「鎌倉殿の13人」の歴史舞台となった修善寺を訪れました。
さて、今回のルートは駿豆鉄道が発行している下記の地図に従って回りました。
2時間半で回れるところを2日間かけて温泉も楽しみながらゆっくり回ります。
既に、4つブログを出していますので、今回は紹介していない場所をまとめて記事にしました。
過去の記事はこちら
修善寺の旅② 伊豆修善寺に幽閉された源頼家にまつわる痕跡探訪
修善寺の旅③ 修禅寺に幽閉され殺された源頼朝の異母兄弟・源範頼(のりより)の痕跡を訪ねて
修善寺の旅⑤ 伊豆・修善寺温泉歩け歩け隠れた見どころ紹介(本ブログ)
目次
1 駿豆鉄道
三島駅を発車します。
以前駿豆線を使って訪れた三島のレポートは下記にあります。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 北条氏・源氏ゆかりの地 駿豆線沿線散策
修善寺駅に到着です。
北条義時のパネルがお迎えしてくれました。
駅を出ます。
駅から修善寺温泉街まではバスで7分程度です。
2 安達藤九郎盛長の墓
修善寺の街から一気にタクシーで丘の上にある安達藤九郎盛長の墓へ向かいます。
安達藤九郎盛長は源頼朝の流人時代からの側近です。
生涯無位無官のままなく亡くなりました。
安達藤九郎盛長の墓
安達藤九郎盛長〔保延元(1135)年〜正治2 (1200)年〕は、鎌倉幕府の御家人で、源頼朝の伊豆配流中の20年間を仕えた側近中の側近です。
治承4(1180)年、頼朝が源氏再興を祈願し、100日每晚經ヶ小島から三嶋大社へ日参した際、従者の盛長は境内の「相生の松」の場所で警護したといわれています。
建久10 (1199)年に頼朝が亡くなった後、出家して蓮西と名乗りました。
頼家が二代目の鎌倉殿(将軍)となった際、 鎌倉幕府の有力御家人で組織された「十三人の合議制」の一員にもなりましたが、正治2 (1200)年、66歳で亡くなりました。
伊豆の足立姓の祖です。
この墓は、以前は源範頼の墓のそばにありましたが 道路工事に伴い現在の場所に移されました。
伊豆市教育委貝会
3 赤蛙公園
島木健作の「赤蛙」のモチーフとなった蛙を見た川沿いの場所です。
赤蛙公園
作家、 島木健作 (明治36年~昭和20年)は、昭和19年の秋、胸部疾患の療養のため修善寺の温泉宿に滞在していた。
ある日の散策で桂川の上流まで歩いて行った帰り道、この付近で川を見つめていると一匹の赤蛙が目に入った。
蛙は向こう岸へ渡ろうとして一生懸命に泳ぎ、押し流されて、這い上がることを繰り返しているうち、ついに精魂尽きて渦の中へ飲み込まれてしまった。
死期の近かった健作は、蛙の生への努力を共感をもって感慨深く眺め、運命に従順なものだけをもつ静けさに強く感動し、帰京後、有名な短編 「赤蛙」を書いた。
発表は彼の死後の昭和21年で、遺稿とも言われている。
長編を書き続けていた健作は、死の直前にこの傑作短編を書き残したことによって、いよいよ詩人的資質を鮮やかにしたと言われている。
島木健作が見ていた川はここです。
これでは元気な蛙も向こう岸には辿り着けません。
阿野全成(あの ぜんじょう)は、源頼朝の異母弟です。
頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚しました。
阿波局は、三代将軍・実朝の乳母となりました。
全成は、頼朝死去後、頼家を押す比企氏と実朝を押す北条家の政争の中で、殺害されてしまいます。
公園の石の上には、小さな蛙の像が置いてあります。
4 滝下橋
滝下橋は夫婦円満にご利益があると言われ、別名、「安らぎ橋」と呼ばれています。
5 竹林の小径(ちくりんのこみち)の碑
桂川沿いの散策道の入口です。
6 小径内のギャラリー「しゅぜんじ回廊」
竹林の小径を少し進むとあります。無料です。
修善寺の四季の様子を写真で紹介しています。
7 楓橋
別名・「寄り添い橋」と呼ばれます。
8 竹林
京都の竹林を思い起こさせてくれます。
皆さん歩き疲れたのかベンチで横になって空を見上げてますね。
八重は、流人時代の頼朝を監視していた伊東祐親の三女です。
祐親が大番役で上洛している間に、男児をもうけます。大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、頼朝を打とうとしますが、北条時政の邸に逃げ込みます。
頼朝の旗揚げが成功すると、伊東祐親は暗殺されますが、八重のその後はよくわかっていません。
NHKの大河では、北条義時と一緒になり、三代執権・泰時を生んでいました。
9 桂橋
別名、「結ばれ橋」と呼ばれています。
10 岩谷観音とおしゃぶり婆さん
頼家のお墓の脇から山の中へ800m進むとあります。
ちょっと気合を入れないといけません。
昭和初期まではここにも老舗旅館があったそうです。
修善寺の街も今よりはもっと大きかったのでしょう。
岩谷観音とおしゃぶり婆さん
この鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。
この下の谷のことを「観音洞」と呼び、谷から直接登山するのが本来の参道だったようです。
正面は桂谷八十八か所、四十番の石碑。
右の祠には「おしゃぶり婆さん」と呼ばれる子育ての神様も祀られています。赤子が口にするオシャブリが語源といわれ、左の石仏は母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています。
昭和の初期まで、この山中にも老舗旅館の茶屋があって、鹿を飼ったり、湯治客が自然散策に訪れる私設公園でした。
中腹には大弓と呼ばれる矢場の広場があり、土地の子供が逗留中の幼い宮様と相撲に興じたり、まだ珍しかった自転車の競走をしたりしました。
11 源義経像
「おしゃぶり婆さん」の更に奥にあります。
源義経像
義経は、源氏初代将軍頼朝や、修善寺で自害した範頼の弟に当り この鹿山のふもとに墓のある二代将軍頼家の叔父にあたります。
幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五條大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後に蒙古へ渡ってジンギスカンになったという説もあります。
この獅子にまたがった像の胸には源氏の紋所笹リンドウが刻まれており、義経ともジンギスカン像とも云われます。
大正末期、芸術を愛好した菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉へ滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。
どうでしょうか、竹林と赤蛙公園以外は、あまり訪れることのない観光地です。
ここまで廻ると、修善寺通になれます。