源範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子です。
遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれました。
頼朝が坂東武士を集め鎌倉で軍を結成すると、大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たし、鎌倉幕府において重きをなしますが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられて伊豆国修善寺に流され、暗殺されました。
幽閉された修善寺には、範頼に関連する痕跡があります。
目次
1 源範頼の兄弟(源義朝の子供)
源頼朝の父親の源義朝は平治の乱(1160)で平家に敗れ敗走中に尾張で打ち取られましたが、沢山の子供たちがいました、そのうちで一番有名なのは鎌倉幕府を開いた頼朝ですが、その兄弟たちの平治の乱後はどうなったのでしょうか。
表1にまとめてみました。
そのなかで、今回の範頼は6男で、京を離れた遠州で密かに育てられました。
母親は遊女とありますが、有力者の娘という説もありそれほど身分が低かった訳でもなさそうです。
とはいうものの、正妻の長子の頼朝から見ると身分の格差は否めません。
表1 源義朝の子供達とその生涯
母親 | 正/側室 | 系譜 | 名前 | 生涯 |
三浦義明の娘 | 側室 | 長男 | 源義平 | 「鎌倉悪源太」と呼ばれた勇猛果敢な武士でした。
平治の乱後、捕らえられ六条河原において処刑。 |
波多野義道の娘 | 側室 | 次男 | 源朝長 | 平治の乱後、落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。 |
由良御前 | 正室 | 三男 | 源頼朝 | 平治の乱で伊豆に流罪。
関東の武士を集め平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた。 |
四男 | 源義門
(よしかど) |
平治の乱で戦死? | ||
五男 | 源希義
(まれよし) |
平治の乱で土佐に流罪。
頼朝の挙兵を受けて平家の刺客により暗殺。 |
||
姫 | 坊門姫
(ぼうもんひめ) |
一条能保の妻となり、仁安2年(1167年)には九条良経室を、安元2年(1176年)に嫡男高能を生んだ。 | ||
遠江国蒲御厨の遊女 | 側室 | 六男 | 源範頼 | 大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たし、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流され、暗殺された。 |
常盤御前 | 側室 | 七男 | 阿野全成 | 平治の乱で醍醐寺にて出家させられたが、密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下り、頼朝と合流。北条政子の妹である阿波局と結婚。
頼朝死後、嫡男の頼家が将軍職を継ぐと、実朝を擁する舅の北条時政と結び、頼家一派と対立するようになる。 頼家は、全成を謀反人として捕縛し、常陸国に配流した。 最後は八田知家によって誅殺された。 |
八男 | 源義円 | 叔父源行家が尾張で挙兵すると、その陣に参加。墨俣川河畔にて平家に夜襲を仕掛けようと試みるが失敗し討ち取られた。 | ||
九男 | 源義経 | 平治の乱で鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。
兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、平氏を滅ぼした。 その後、頼朝と対立したため難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃。 |
2 源範頼の墓
範頼のお墓は修善寺の街の北側の丘にあります。
西側から行く道と、東から行く道がありますが、東側から登りました。
案内は駐車場の前の坂の法面に書かれていました。
東側にはこの案内以外一切目印はありません。
駐車場の坂を上って右に曲がり、
更に左に曲がり、アパートの北を抜け、
お墓にたどりつきました。
範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれた。
治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。
範頼は百万陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
もともと範頼の墓と伝わる祠(ほこら)が、ここから西の小山地区の山腹にありました。
その祠で1879(明治12)年に骨壺が発掘され、範頼が没した地との伝承を裏づけるとして、1932(昭和7)年にこの場所に墓が立てられ、現在に至っています。
現在の墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。
範頼のお墓の西側の道を下ると、ちゃんとした案内がありました。
こちらが正式なルートの様です。
3 日枝神社
日枝神社はもともと、修禅寺と一体でしたが、明治元年(1868年)の神仏分離令によって分離されました。
という訳で、修禅寺の東隣に日枝神社があります。
範頼が幽閉された信功院跡は参道の石段の右手にあります。
範頼を襲った梶原景時のパネルです。
信功院跡
修善寺の八塔司(はったす/禅宗における寺内寺院)の一つで有る信功院のあった所です。
建久4(1193)年、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。
翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したといわれています。
信功院は後に庚申堂となり、今は文政元年(1818年)建立の庚申塔が一基残っています。
平成27年10月 伊豆市教育委員会
日枝神社
日枝神社は修善寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。
明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修善寺の山王社(鎮守)であった。
毎年10月18日・19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が練り歩き、威勢の良い掛け声が温泉場に響きわたる。
境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫などがそびえ立っている。一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。
また、源範頼が幽閉されて住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。
伊豆市
「日枝神社」にまつわる神話
大山咋神と建玉依比売命の縁結びと子宝の神話(日本書記)より
ある日山に狩に出かけた大山咋神、獲物に向け放ったはずの矢がはずれ、近くの小川に落ち、流されてしまいました。
その時下流を散策していた建玉依比売命は川の中にきらきらと光る矢を見つけ持ち帰りました。
その矢は丹塗りの大変美しい物だったので、寝床に飾り毎日眺めていると矢に化身した大山咋神が現れ、二人は結ばれました。
その後子宝にも恵まれ、幸せに暮らしたという伝説があります。
この云われから、この日枝神社では玉依比命の真心を真っ白い花に例え、良縁と子宝を望み祈願する風習が今も残っております。
女性は白い花、男性は丹塗りの矢を持って正面の階段を上ります。境内にある夫婦杉の前に立って、肩の力を抜いて天を仰ぎ静かに目を閉じましょう。
天の光を感じ、優しい力に包まれ、次第に心が開放されていくのを感じることが出来るでしょう。
あなたの想い 天高く届け
夫婦杉(子宝の杉)
天に向かって真直ぐに聳え立つごく稀なる根幹が接合した樹齢八百年の大杉。
夫婦円満や子宝を夫婦杉にお祈りください。
子は夫婦の鎹(かすがい)
手手水。修禅寺のものは竜の口から湯が出ていましたが、ここは水でした。
日枝神社のイチイガシ
静岡県指定天然記念物(ブナ科)
昭和32年5月13日 文化財指定
根廻り5.5m、目通り4.5m、樹高25mの大木、一位樫は九州地方に成育する木で伊豆には珍しい。
日枝神社は修善寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。
明治初年(1868)の神仏混淆廃止令(神仏分離令)により分離されたもので、もとは修善寺の山王社であった。
境内には杉の大木、欅、槇等が亭々とそびえ立っている。
伊豆市教育委員会
今回は源範頼の痕跡を確認する旅でした。
源範頼を襲った梶原景時もまた頼家により暗殺されています。
そしてその頼家もまた北条の刺客により命を落としました。
鎌倉幕府は脆弱な基盤のため、疑いや不都合があるとすぐに殺し合って解決を図るという恐ろしい政権でした。
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