旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の主屋は、渋沢栄一の妹・てい と婿養子の市郎が明治28年(1895年)に上棟された建物です。
渋沢栄一も年に数回はこの家に帰郷していたとのことです。
渋沢家は、この地の開拓者の一族で代々養蚕や藍玉づくりを営み、「名字帯刀」を許されていました。
栄一の父親の渋沢市郎右衛門元助は、傾いた「中の家」を建て直すために一族の「東の家(ひがしんち)」から男子のいない「中の家」に養子として入りました。
とても勤勉家で、雑貨や質屋業も始め見事に「中の家」を建て直します。
藍玉の年商だけで1万両あったとのことで、渋沢記念館の説明員によると、今でいうと年商5憶位の売り上げがあったとのことです。
後の、事業家としての栄一の才能はこの父から養われたものだったのでしょう。
目次
1 正門
中ん家の入口の門です。
2 渋沢栄一像
正門をくぐると左手にあります。
ちょんまげをしてますので、若かりし頃大志を持って江戸へ向かう頃の像でしょうか。
3 主屋
2階建ての切妻造で大きさは
梁間(はりま) 建物の短手方向は5間 約9m
桁行(けたゆき) 建物の長手方向は9間 約16.4m
また西側にも3間×3間の平屋部分があります。
アンドロイド栄一が出迎えてくれます。
しかし、言葉は発せず、単に首を振るだけなので、よく見ないと動いているのかどうかは分かりません。
4 土蔵
土蔵は全部で4つあります。
梅の花がきれいに咲いていました。
梅の花の右手奥には「楷(かい)の木」があります。
大正4年(1915年)中国の孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、播種、育苗されました。その後、日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校(湯島聖堂3本(雄)、足利学校1本、閑谷学校2本(雌)、多久聖廟1本(雄)など)に寄贈されたのが最初です。
イチョウと同様、雌株、雄株の区別があります。
この木は"孔子の墓所に生える樹の孫"と書いてありましたので、これら最初の木の種から育てたものだと思われます。
儒学のシンボルとなる有名な木です。
5 地名「血洗島」の由来
「中ん家」は埼玉県深谷市血洗島にあります。
この地名の由来については、「中ん家」の隣にあるに煮ぼうとうのお店「麺屋忠兵衛」さんのテーブルに説明書きが置いてありました。
諸説あります
血洗島の由来
- 赤城山の山の霊が、他の山の霊と戦って片腕を潰され、その傷口をこの地で洗ったという伝説
- 関東一の大河利根川岸の自然の堤防の上にあり、周りの広大な河川敷は古くから大きな戦いの場となり、そこで傷を負った武者が血を洗い流した。
- アイヌ語のケッセン(岸、末端などの意)の当て字に血洗の字を当てたもの
- 利根川の氾濫により、土地が洗われる「地洗」、荒れる「地荒」が語源
6 お墓
この地区の習慣として共同墓地を使わず各戸で、自宅の近くに墓地を作ります。
渋沢家も自宅前の駐車場の横に代々の墓地が建ててありました。
家を継いだのが妹夫婦のため、栄一自体の墓所は徳川慶喜と同じ谷中霊園(東京都台東区谷中)にあります。
こちらが、栄一の母・ゑい(左)と父・渋沢市郎右衛門元助((右)のお墓です。
こちらが、栄一の祖母(左)と祖父(右)のお墓です。
お社までありました。
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