八丈島は地図で見ると「ひょうたん型」をした島であることが分かります。
今となっては、年配の人しか知らないですが、なんと昔NHKで放送していた「ひょっこりひょうたん島」(1964年4月6日 - 1969年4月4日1200回余りにわたって放送された人気人形劇で、火山の噴火で本土と陸続きだった“ひょうたん岬”が陸を離れて漂流します)のモデルとなった島だということです。
目次
1 地形の謎
そもそもこのひょうたん型はどうしてできたのか。
立体地図で見ると北に八丈富士と呼ばれる円錐形の美しい火山と、南に三原山と呼ばれる木々の生い茂った火山の二つの山が連なっているのが見て取れます。
また、島の北西には八丈小島と呼ばれるこれまた火山活動で出来た島もあります。
南の三原山は25~45万年前から火山活動を初め、4000年前に休止しています。
北の八丈富士は1万年前頃に活動を開始し、江戸時代の慶長10年(1605)の噴火を最後(宝永4年・1707年説もあり)の噴火を最後に火山活動を休止しています。
もともと2つの火山は海底火山でした。
噴火翌年の慶長11年(1606年)4月には、宇喜多秀家が八丈島へ配流されていますので、秀家にとってはとんでもない所へ来てしまったと思ったことでしょう。
ともかく、この2つの火山が繋がって、現在のひょうたんの形をした島影を形成しています。
左下にある八丈小島は実際には八丈島の左上に位置します。
2 南原千畳敷海岸
八丈富士が噴火した際に流れ出た溶岩が海に流れ落ちてできた溶岩台地です。
ごつごつした玄武岩が長さ500m、幅100mの範囲に広がっています。
南原千畳敷(なんばらせんじょうじき)
八丈富士は慶長10年(1605)の噴火を最後に火山活動を停止している休火山であるが、
それ以前悠久の昔から噴火活動が繰り返され、その都度吐き出された莫大な溶岩が、裾野を覆い、海にせり出して、このような広大な千畳溶岸の景観を造り出したのである。
正面やや左側の海岸近くまで歩を進め振り返って陸側の溶岩層を見ると、
何段にも重なっているのがよく分かります。
千畳敷からは、八丈小島が望めます。
3 永郷展望台
八丈島の北岸にある展望台です。
永郷展望台(えいごうてんぼうだい)
此処に立つと、地球の円さを示す水平線が一望されて絶海の孤島に居ることを実感し、時には望郷の念に誘われる。
天気の良い時には右手に御蔵島や三宅島が望まれ、八丈小島に落ちる夕日はあくまで美しく、大越無人灯台のスペクトルは寂しい孤島の夜を彩る。
これが大越無人灯台。
ここからの八丈小島は南原千畳敷よりも更に近くに見えます。
八丈富士の溶岩台地のせいでしょうか。
島の北側は、低木や、草の多い場所です。
約30万株のアロエが群生する、大越アロエ園は灯台から上の斜面にあります。
12月上旬~2月にはアロエの赤い花が満開になります。
アロエは南アフリカ原産の植物ですが、我が国には漢方薬として古くから持ち込まれ「医者いらず」とも呼ばれていました。
八丈島のアロエは、気候風土が合っているのか、余り手入れや肥料をやらなくても盛んに繁茂し、気が付けばこの地区はアロエだらけになったようです。
アロエの花が咲くとこんな感じです。
4 玉垣
横間ヶ浦(後述)から運んだ玉石で組んだ美しい「玉石垣」が、集落に残されています。
江戸時代の陣屋(明治以降は島役所)は、大里地区にあり、明治41年に支庁が向里地区に移転するまでこの地が政治の中心地として、島役人が暮らしていました。
現在「玉石垣」保全のための道路整備事業が進められています。
陣屋跡
享禄元年(1528)に、北条早雲の家来中村又次郎が代官として来島し、此処に陣屋を設けた。
江戸時代になると、幕府は此処を島役所(陣屋、御仮屋と言った。)とし、明治33年(1900)には東京府八丈島庁となり、島の政治の中心地だった。
しかし、明治41年(1908)には島庁が移転したため、政治とは無関係の所となった。
此処大里地区は、戦国時代から明治時代にかけて八丈島の政治や宗教の中心地であった。
右側の玉石が、陣屋跡の玉垣です。
玉石は、六法積み(ひとつの石の周囲を6つの石が取り囲む)と呼ばれる技法で積まれています。
