かった。

辺りを見回すと非常に立派な庭園で、造ったのは一流の庭師の仕事に違いない、御三人だけを写すのではなく庭全体を画面に入れる事とした。

やがて、御三人が庭へ現われ、足下を見ると庭下駄姿です。

洋服との調和がどうかと考えたが、声も出ずそのままとした。

流石一流の方々、ボーズは一寸も直すことなくそのままにした。

この写真が、後に熱海市が巨費を投じて起雲閣を買収する際の市民に理解を得るために使われるなど、想像も出来ない事でした。

月日は経ち、今このようなパネルが出来た点、嬉しく思うと共に、この作業を助けて下さった皆様に感謝いたします。

市政施行70周年を期し、斎藤新市長の就任を讃えて本日熱海市へ贈呈致します。

平成十九年四月吉日

今井利久記

 

尾崎紅葉の間

尾崎紅葉の「金色夜叉」で寛一がお宮と別れた「お宮の松」の投稿は以下。

尾崎紅葉の「金色夜叉」、熱海の「お宮の松」に記憶を止める

 

ここからは坪内逍遥の間。

坪内逍遥は近代演劇の父として、 日本ではシェークスピヤの戯曲を数々翻訳した 偉大なる人物です。

「人の一生は人との出逢いによって展開していく」

1879年(明治12年) ふと学生時代に訪れた熱海 (熱海=神奈川までしか開通していなかった汽車に乗り小田原までは人力車そこからは山篭にゆられての旅でした。) を契機におりにふれ訪れるようになった逍遥、 別荘を構え毎年の冬を熱海で過ごすようになります。

1920年(大正9年)から1935年 (昭和10年) に亡くなるまでの約15年間は充実した熱海での生活でした。

60歳を機に熱海在住を含め約20年間をかけてシェークスピヤ全集 40巻の訳業を完成させこのお部屋にも展示しております。

1923年(大正12年) には熱海町歌を作詞【1937年(昭和12年) 熱海市となり市制40周年

を迎えた1977年 (昭和52年) に熱海市歌】「まふゆをしらざるとこはるあたみ」 と歌われております。

今も熱海の地にねむる逍遥の墓は海蔵寺にございます。

青味がかった伊予石でまるで庭石のように置いてあるそうです。 【戒名 「双柿院始終逍遥居士」】

逍遥がこよなく愛し過ごした熱海を (我国に於ける避寒の最優勝地である上に頗る有効な温泉があり、 加ふるに、海と山と田園との三風致を兼ね備へ、 あまりに都会的設備と田舎の趣味と両立せしめているという点にある。) 思い読んだ展示もございます。

【熱海五十名家より】

 

下の絵は壁に説明にあった島田墨仙の絵ではないようです。

今度行ったときにもう一度絵があったかどうか確認してみます。

坪内逍遥像島田墨仙画(昭和10年1月)

島田墨仙(しまだぼくせん) (1867~1943)

墨仙(本名・豊)は、福井藩士・雪谷(せっこく)の次男として誕生した。

雪谷は藩主に絵を教えるなど書画に長じ、その画塾には一時、千人の弟子がいたとされる。

隣家だった橋本左内 (1859年、安政の大獄で刑死)も画塾に通っていた。

雪谷は長男の雪湖 (せっこ)と墨仙に、書画や漢籍の素読などを厳しく教育したという。

墨仙は福井中学や福井高等女学校の教員を経て、 29歳になる1896年に画家を志して上京し、木挽町狩野家の橋本雅邦に入門。

翌年、 出世作となった 「致城帰途」を発表した。

城帰途・・・赤穂の城明け渡しを決めた大石内蔵助を描いたもの

墨仙の画風は精神性を重視した当時では新しい人物画で、帝国芸術員賞を受けた 「山鹿素行先生」、 キリストや孔子、幕末の志士など、 古今東西の哲人聖賢の名作を多く残している。

また、漢学や故実を熱心に学び、 その人物の生きた時代を詳細に研究、服装や装飾品を正確に描いた。

 

 

 

6        金剛・ローマ風浴室

金剛・ローマ風浴室

この建物は、 根津嘉一郎により1928 (昭和3)年4月に着工、 翌 1929 (昭和4)年3月に完成しましたが、 1989 (平成元)年の改築により、 ローマ風浴室の位置と向きが変えられています。

建築当時は独立した建物で、部屋への入り口あたり、石張りの廊下部分が玄関となっていました。

金剛では、暖炉上方のスペード、ハート、ダイヤ、クラブを象った模様をはじめ草花の模様などが、西洋館では非常に珍しい“螺鈿細工” によって施されているほか、 柱などの随所に面取りや名栗仕上げといった加工が施されています。

床はほとんどが寄木張りに改められていますが、建築当時は、全面が陶芸的なタイル張りでした。

印象的なステンドグラスをはじめ、蝶番やドアノブなど細工が施された建具金物は建築当時のものです。

また、右手の小部屋には、 壁になっている部分にも大きな窓が設けられており、光があふれる空間であったと考えられます。

ローマ風浴室は、 ステンドグラスの窓 テラコッタの湯出口など建築当時の材料も用いて再現されました。

当時から肌触りのよさや滑り止めの効果を考えて、 浴槽の周りに木製のタイルが敷かれていたほか、畳敷き9帖の脱衣室と化粧室も付設されていた贅沢な浴室です。

ここでは、作家 舟橋聖一が起雲閣で執筆した 「雪夫人絵図」の映画化 (監督:溝口健二

出演: 久我美子・浜田百合子・柳永二郎ほか) に際し、 彼のすすめにより入浴シーンの撮影も行われました。

 

