江戸時代、鳥居耀蔵が主導した蛮社の獄(天保10年(1839年))では、当時蘭学を学ぶ同好の集団が弾圧を受けました。
その中の、中心人物である渡辺崋山は、三河(現在の愛知県東部)田原藩の年寄でした。
崋山自身は江戸詰(定府)の藩士のため、田原で生活したことは無かったのですが、獄のあとは田原の地で蟄居することになりました。
田原で謹慎生活を送った崋山の屋敷があったのが、田原市池ノ原です。
現在は、池ノ原公園として整備され、屋敷跡が公開されています。
駐車場近くの入口が公園で、その奥が幽閉されていた邸宅跡です。
目次
1 手前の公園
入口から、年代を追って碑が置かれています。
1.1 生誕の碑
生誕
渡辺崋山は、寛政5年(1793)9月江戸麹町の田原藩上屋敷で、
父・定通29歳、母・米22歳の長男として生まれました。
田原藩は1万2千石の小藩でさらに渡辺家は貧困のうえ、病身の父・老祖・母・8人の子供を抱えていました。崋山は苦しい家計を助けるために、仕事や学問をしながら、絵の修行に励みました。
江戸麹町の田原藩上屋敷跡は 「東京街歩き:渡辺崋山誕生地の田原藩上屋敷跡 --- 最高裁判所、国立劇場」 でレポート済み
1.2 立志の碑
立志
崋山は12歳の時、日本橋のそばで大名行列の戦闘にぶつかってしまい、侍たちに打たれ、殴られたりしました。
その行列は備前岡山藩35万石のもので、行列の籠の中には、崋山と同じ年ごろの若者が見えました。
崋山はその時、生まれながらの身分の違いの不平等を思いました。
そして、将来、誰もが、平等に評価される学問の世界で身を立てることを決心しました。
1.3 報民倉の碑
報民倉
天保3年(1832)家老になった渡辺崋山は紀州藩難破船流木掠(かす)め取り事件の解決・助郷(すけごう)免除・新田開発による沿岸民の不安解消などに活躍しました。
天保6~8年ごろは全国的な大飢饉の年でしたが、田原藩では、崋山の発案により、6年に穀物を蓄える義倉「報民倉」を築き、この飢饉を1人の餓死流亡者もださずに乗り切りました。このため、9年には全国で唯一幕府から表彰されました。
また、産業振興のために農政学者の大蔵永常を、藩校成章館の講師として儒学者の伊藤鳳山を雇うなど、田原藩の人材養成にも努力しました。
1.4 蛮社の獄の碑
蛮社の獄
崋山は鎖国をとっていた日本が世界の水準から遅れていることを憂えた一人でした。
高野長英(奥州水沢出身の蘭医)らとともに蘭学の研究をしていました。
天保10年(1839)蘭学の進出を快く思っていなかった幕府は、これらの研究者らを捕らえました。
この事件を蛮社の獄といいます。
崋山は未発表の「慎機論」が幕府批判にあたるという罪を受け、在所蟄居を命じられ、この池ノ原の屋敷に住むことになりました。
蟄居中に開催した門弟らの画会により、藩主に災いの及ぶことをおそれた崋山はここで自刃しました。
2 幽居跡
この奥に幽居跡があります。
崋山先生玉砕の趾(あと)
崋山先生幽囚の家
流石に当時のものではないです。
昭和30年に復元された建物とのことです。
それでも66年経っていますので、しっかりメンテされていますね。
家の中はガラス窓から覗けます。
崋山の銅像
本宅の脇に小屋がありますが、こちらで自刃されたと言われています。
3 田原城址
池ノ原公園のすぐ近くには田原城跡があります。
本丸跡は巴江(はこう)神社となっています。
二の丸跡は博物館となっています。
かつては城の周辺まで海が来ていたので、平城ではありましたが、堀と海を使って、敵の来襲を防いでいました。
3.1 空堀
駐車場からは、空堀を通って博物館に向かいます。
3.2 井戸
3.3 桜門の右の堀
3.4 城跡入口の桜門
3.5 博物館
3.6 二の丸櫓
現存する二の丸の櫓は、鉄筋コンクリート製です。
現在はここも博物館の一部となっており、昔の城のジオラマや、近くの吉胡貝塚から出土した石器や土器が展示されています。
田原は戦国時代、戸田氏が支配していました。
戸田氏の後は江戸時代、三宅氏が移封されてきました。
3.7 巴江(はこう)神社
かつての本丸がありました。
小城にしては、城跡はちゃんと保全され、観光で来た人にも見てもらえるような工夫ができていると思います。
残念ながら、当時の城は残っていませんが、石垣は昔のままなので、それだけでも見ごたえがあると思います。