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世田谷代官屋敷、玉川上水樋のある世田谷区立郷土資料館

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世田谷ボロ市のメインストリートであるボロ市通りに建つ世田谷代官屋敷は、東急世田谷線「上町」駅下車後、徒歩約5分の場所に、世田谷区立郷土資料館と並んで建っています。

1        世田谷代官屋敷

丁度行った日が、国民の祝日だったため表門には国旗が掲揚されていました。

門は写真のような茅葺の建物ですが、現在はここを通って屋敷の中に入ることはできません。

門の左側に入口があり、守衛のおじさんに挨拶をして入場しました。

表門を敷地内から見た写真です。

江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。

この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。

大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。

寛永一〇年(一六三三)、井伊家が世田谷領一五箇村(後に二〇箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。

以後、明治四年(一八七一)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。

屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約七〇坪(約二三一・四㎥)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺の表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。

平成二二年三月 建設

大場氏は、戦国大名であった北条氏支配の世田谷城の主(あるじ)であった吉良氏に仕えていた家臣の一人でした。

豊臣秀吉によって北条氏が倒されると、それに従っていた吉良氏も世田谷城を離れることになりました。

その後、東川家康が江戸幕府を開き世田谷の約半分の土地を彦根藩に与えると、井伊家は、世田谷領の支配を進めるため、大場氏を世田谷代官に任命しました。

この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものであります。

大場家は、元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したのでその役宅としても使用されていました。

江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和53年1月21日国の重要文化財に指定されました。

下の写真が現在の出入り口です。

代官屋敷の前には、幹周り 3mを超える大きなタブノキがあります。

主屋です。

玄関側から見たものと、裏から見たものを掲載します。

主屋の中の「役所の間」です。机が置いてありました。

土間(台所)の天井。

土間から板の間を見るとこんな感じです。役所の間まで壁はありません。

竈は大釜と小釜×2 沢山の使用人がいたのでしょう。

状態が良いので近年に作られた物に見えます。

お白州です。

代官屋敷に隣接していませんでした。

しかし昔の間取り図を確認すると、このお白州近くまで建物がありました。

下の古地図の左下の部分です。

井戸です。

2        世田谷区立郷土資料館

郷土資料館の玄関です。

こちらは大クスノキが玄関前に生えています。

2.1         富士講の碑

江戸時代、庶民による富士山信仰、「富士講」が流行りました。

富士山はより身近な存在として大衆にひらかれ「講」を組むことで、誰もが富士山を目指せるようになりました。

下の写真が、それを示す碑です。‘ふじ大山道’を示す「大山道」と書いてあるのかな?

山吉講富士登拝記念碑

登山三十三度 大願成就
明治三十二年十月
堀江源太郎
堀江角次郎
(以下十八名)
太田良蔵
三田惣兵衛
(以下十七名)

富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に富士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身禄が現れて庶民救済の教義を提唱した十八世紀以降のことである。

食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの枝講が生まれることとなった。こうして、富士講は十九世紀の初頭にその隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。
当富士登拝記念碑は、三軒茶屋の富士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の三十三回富士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂四丁目四三八番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際、北口本宮冨士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう一基記念碑を建てており、それも同所に現存して堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つ田中屋を経営した旧家である。
平成五年三月
世田谷区教育委員会

 

 

2.2         多摩川上水樋

一階には四谷で発掘された玉川上水の実物の樋の展示があります。

実物は、両国の江戸東京博物館で見て以来です。

 

2.3         昔の三茶

昔の三軒茶屋の写真です。

江戸時代には、本当に、茶屋が3軒しかありませんでした。

2.4         古墳群

多摩川の河岸近くの高台には集落があったのでしょう。

古墳群が見られます。

この形は、神奈川県秦野市にある桜土手古墳群の形状によく似ています。

石棺のレプリカも展示。

2.5         多摩川と遊楽

多摩川は氾濫のたびに、河道が変わるため、隣接する村毎で土地の堺を巡って争うことが良くありました。

川で分断された村が両岸になってしまうこともあり、現在でも両岸で同じ地名の場所があるのは川が蛇行していたころに同一集落であった名残です。

多摩川沿いの土地で作られた米は、川を使って、八丁堀の大名の米倉に運ばれます。

また材木は筏にして、江戸へ運ばれました。

現在の二子玉付近にある行善寺は、江戸時代、眺望は絶景で、将軍徳川家慶の多摩川御成鮎漁(鵜飼)の時の御膳所にもなりました。

昔も人が集まった場所でした。

2.6         毛利家の抱屋敷

松陰神社がある世田谷は毛利家の抱屋敷(百姓地であった土地を買い取って作った屋敷)がありました。

吉田松陰は小伝馬町で死罪となり両国の回向院に葬られましたが、高杉晋作らによりこの地に改葬されました。

2.7         玉川電気鉄道

東急世田谷線の前身の玉川電気鉄道の車両の写真です。

2.8          衛兵詰所

明治時代の映像ではよく見る形の建物です。

衛兵詰所

この六角形の建物は、太平洋戦争中、ウテナ本舗株式会社久保政吉商店(現・株式会社ウテナ)の烏山工場他(南烏山一丁目)に置かれた衛兵詰所である。

昭和二年、本郷区から南烏山に移転してきた同社は、戦禍が拡大する昭和十八年、一時工場棟を陸軍衛生材料廠に貸与した。

陸軍材料倉庫としての利用が図られたためである。

当時は材料倉庫の入口付近に設置され、その門衛所として使用されていた。

昭和六十二年に当館に移設されている。

2.9          火災報知機

こちらは初めて見ました。

火災報知機

かつては電信柱と同様に、道路際に設置されていた街頭型火災報知機である。鉄塔の下部に通報ボタンがある。

わが国で最初に同型の火災報知機が設置されたのは、大正三年に上野公園で開催された東京大正博覧会の会場であった。

以来、電話が一般家庭に普及する昭和三十年代前半まで、この報知機が消防署への通信手段として重要な役割を担っていた。

その後、電話台数の増加にともなって徐々に通報件数が減少したため、昭和四十二年には製造が中止され、四十九年までにはすべての報知機が撤去されている。本報知機は、昭和四十八年に世田谷消防署より当館に寄贈された。

2.10          ボロ市起源

世田谷のボロ市は、天正六年(一五七八)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。

掟書によるとこの楽市は一と六の日の、一ヵ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。

市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。

この市は、明治六年(一八七三)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例とになった。

市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。

ボロ市は四〇〇年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。

しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。

平成十九年三月

 

 

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