史跡

壱岐③『魏志倭人伝』に登場する「一支国」(いきこく)の王都・原の辻遺跡

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長崎県壱岐市芦辺町にある国の特別史跡・原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、『魏志倭人伝』に登場する「一支国」(いきこく)の王都と考えられている遺跡です。

これまでの発掘調査で、日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡、遺跡の台地一帯を多重環濠が巡っていたことが発見されています。

日本で弥生時代の遺跡として“遺跡の国宝”にあたる国の特別史跡に指定されているのは、登呂遺跡(静岡県静岡市)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)と原の辻遺跡の3ヶ所だけです。

所在地:長崎県壱岐市芦辺町・石田町 〔深江田原一帯〕

時代:弥生時代全般 ~古墳時代初頭〔今から約2200年前から1600年前〕

メモ(壱岐市立一支国博物館掲示板から)

遺跡概要

原の辻遺跡は、 長崎県で2番目に広い平野である「深江田原」にあります。

深江田原は島内各地の山麓から湧き出た水が集まり、島内最長を誇る幡鉾川(はたほこがわ)に合流する場所に位置します。

遺跡からは海を見渡すことができませんが、 遺跡内を流れる幡鉾川を東に約1キロメートル下流に向かうと、そこには「内海湾」が広がっています。

原の辻遺跡は深江田原に突き出した丘陵の最頂部 〔標高18メートル] にある祭儀場(さいぎじょう)を中心に、標高10メートル前後の丘陵尾根上に居住域が広がり、そのまわりを多重の環濠(かんごう)で取り囲んだ大規模環濠集落跡です。

原の辻遺跡がある壱岐島は、 朝鮮半島と九州本土との間に位置することから古代より交易や防衛の拠点として重要な役割を果たしてきました。

今から約2000年前、中国大陸や朝鮮半島から最先端の文物(ぶんぶつ)を取り入れる弥生時代において、 壱岐島および対馬島は日本 〔倭国] における対外交流の玄関口として多くの渡来人を出迎え、渡来人とともに珍しい交易品が持ち込まれました。

海を渡る渡来人とそれを迎える倭人との交易・交流の拠点となった舞台が原の辻遺跡でした。

このことを窺い知る手がかりとして、 今から約1700年前に西晋の陳寿によって書かれた中国の歴史書『三国志』 があります。

『三国志』 の中に書かれた 「魏書東夷伝倭人の条〔通称: 「魏志倭人伝〕」に2008文字で邪馬台国をはじめ、 邪馬台国に至るまでの国の情報や当時の倭国情勢・習慣などが記されています。 この中に壱岐島は 「一支国 [原文には一大国と記載〕」の国名で登場します。

日本国内において、 この邪馬台国及び邪馬台国に至るまでの国の中で国の場所とその王都 〔拠点集落] の位置の両方が特定されているのは壱岐・原の辻遺跡だけであり、 「魏志倭人伝に記された内容と遺跡の発掘調査成果を見比べながら " 弥生時代における対外交流の歴史”を解明できる唯一の事例として、 国内外から注目されている遺跡です。

 

現地の写真も撮りましたが、当時の生き生きとした人々の営みを感じられるように、壱岐市立一支国博物館のジオラマも入れてみました。

物見櫓と番小屋
番小屋は、物見櫓の見張り番からの知らせを受けて、警備につく兵士の詰め所。

集落の周りの濠

日本最古の船着き場の跡の様子。

1996年この地区の大規模圃場整備にともない発見された石積みが、船着き場であることが分かり、魏志倭人伝に記載された一支国の王都としての原の辻遺跡の性格を象徴的に示す極めて重要な遺構となりました。

海岸でクジラ漁。

高床式の倉庫と住居

集会場と長老の家

 

従者の宿舎

外国からの使節団の長の従者が滞在する建物。

従者は長の世話や護衛などを行う。

王の館(住まい)
一支国の王が住む家。
権威を象徴する鏡や剣などがあり、外には蓋(きぬがさ:王に差しかける傘)を立てる。

主祭殿
祭りや儀式を行うための中心建物。一支国の王が神を祀るための建物

穀倉
収穫された米や麦などを入れる倉。中心域の暮らしに使う。

本最古の権

ここから棹秤(さおばかり)に使うおもり (権)が発見されました。

交易品のような貴重なもを量ったのでしょう。

権は下の写真の右手にある 重り のことです。

 

建設中の建物.

遺跡には今も続々と建物が立てられ整備されています。

 

壱岐市立一支国博物館は、遺跡から北東の丘の上にあり、ここの出土品などが展示されています。

 

原の辻遺跡は4世紀中ごろには消滅します。

消滅の要因は、東アジア世界の国際情勢において、朝鮮半島の要である楽浪・帯方郡と権威の後ろ盾である中国の西普が滅んだことが背景にあります。

また倭社会において朝鮮半島との交易ルートとして沖ノ島ルートが使われだしたことで壱岐の中継地点としてのネットワークが崩壊したと考えられています。(本当にこの沖ノ島ルートがあったのかは定かではありませんが・・。)

以上ブログを書くにあたり、下記の図書を参考にしました。

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