駿府城は徳川家康が晩年を過ごした城として有名です。
しかしながら、明治以降埋められ、現在は遺構の調査が進められています。
駿府城
今から約六五〇年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。
九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。
永禄三年(一五六〇) 今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄十一年(一五六八)武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(一五八二)に追放した後、同十三年(一五八五)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。
しかし徳川家康は天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。
その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。
慶長十年(一六〇五)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(一六〇七)には大御所として三たび駿府に入りました。
この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。
城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
静岡市教育委員会
遺構は無料で見学できます。
駿府城跡天守台発掘調査
駿府城
駿府城は、徳川家康が大きく分けて2回築城しました。
初めは、 五カ国大名時代の天正13 (1585)年で、 2回目は大御所時代の慶長12 (1607) 年です。
慶長期の駿府城は、 全国の大名に工事の負担をさせる天下普請で大改修した雄大な城でしたが、 天守は寛永12(1635) 年に火事で焼失しました。 明治時代に入ると駿府城は廃城となり、 残っていた天守台 天守の下の石垣作りの土台) も明治 29 年 (1896) に取り壊されて以降、その姿は100年以上見ることができませんでした。
調査の目的と経過
天守台跡地の再整備方針を決定するため、天守台の正確な大きさなどの学術データを得ることを目的に実施しています。
・平成28(2016)年8月~令和2 (2020)年3月
現地調査 (掘削、 測量等)
・令和2 (2020) 年4月~令和4 (2022)年3月
整理作業 (遺物の洗浄 図化、 遺構図面の整理等)、調査報告書の刊行
ぜひ、400年前に造られた大迫力の天守台を間近でご覧ください。
「発掘調査情報館きゃっしる」では、最新の調査成果を展示しています。
石垣などに置かれているカラーコーンは、どこにどのような遺構があるのかが分かるように色分けされています。
- 緑は、慶長期 (1600 年代初期 ・ 将軍を退いて大御所となった家康が駿府城を大改修した時期)
- 赤は、 天正期 (1580 年代後半・ 将軍になる前の家康が駿府城を築城した時期)
- 黄は、 今川期 (1500 年代中期以前 今の愛知県東部と静岡県の大部分を治めていた今川氏の本拠地があったとされる時期) の遺構を表しています。
発掘現場の全景です。
大御所家康の小天守台
ここからは、慶長12年(1607) に大御所となった徳川家康が築いた石垣 【家康の石垣】 を見ることができます。 この場所は、家康の天守台の南側にあたり、 いくつかの史料には「小天守台」と記述されています。
家康による築城当時、 「小天守台」にどのような建物があったのかはよくわかっていませんが、 絵図 (駿府城御本丸御天主台跡之図) には、天守台へと登る階段や石垣などが描かれていることから、 天守台を防御する機能を果たしていたと考えられます。
なお、ここから見える石は、石垣の最も下にある石 ( 根石)で、江戸時代には地中に埋まっていました。
発見された天正期天守台
平成30年度の発掘調査で、慶長期 (大御所) 天守台の内側から、それとは異なる野面積みの石垣が発見されました。
調査の結果、確認できた範囲で東西約33m×南北約37m の天守台であることがわかりました。 この天守台は、慶長期より前の天正期駿府城のものだと考えられ、天正期の城の天守台として最大級の規模です。
石垣は、 1~3m 程度の石材が多く用いられており (①)、豊臣秀吉の大坂城にも匹敵するほどの大きな石もありました。
このことから巨石を選んで運び、 高い石垣を積むという当時の最新技術が用いられ、 それを可能とする体制の存在が考えられます。
また、天守台の近くからは金箔瓦が大量に出土しました (②)。
金箔瓦は、この時期の一部の豊臣方の城のみで使われています。
慶長期の天守の大きさを、現代の写真に嵌めこむと下のイメージになります。
天守台の石垣の高さは左のポールの高さと同じ12mになります。
この大きさは、江戸城の天守台より遙かに大きなものとなります。大御所様のお城は凄いですね。
3Dイメージはこんな感じ。
今川期の遺構と遺物
室町~戦国時代の今川氏の本拠地があったと推定
過去の発掘調査から、 天守台があった場所には、室町~戦国時代の今川氏の本拠地があったと推定されていました。
天守台発掘調査でも、 天正期 (豊臣方) 天守台の内部から今川期の遺構と遺物が発見されました。
発見された遺構は、断面がV字状になる薬研堀(やげんぼり)(①) と窪地状 (または池状)の遺構です。 薬研堀は、深さ約 1.7m、 幅約3mで、 この辺りに何らかの建物があり、 それらが堀で囲まれていた可能性が考えられます。 窪地状 (または池状) 遺構などからは、貴重な中国製の磁器が見つかっており、 これらの遺物は所有者の権威を示しています (②)。
慶長期の石垣と天正期の石垣の特徴
ここから見えるのが大御所家康が慶長期に築いた石垣(手前)と、それより古い時代の天正期に築いた石垣 (奥)です。
この二つの石垣は、 作り方が異なっています(①)
慶長期の石垣は、 加工した石を積む 「打込接」 という工法を使用しています。 石垣の勾配 (傾き)は比較的急で、 裏込め栗石[うらごめぐりいし] (拳大の川原石) の幅が広くなっています。
一方、天正期の石垣は自然石を積む「野積み」という工法を使用しています。 石垣の勾配は比較的緩やかで、 裏込め栗石の幅が狭くなっています
取り壊された天守台石垣の石
天守台の石垣は明治時代に取り壊され、 その石や土砂で、本丸堀が埋め立てられました。 ここにある石は、発掘調査で本丸堀から出てきた石です。 このうち長くて四角い石は、石垣の角に使われたもので、長大な石を交互に積み、崩れにくくしていました (算木積)。 天守台の角の石は特に巨大で、長さが2mに達するものもあります。
天守台下御門と木橋の痕跡
慶長期(大御所家康) 天守台の北東には、 二ノ丸から天守台がある本丸へ入る木橋が架かっていたとみられ (①) 本丸側に天守台下御門がありました。
天守台下御門前の堀底から木橋の痕跡とみられる複数の橋脚の柱穴と木材が見つかっています (②)。
天守台下御門から内側に入った場所では、 枡形虎口という四角い空間を確認しました。
枡形虎口は、 まっすぐ進むことができない構造になっており、 進入してくる敵の勢いを止め、 様々な角度から敵を攻撃する役割がありました。(③)
駿府城関連については下記でレポートしています。