博覧強記 書籍

謎に包まれた松永弾正久秀という戦国武将

スポンサーリンク

戦国時代 織田信長 入京前の機内は三好三人衆・松永久秀が勢力争いを行う混沌とした状態でした。実際、文献を見ても足利将軍家、補佐役で管領の細川家が絡み関係が複雑で一筋縄では理解できない状態でした。

しかし、今村翔吾の「じんかん」は松永久秀に焦点を当て、彼の人生を通してこの時代を紐解いてくれます。

と言っても松永が世に出てくる前は文献がなく殆ど作者のフィクションですので、史実を忠実に捉えているかというとそうでもないですが、興味の湧く形で混沌とした信長時代前の畿内の様子を理解できます。

以降はこの「じんかん」のストーリーに沿って、松永久秀に生涯を書き留めていきたいと思います。

もしかしたら、と言うより確実に実際の松永よりも随分良いイメージで書かれています。

読了後は松永のファンになること間違いなしです。

1        出自

諸説があるようですが、「じんかん」の記載に従います。

1508年(永生5)山城国西岡(現在の京都市西京区・向日市・長岡京市の一部)の商人の家に生まれます。

幼名は九兵衛です。

応仁の乱(1467年)以降、西岡の36人もの将軍家の被官は小競り合いを続けていました。

兵糧を徴発しに来た細川家の足軽を名乗る男たちに父親が殺されます。

本では母親はその後自殺していますが、ウィキペディアでは堺に住みで84歳と言う長寿で没していると書いてあります。

その後、とある寺の住職に弟・甚助と一緒に面倒を見てもらいましたが、住職が甚助を男色の相手にしようとしたため殺してしまい、寺の住人はバラバラとなります。

人さらいに売られそうになっていたところを、多聞丸を頭とする子どもの盗賊集団に救われます。

その盗賊集団も、襲った相手の返り討ちにあい多数が殺され、松永兄弟(15、12歳)と、日夏(14歳)を残してだけになります。

3人は近くの寺で保護されそこで1年間過ごします。

そこで寺の住職・宗慶から阿波の三好元長が寺のスポンサーとなっているという話を聞きぜひとも会いたいと弟とともに元春に会いに堺に出立します。

2        堺

九兵衛が向かった堺は、摂津の国守護の細川京兆家が領有する堺北荘と、京都五山の一つ相国寺塔頭(たっちゅう)が所有している堺南荘に分かれていました。

しかし、南堺荘は利権が入り乱れて複雑です。

その南堺荘に三好元長と交友のある豪商(武具商あるいは皮革商)武野新五郎(後の茶人・武野 紹鴎(たけの じょうおう))がいます。

松永兄弟は武野新五郎の元に身を寄せながら三好元長が来るのを待ちます。

3        三好元長との出会い

武野新五郎の元に身を寄せて1.5年後に待望の三好元長に会うことができます。

久兵衛18歳、甚助15歳の時です。

ふたりは、「戦国の世を終わらせ武士を無くし民が政を執る」という元長の理想を聞きます。

夢を叶えるために元長が阿波から兵を連れて出て来るのが次の年の秋。

それまでに、松永兄弟は、堺自体が傭兵を雇い外敵からの防衛を行い自治をすることができるよう500人の牢人衆を集めるよう依頼されます。

 

4        管領細川家の内紛

物語を理解するには、松永久秀が世に出る前の管領細川家の内紛について書き留めておく必要があります。

この時代の敵味方の関係はややこしいです。

管領細川家の内紛

  • 細川政元には子供がいなかったため澄之、澄元、高国を養子に迎えます。
  • 政元が養子2の澄元を次期将軍にしようとしたため、養子1の澄之が政元を殺害。
  • 養子2、養子3の被官が養子1を自害に追い込む。
  • 養子2と養子3が反目。
  • 畠山との闘いで三好長秀が戦死。之長は養子3の高国に殺害される。
  • 細川澄元は阿波に逃れ死去。子の晴元が後を継ぐ。

5        柳生の里と堺衆

松永兄弟は牢人衆を集めるために、柳生に里を訪れます。

そこから、細川高国に追われて、山中に暮らす元宇治の領主・海老名権六と四手井源八の一団を堺防衛のために誘いだします。

彼らは堺衆と呼ばれるようになります

堺が落ち着いたころ武野新五郎は茶の湯を極めるために京都へ移住します。

そのときに久兵衛に譲った茶釜が有名な「平蜘蛛」です。

 

6        三好元長 対 細川高国

1527年(大永7年)三好元長が将軍の弟・義維(よしつな)(堺を出ることが無かったため堺公方と呼ばれました)と細川晴元と7千を率いて阿波を出立します。

桂川原の戦いで細川高国を破り京都を占領します。将軍・足利義晴は細川高国を伴い近江に逃れました。

 

その後は細川高国と細川晴元の間で、京都を取りつ取られつですが、1531年(享禄4年)に細川高国を自害に追い込みます。

 

7        三好軍の敗走→阿波へ退却

ここで世の中が収まると思えばさにあらず、将軍・足利義晴と細川晴元は力の強くなった三好を恐れて和睦し、三好と反目するようになります。

 