陣屋跡の玉垣は側面が”)”字型に湾曲して、陣屋の威厳を示してるとのことでした。
古民家は2022-6現在、閉館されていました。
5 八丈富士ふれあい牧場
八丈富士の麓で牛が放牧されています。
驚くなかれ、牛舎がありません。
なので、牛たちは風雨にさらされて自然の中で生活しています。
また、牛の一頭一頭に名前が付いていて、名前を呼ぶと寄ってきます。
残念ながら、当日はガスっていて、殆ど前が見えませんでした。
晴れていると、こんな感じの景色になります。
6 大坂トンネル展望台
八丈富士や南原千畳海岸、太平洋に浮かぶ八丈小富士や玉石の取れる横間ヶ浦の海岸など、八丈島を代表する景勝地を一望できる展望所です。
道路が湾曲していますが、これはこの土地が水蒸気爆発によってできたカルデラの縁に当たるからです。
眼下に見えるのが、玉垣の石を採取した横間ヶ浦です。
石はここから大里地区まで人力で運ばれました。
大坂は島一交通の難所で、此処を境に大賀郷、三根は坂下、樫立、中之郷、末吉は坂上と呼ばれている。
隧道は日露戦争戦勝記念に掘られたが、その後莫大な費用を投入して隧道の拡幅や横間道路の改修をし、最近夢の逢坂橋が完成し、夕日の美観が八丈八景に選ばれている。
そばだてる 巌に憂きを 隔てつつ 夕日涼しく 越える大坂
鹿島 則文
大坂トンネルです。
7 名古地区
右手には小岩戸ケ鼻(こいわどがはな)の断崖が大きな弧を描き、眼下には洞輪沢湾があり、荒天の時でも港が荒れることは少ないとのことです。
子の断崖からは、名古の滝が噴き出しているとのことでしたが、肉眼では確認できませんでした。
名古秋月(なこしゅうげつ)
末吉の洞輪沢一帯を名古と呼ぶ。
洞輪沢は小さな漁港に過ぎないが、汐間温泉が湧出し、名古の滝があり、人家の周辺を清水が取り巻いていて、まさに仙境とも言うべき所である。
八丈路小間の最南端に位置し、名月観賞の最適の場所として八丈八景に選ばれている。
思ふどち いざ見に行かん 洞輪沢 波間を照らす 秋の夜の月
菊池 武真
遠くに八丈島灯台が見えます。
戦時中、爆弾を積んで体当たりする小型特攻ボートの訓練を行ったのだそうです。
安全な所にいた連中が、効果も考えずに前線の兵士を死地に追いやりました。
碑文を読むと兵士たちは如何にも自発的に祖国防衛に身を投じたように書いてありますが、生き残った上官が美化して書いているような気がします。
碑文
ここ、 展望台の真下、 八丈町洞輪沢と石積みの地は、 太平洋戦争が風雲急を告げる昭和20(1945)年3月、 八丈島防衛に備え、 海軍の特攻兵機震洋艇50隻と、 祖国の礎たらんと自ら志願した部隊長吉田義彦大尉以下189名の隊員が、 民家に分宿し、末吉区民及び海陸軍部隊の熱烈な支援を受けながら、 一艇一艦体当たりの肉弾攻撃敢行を決意し、日夜猛訓練に励み過ごした第16震洋特別攻撃隊の基地跡である。
第16震洋特別攻撃隊は、 昭和19 (1944) 年9月横須賀海軍水雷学校において編成され、搭乗員53名は、 海軍兵学校、 兵科予備学生、 特攻術准士官、 飛行予科練習生(若干17〜18歳)、 出身の精鋭であり、 整備隊員、 基地隊員には歴戦のベテラン隊員36名が配された部隊である。
震洋艇とは、 長さ5メートルの木製モーターボートの艇首に250キロの炸薬を搭載し、敵艦船に高速で体当りし、 搭乗員自らも爆死するという特攻兵機であり、 当時の海軍は、この震洋特別攻撃隊に限りなき期待を寄せていた。
昭和19(1944)年11月第16震洋特別攻撃隊に、小笠原諸島母島への出撃命令が下り、基地準備隊員は直ちに出発したが、輸送船寿山丸は父島沖で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、先発隊員57名が戦死した。
部隊再編成のあと、こんどは硫黄島への出撃命令が下ったが、同島は敵上陸作戦中の大激戦地であり出撃中止となった。 そして昭和20 (1945) 年3月本土決戦最初の砦と言われた八丈島に布陣したのである。
