伊能忠敬は江戸時代、詳細な日本地図を作ったことで有名ですが、その経歴を見ると大変興味深い人物です。50歳までは千葉の養子先で造り酒屋の商いとその地域の名主などで地域を盛り立て、それ以降は江戸に出て好きな暦学を学び、55歳から17年かけて地図製作に精力的に取り組みました。
江戸時代の人ですから55歳はかなりの老齢と言っても良いと思いますが、そこから日本地図を作ったパイタリティには頭が下がります。
彼の伝記を読むと、何だか、定年で会社を辞めた後からでも、何かできそうな気がしてきました。
目次
1 経歴
1.1 55歳まで養子先の千葉の酒造家で活躍
伊能忠敬は、延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれましたが、6歳の時に母親が亡くなり跡を叔父が継ぐことになったため、小関家から離れ、満17歳で下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能家の跡取りとして養子に入りました。
1.2 50歳で大志を抱いて江戸に
養子として伊能家を盛り立て、家業のほか村のため名主や村方後見として活躍しますが、寛政6年(1794年)、家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、寛政7年(1795年)、50歳で暦学の勉強をするために江戸へ向かいました。
NHK Eテレの「偉人の年収How much:2023年6月5日放送」によると49歳時点の忠敬の年収は6700万円(1264両 1両53000円で換算)
江戸へ行く時点で財産3万両のうち1万両を息子に譲り、2万両(約10憶円)を持って江戸に向かいました。
同年、幕府に、改暦を行うため寛政7年(1795年)4月大坂から出府を命じられた高橋至時(たかはし よしとき)の天文学の知識を見込み懇願して弟子入りしました。
50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。
至時と間 重富(はざま しげとみ:至時と同門の天文学者)は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させました。
しかし至時は、この暦に満足していませんでした。
そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていました。
1.3 55歳から いよいよ地図作りの人生がスタートする
地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できますが、当時は正確に計測されたものが無く、「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地(現在の北海道)ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と考えていました。
以下は子午線弧長を出すための手法です。
http://study-jh.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-4dcb.html
記載の内容が分かり易かったので引用しました。
しかし、当時は簡単に蝦夷に行くことはできませんでした。
蝦夷に行くには幕府の許可が必要です。
至時たちが江戸で暦を作っていた時代の寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンはカムチャツカに漂着した日本人、大黒屋光太夫ら3名を同行して根室に入港し、ロシア皇帝の国書をもって通商を求めてきました。
その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こりました。
至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る緊急の課題を解決することで、蝦夷地に上陸し、子午線一度の距離を求めようという狙いを持って幕府に願い出ました。
そしてこの事業の担当として忠敬があてられました。
結局、至時や忠敬にとっては、地図は副産物だったという訳です。
忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から陸路を使って、測量をしながら蝦夷地へ向けて出発しました。
忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての旅となりました。
そしてその後、71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり日本の測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いものとなりました。
忠敬の測量年表は以下です。
年号 | 伊能忠敬の年齢 | 出来事 |
1800年 | 55歳 | 東北・北海道南部測量 |
1801年 | 56歳 | 関東・東北東部測量 |
1802年 | 57歳 | 東北西部測量 |
1803年 | 58歳 | 東海・北陸測量 |
1805年〜1806年 | 60歳〜61歳 | 畿内・中国測量 |
1808年〜1809年 | 63歳〜64歳 | 四国測量 |
1809年〜1811年 | 64歳〜66歳 | 九州第一次測量 |
1811年〜1814年 | 66歳〜69歳 | 九州第二次測量 |
1815年〜1816年 | 70歳〜71歳 | 伊豆七島測量(伊能忠敬は不参加) |
1818年 | 73歳 | 死去 |
1821年 | 大日本沿海輿地全図完成 |
もともと、地球の大きさを正確に知ることが目的の地図作りでしたが、周りの評価が高くなるにつれてそちらの方に対しても興味が湧いてきたのでしょうか。
文政11年(1828)9月、オランダ商館医のシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図があることが発覚し、関係者が処分されたシーボルト事件の地図こそが伊能忠敬の地図です。
2 伊能忠敬緯度測定の地
そんな忠敬一行の足取りを示す場所の一つが下記です。
掲示板には第四次測量の様子が書いてあります。
日本全国を測量し、我が国初の実測日本地図を作成した伊能忠敬緯度測定の地
寛政十二年(一八〇〇)から享和二年(一八〇二)にかけて蝦夷地(北海道) 東南岸と奥州(東北)、伊豆、越後(新潟)の測量を終えた伊能忠敬(一七四五一八一八)は享和三年(一八〇三)二月二五日に江戸を出発し、太平洋岸を西に向かって第四次測量を開始した。
四月七日雨の日、浦村より田原城下に至り、従者数名と田原本町和田屋広中六太夫宅(現在地)に宿泊した。
翌八日の晴夜、この庭にて星座を観測し、田原の天度(緯度)は三四度半で、三五度の江戸より二八里(一一二㎞) 南方へ出ていると説明した。
忠敬らは田原海岸の測量を終え、同十日の朝六時に吉田(豊橋)方面へ向かった。
その後、文化十一年(一八一四)まで忠敬は自ら全国を測量し、同十二 十三年に部下の測量隊に伊豆及び江戸付近を測量させ、前後十七年をかけて全国の測量を終え、日本全図が完成したのである。
平成二十三年
田原市教育委員会
和田屋広中六太夫は地元の名士だったらしく田原市田原町舟沢には像があります。
大図 渥美半島付近(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)
3 忠敬の測量方法
梵天と呼ばれる二つの竿の間を、最初は歩測で測り、わんか羅針と呼ばれるコンパスで方位を測定し、海岸線を線でつないでゆく方法を使いました。
しかし、距離に歩測を使ったのは蝦夷地に向かった第一次測量の時だけで、二次からは間縄(けんなわ:一間ごとに目印を付けた縄)等を使い精度を上げて行きました。
わんか羅針
間縄
伊能忠敬が、測量で歩いた距離は4万kmを越えるといい、地球一周分に相当します。
全国を動き回っていたので、健康体と思われがちですが、実は病弱だったということです。
病気に悩まされながら全国を旅していたということです。
なんにしても集中してコツコツとやり続けることで、日本史に残る大きな成果につながったことを示してくれています。
伊能忠敬記念館と旧宅のレポートは下記