1532年(天文元年)三好元長は、細川晴元方の木沢長政の居城・飯盛山城を包囲している最中に一向宗の反乱に会い自害します。

残った三好勢は長男・三好長慶(11歳)と、ともに船で阿波へ戻ります。

 

8        三好長慶が畿内を征する

1549年(天文18年)、三好長慶は細川晴元に反旗を翻し、打ち破りました。

将軍・足利義晴と細川晴元は近江に逃亡しました。将軍・足利義晴は1550年死去。

その後、三好家は足利義輝(足利義晴の子)と和睦し、細川家の当主及び管領職を細川晴元から細川氏綱に挿げ替えさせました。

実際の松永久秀が歴史に登場するのはこの辺りからです。

三好長慶の右筆(書記)から始まっています。

しかし、将軍・足利義輝が三好家の力が強くなったのを危惧して、再び細川晴元側に寝返り、2つの勢力を巧みに泳いで、互いに疲弊させる画策をしたため、戦は無用に長引きました。

1558年(永禄元年)に三好長慶は足利義輝と和睦し、足利義輝-細川氏綱-三好長慶という体制に移行しました。

 

9        松永弾正久秀の三大悪

9.1         主家殺し

畿内を制したに見える三好長慶ですが、旧勢力の抵抗は止むことはありませんでした。

それらとの戦いのなか、久米田の戦い(現在の岸和田市)で弟(次男)の三好実休(みよし じっきゅう)を失い、嫡男・三好義興(22歳で病死)や自身の弟(四男)十河一存(そごう かずまさ)を落馬で、安宅冬康(三男・あたぎふゆやす)は謀反の疑いで自害させ、自身も永禄4年(1564年)に43歳で死去してしまいました。

葬儀に立ち会ったのは養子の義継と重臣は松永兄弟でした。

重臣たちは、安宅冬康のように粛清されるのを恐れて参上を見合わせたようです。

これら一連の主家筋の死に関し、松永が絡んでいるという噂です。

 

9.2         将軍殺し

三好長慶の死後 家督を継いだ三好義継が幼いのを良いことに、三好三人衆と呼ばれた三好長逸(みよし ながやす)・三好宗渭(みよし そうい)・岩成友通(いわなり ともみち)が三好の家政を牛耳ろうとしていました。

三好長慶の死の原因を、将軍・足利義輝が「毒を盛った」と半分以上の三好家中が信じていました。

実際に、将軍・足利義輝は何度も三好長慶の命を狙っていました。

そんな中、仇討をしなければ不忠だと三人衆が動き出し、それに乗り遅れまいと松永久秀の息子・久道も彼らと一緒になって将軍を襲いました。

 

9.3         東大寺大仏殿焼き討ち

1567年(永禄10年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦です。

この戦いで、三人衆が布陣した大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちました。

 

10     織田信長を支持

将軍暗殺後、三好家、松永家は窮地に陥ります。

弟・松永甚助の治めていた丹波は、国人の寝返りにあい、陥落し、甚助も死を遂げます。

また三好三人衆は三好の当主・三好義継を囲い込み、反三好の筒井順慶や畠山高正、安見宗房とも手を結んで松永久秀を攻め立てます。

劣勢に立たされた松永久秀ですが、織田信長と気脈を通じ、織田の上洛を待ちます。

1569年(永禄12)織田が上洛すると、松永久秀は、三好家の安堵を取り付け、主君とともに織田家へ降ります。

この時に織田信長に献上した品が茶入れの「九十九髪茄子」です。

この時、三好義継は河内北半国の12万石、それに対して松永久秀は大和一国40万石と主従逆転します。

そして織田の力を借りて、三人衆、筒井順慶を駆逐し、織田の天下に大きく寄与します。

 

しかし三好の存続を許された三好義継は三人衆にそそのかされて足利義昭が作ろうとした、織田包囲網に加わってしまいます。

それを見た松永久秀は織田に反旗を翻します。

結果的に、松永久秀は織田信長から和議を引き出し、三好を河内3万石で安堵されました。

にもかかわらず、三好義継は足利義昭を庇護しました。

三好義継は織田の大軍の前に陥落し、三好義継は妻子とともに自害して果て三好の主筋は絶えてしまいました。

 

11     松永の滅亡

石山本願寺攻めから勝手に陣を抜け出して信貴山城に戻り反旗を翻しました。小説では大和東大寺の戦いで、松永側に情報を流したとされる民37人を筒井順慶が探し出し、処罰しようとするのを阻止するためとのことですが、100%負けると分かっている戦をなぜ始めたのか理解できません。

筒井順慶をはじめとする織田連合軍に責められ、最後は天守閣に集められた火薬とともに爆死します。

 

とざっとこんな内容です。

松永弾正久秀はとても興味深い人ですね。大河の「麒麟が来る」では吉田鋼太郎が久秀役をやっていましたが、役柄的にはなかなか重要な役回りをしていました。

ところで、久秀が信長に献上したと言われる「九十九髪茄子」が、2021-4-10~6-6迄、世田谷の静嘉堂文庫美術館で展示されます。

会期中に是非行ってみたいと思います。

スポンサーリンク

-博覧強記, 書籍