史跡

旧会津藩藩士が明治維新後に移り住んだ極寒の地「斗南」(現在のむつ市)と言うところ

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青森県むつ市は下北半島の「まさかり」の大部分を占めます。

面積は864km2で青森県の約9%を占め、県内で最大の市です。

 

1        むつ市の中心街

その中で、むつ市の経済の中心である市街部は刃の付け根にあります。

下北半島の成り立ちを見ると、「むつ中心部」のあたりは海であったことが分かります。

海流が運んだ砂が、下北の”まさかり“の付け根と刃の部分をつなぎます。

これは地政学的には、トンボロ(陸繋砂州)と言われる部分でしょうか。

そのためつなぎ部分の「むつ中心部」を含むくびれた土地は平地が多く、下北の人口の6割はこの場所に住んでいます。

 

海であったころの地形を確認するために、ブラタモリから20万年前の地形図を貼付しました。

宿泊したホテル・フォルクローロ大湊は駅に隣接した施設です。

団体旅行で泊るホテルは市内で他になさそうなので、団体さんは皆ここに泊るのではないでしょうか。

今回のように、人が一気に来ると受付係の人もおおわらわでした。

 

南の海側から撮影した物。

緑の屋根がおしゃれな感じがします。

 

 

2        大湊線大湊駅

むつ市中心部の大湊新町にあるJR東日本・大湊線の終着駅です。

かつて、大湊の一つ手前の下北駅から北の大畑まで下北交通大畑線が運行していました。

対戦中には、大畑から先の陸軍の要塞があった大間までの鉄道は優先的に工事が行われ、路盤の大半ができていましたが、戦局の悪化にため工事が中断され戦後は、鉄道計画が復活することなく、現在未完の鉄道はそのまま放置されています。

ガラスのオブジェはよく見ると龍のデザインが施されています。

 

終点なので当たり前ですが、ここから先は線路が切れています。

展示物は腕木式信号機です。

大湊線は、野辺地~大湊間の軽便鉄道線として、 大正10年9月25日に全面開業し、現在は、「はまなすベイライン 大湊線」の愛称名で親しまれております。

ここに展示している腕木式信号機は、大湊駅構内の場内信号機として長年にわたり、列車運転の安全確保に寄与してまいりましたが、 平成10年9月に、 信号設備の近代化により廃止されたものです。

 

腕木式信号機

長方形板を、腕木として柱に取り付け、昼間は腕の位置、形状、 着色等によって信号を現示し、夜間は腕木の位置によって着色した色眼鏡を通った灯光の色によって信号を現示する信号機で、 信号リバーにより遠隔操作されていた。

 

場内信号機

停車場に進入する列車に対して信号を現示するもの。

 

駅構内の紹介ボード

【斗南藩と会津藩】

斗南藩は、明治維新の後、明治新政府と旧幕府が戦った戊辰戦争において、旧幕府側として戦った会津藩(現在の福島県会津若松市) の人たちが、戦争終結後に明治政府の命令で現在のむつ市などに移住してつくられた藩です。

現在でもむつ市内には斗南藩ゆかりの史跡が多く残っています。

史跡をめぐって、当時の斗南藩の人たちの思いに胸をはせてみてはいかがでしょうか?

 

3        斗南藩士上陸の地

明治3(1870)年6月10日、戊辰戦争で敗れた旧会津の松平容保(まつだいらかたもり)の嫡男・容大(かたはる)の家名存続にともない与えられた斗南の土地に旧藩士と家族 1,800人が、新潟港からアメリカ蒸気船ヤンシー号で上陸しました。

「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったものです。

明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住しました。

しかし、極寒の地で飢えと寒さで命を落とすものが多数続出したと言われています。

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県による旧藩主の上京にともない、大多数の藩士とその家族が会津に帰郷しています。

バスガイドさんによると現在この地に残った会津の末裔は、女性一人とのことでした。

 

NHK大河「八重の桜」でも、旧会津藩士が渡った斗南の冬の映像を放映していましたが、とんでもない土地に思えました。

こうしてこの地を訪れることになろうとは思っても見ませんでした。

 

青い看板の文字「斗南藩士上陸の地」が擦れて読みにくく、探すのに苦労しました。

あまり、観光客も来ないからかもしれません。

ホタテセンターを目印にすると良いです。

斗南藩士 上陸の地

明治二年斗南藩として再興を許された旧会津藩士の一団が、新潟から海路をたどり見も知らぬ新天地の未来の生活に夢を抱きここに第一歩をしるしました。

この史跡はむつ市市制施行三十周年記念事業として会津人の心を偲んで設置されたものであります。

 

記念碑

城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松市よりご寄贈いただき、飯盛山に思いをはせて組み立てられております。また記念碑正面からは会津若松市を望む方角に設置されております。

 

台座

明治二十五年に田名部尋常高等小学校(現代官山公園)建設の際使用した基礎石を利用して組み立てております。

 

植栽

記念碑をとりまく花木は、むつ市の花である「はまなす」と会津若松市の木である「アカマツ」を組み合わせ植栽しております。

平成二年三月 吉日

 

 

これが鶴ヶ城の石垣と同じ会津の慶山石を使った記念碑で、会津の方角に向いています。

上陸の地から海を眺めます。

海側から上陸の地を見たところ。

石は当時の物かどうかは分かりません。

どんな気持ちで、この地に降り立ったのでしょうか。

港の全景

4        ガメラレーダー

大湊駅から釜臥山(標高879m)の頂上を見上げると、白いガメラレーダーが見えます。

北朝鮮からのミサイル攻撃が有った際に、ミサイルをいち早く検知するために設置されました。

2022-10-4北朝鮮が発射した弾道ミサイルでは、ミサイルが日本列島上空に到着した頃にJアラートが発令され、青森では外出を控える放送があり、新幹線や、航空機が止まり大変なことになりました。

釜臥山のレーダーがどのように関与したのか分かりませんが、防空システムも、まだまだ改善の余地がありそうですね。

 

ガメラレーダーについては、山の反対側の恐山からも撮影したものがあるので、そちらの写真も確認いただき、見え方の違いを見てください。

日本三大霊場 青森県下北半島 恐山

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