しかし、 昭和20(1945)年8月15日終戦の詔勅が下り、 ここに、 熱い、長い、太平洋戦争が終結したのである。 あれから数えて41年の歳月が流れた、 日本はいま驚異的な経済成長を遂げ、自由と平和の民主国家として栄えている。
赤道より、フイリッピン、台湾、日本の太平洋岸を経て、この展望台眼下を通り、アメリカにまで流れている海の中の川・黒潮、その黒潮に思いを馳せる時、かつて祖国に殉じた多数の兵士が、戦争の犠牲者が彷彿として偲ばれるのである。当時の戦歴を刻み、戦死した友の霊を奉祭し、心から悠久の平和を祈願するものである。
昭和61(1986)年10月 震洋八丈会建之
名古地区にある見晴らしの湯です。
海抜 94mの高台にあり、海と山の景色を見ながら温泉に入ることができます。
露天風呂は下の写真の感じです。
8 登龍園地
登龍園地からの眺望
登龍園地は、古くから八丈富士、八丈小島、底土港など八丈島市街地、遠く御蔵島、三宅島を望む景勝地として知られ、新東京百景にもなっています。
八丈島は最大幅およそ7.5km、北西ー南東方向14.8kmのひょうたん型をした火山島です。三原山(東山)と八丈富士(西山)の二つの山から構成され、そのあいだに平坦地が開けています。
ここ登龍園地のある三原山の火山活動は数万年前から始まり、約2万2千年前にカルデラが形成されたとおもわれます。
前方に見える八丈富士は、江戸時代(宝永4年)1707年の噴火を最後に火山活動を休止しています。
登龍峠の展望
「ノボリョウ」といい、この道を下方から望むとあたかも龍が昇天するように見えるのでこの名がつけられました。
伊豆諸島は、約200万年前からの火山活動によりできた火山島群で、その一つである八丈島は東京から南方約290kmの所に位置しています。
※宝永4年に富士山と同時に噴火したとする記述もありますが裏付けされていないようです。そのため公式には慶長10年(1605)の噴火が最後となっています。
登龍峠(のぼりょうとうげ)
八丈島一周の都道の内、末吉と三根の間を登龍道路と呼び、その最高部辺が登龍峠で、晴天には遠く三宅島や御蔵島が望まれ、眼前には八丈富士と八丈小島、眼下には底土港、神湊港、空港や坂下市街地が一望のもとに眺められる八丈島随一の展望台である。
昔は三根から末吉に行く時は、天に登る龍のような
つづら折りの急な坂を越えたので、登龍峠と呼ぶようになったという。
9 服部屋敷跡
江戸時代、幕府への貢上絹(年貢としての黄八丈)を運ぶ、御用船のお船預りの役にあった服部家の屋敷跡です。
現在は、八丈島の踊りのショーと、アクセサリーの販売を行っています。
服部屋敷
服部家の初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた。
しかし、船方さんの一生を図で示すが如く、その歴史は波乱に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も、今では此所が毎日観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。
屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたものである。
案内板に記載の“図で示すが如く”の図?って何なんでしょう。近くに図らしいものはないし・・・?
ステージでは地元のおばさん方が踊りを上演していました。一日に一回で、観光バスはその時間にあわせてここに立ち寄ります。
庭内中央には樹齢八百年の大蘇鉄があります。
数年に一度しか花をつけないといわれる蘇鉄ですが、なんせ島中蘇鉄だらけなので島のいたるところでトウモロコシのような花が咲いているのが見られました。
10 八丈オリエンタルリゾート跡
かつては、繁栄を極めたホテルですが、観光客の減少によりあえなく2005年に閉業となりました。
残った建物は取り壊されることなく廃墟としてさえぎるものの無い平地に残り、無残な姿を晒しています。
八丈島は一周 約45kmの狭い島なので、2時間もあれば十分島内をぐるっと回れてしまいます。
そのため、気象条件にあわせて、観光バスが臨機応変にルートを組み替えることをしていました。
粗削りの自然美を堪能するには面白い所です。