お客様へ

こちらのお風呂は、1929 (昭和4)年に根津嘉一郎により建てられましたが、改築の際天井、壁などが現在の材料に改められました。

ステンドグラスの窓、 テラコッタ製のカラン (湯出し口) 換気口金物など当時のものが、創建時の雰囲気を残しております。

浴槽の周囲には木製のタイルを敷いて、滑り止めの効果があり、肌触りのよさも配慮されております。

また、 1989(平成元)年道路拡幅工事に伴い、 ローマ風浴室は90度向きが変えられました。

 

 

7        展示室からの庭の眺め

起雲閣の建物 100年

起雲閣の建物は

  1.  内田信也(うちだのぶや) 別邸
  2. 根津嘉一郎(ねづかいちろう) 別邸
  3. 旅館 「起雲閣」
  4. 熱海市観光文化施設 「起雲閣」

という変遷をへて今日に至っています。

最初の建築 (大正8年=1919) から令和元年(2019) でちょうど100年となりました。


  • 内田信也別邸の時代(大正8年~)

    海運業で財を成した実業家 (政治家) 内田信也が母親のために建てた別荘で、当時は「湘雲荘」 と呼ばれていました。

    和館1:1階 「麒麟」 2階 「大鳳」

    和館2: 「孔雀」 が造られました。


  • 根津嘉一郎別邸の時代(大正14年~)

    鉄道王と呼ばれた実業家 (政治家) 根津嘉一郎が内田から譲り受け、庭園を拡張・整備し、 さらに洋館2棟を追加しました。

    洋館1… 金剛とローマ風浴室 (昭和4年)

    洋館2・・・玉姫と玉渓 (昭和7年)


  • 旅館「起雲閣」の時代(昭和22年~)

    根津が手放した別荘を戦後、 石川県出身の政治家(実業家) 桜井兵五郎が購入し、 旅館 「起雲閣」として営業を始めました。

    その際、 和館2 「孔雀」を移築し、宿泊者のための各室をつくりました。

    多くの文学者が訪れ、 日本を代表する文豪たちにも愛されました。


  • 市観光文化施設 「起雲閣」 (平成12年~)

    平成11年に廃業した旅館 「起雲閣」 を熱海市が取得し、 観光文化施設として一般公開を始めました。


 

8        旧大浴場

染殿の湯 由来

当起雲閣の地のうち泉源地附近を染殿と称し平安時代京都粟田口の僧善祐が住んだところと伝えられます。

善祐は寛平八年(八九六) 陽成院の御生母二条高子と人目をしのぶ仲となりために熱海へ流されたとの記録があり当時屋敷の名称てあった染殿がそのま、地名となったといわれます。

また善君は都恋しさのあまり近くに一本の松を植え日夜その枝を推し眺めたところいっとなく広さ三十歩に横たわり枝葉盡(ことごと)く都の方へ靡(なび)いたとえられ今は枯れ失せましたが染殿と共に都松の地名となって一千年前のロマンが語り継がれております

 

 

9        孔雀

孔雀

この建物は、1918(大正7)年に着工し、1919(大正8)年に完成した内田台也の別邸の一部です。

当時は、「麒麟」の並び、現在の喫茶室あたりに位置していましたが、 1953(昭和28)年、旅館の客室と宴会場 (2000年に解体現存せず)を増築するに際して現在の香準サロン(当時は大宴会場)のあたりに移され、その後、1981(昭和56)年の音楽サロンの建物の新築に席し、現在の場所に再び移されました。

10畳の座敷に8畳の次の間、これらを取り囲む畳廊下や床の間、付け書院など極めて基本的な一般的な座敷の構成ですが、現在では見ることが少なくなっています。

際立った特徴や凝った意匠が見られない比較的地味なつくりといえますが、四方柾の柱(柱の四面が全て柾目になる様に挽かれた柱)や部分的に取り入れられた??塗りなどが、落ち着いた雰囲気の中にも??や粋を感じさせています。

特に、最上の端から端までのおよそ10mを貫く天井部分の木材は見事で、二度の曳家による移動に耐えたことも肯ける丈夫な建物です。

旅館であった時代、しばしば起雲閣を訪れた作家 舟橋聖一は、この部屋を好み「芸者小夏」、「雪夫人絵図」はここで執筆されたといいます。

また、作家 武田泰淳も1959(昭和34)年、市内林が丘町にあった起雲閣別館をイメージに用いいたといわれる「貴族の階段」をこの部屋で執筆したといいます。

1992(平成4)年12月には、将棋の谷川浩司竜玉 羽生善治王産による「第五期竜王戦」の会場にもなりました。

これで大体一周しました。

外の庭は建物の中から見ましたが、もう一度庭に出て見納めです。

外の「根津の大石」の写真は撮り忘れましたので今度行った時に撮影して追加しておきます。

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