史跡

家康の浜松入城から長篠の戦いまで武田攻略の時代

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本記事は、長篠城址史跡保存館新城市設楽原歴史資料館、浜松城、浜松大河ドラマ館の記事と現地写真をベースにして、家康の浜松入場から、長篠の戦い迄を纏めてみました。

1        浜松築城

家康の浜松入城経緯。

どうして浜松だったのか?

~家康、信長、信玄。 それぞれにとっての要衝・浜松~

家康を浜松へと行かせた織田信長。

家康がいる浜松を狙った武田信玄。

そして浜松城を築城し、飛躍をとげた徳川家康。 “出世の街” と言われるここ浜松は、 当時の家康たちにとってどんな意味合いを持っていたのか? 「どうする家康」で時代考証を務める歴史学者 平山優氏に伺った。

 

先見の明があった信長

徳川家康は三河から遠江に拠点を動かすに際し、 はじめ見付に城を建てていましたが、途中で浜松に移ったと言われています。

それは姉川の戦いの頃、 織田信長に説得され、見付を本拠地にすることを断念したのです。 信長が家康に浜松へ行くよう命じた理由は、 地図を見れば明瞭です。

"見付にいる家康” と “浜松にいる家康” では、 海に近い浜松の方が断然アクセスが良く、支援しやすく助けやすいですから。

見付は古くから交通の要所として国府が置かれたところで、遠江を支配するには都合の良い所でしたが、天竜川を背にして戦うのは不利であるとの信長の指摘により、築城途中の城は放棄されました。

家康にとっても、 浜松にいるほうが本国・三河との連携はやりやすかったでしょうね。

当時、 浜松城へ運び込まれる兵糧や武具は、 まず尾張から三河湾を通じて豊橋の高師という場所で陸揚げされる。

その後、陸路で古美に持ち込まれて、ここで宇津山城という城に兵糧を少し分 け 与えて、残りは浜名湖を渡って宇布見(うぶみ)、さらに佐鳴湖まで運ばれて小藪というところで陸揚げされ、 浜松の城に持ち込まれる。

これが浜松城を支える生命線なんです。

もし見付だったら、 さらに陸路で運ばなければいけない。

あるいは、 海路で天竜川の河口にある掛塚湊から陸揚げするか・・・・・・。

水上交通でも陸路でも、 浜松は圧倒的に便が良かった。

その後の史実を考えると、これはとても重要な選択でした。

もしそのまま見付にいたら、 武田信玄に物流網を封鎖され、屈服に追いやられていたかも知れません。

本当にギリギリの決断だったと思います。

戦国時代というのは 「助けに行く」とか「補給をする」という視点でものを見ると、 また全然違って見えるんです。

つい陸路ばかり見てしまいがちだけど、海と湖、 と言われる湿地帯、そして川。

これらを複合して見なければ決してわからないことがある。

信長の視点は正解だったと言えるでしょう。

 

2        三方ヶ原の戦い

2.1         三方ヶ原の戦い前夜

1571 (元亀2)年以降、武田信玄は、遠江や三河への侵入を繰り返し、 徳川家康との関係が悪化していました。

1572 (元亀3)年10月、武田信玄は甲府を発ち、軍勢を2隊に分けて遠江(とうとうみ)へと軍を進めました。

遠江の国衆のなかには武田氏に加わったものもいました。

激しい攻防の末、二俣城などが武田氏に攻略され、 浜松城とその周辺を除く遠江の大部分は、武田氏の勢力が及ぶところとなりました。

 

2.2         信玄の挑発を受けて立った若き家康

二俣城の攻略に成功した武田信玄は、 1572 (元亀3) 年12月22日に浜松城方面へと進軍し、 徳川軍を圧迫しました。

追分から祝田坂に至ったあたりで、武田勢と浜松城から出陣した徳川勢の間で合戦になりました。

これが三方ヶ原の戦いです。

武田勢の圧倒的な戦力を前に徳川勢は総崩れになり、 家康は浜松城へと逃げ帰りました。

追撃した武田勢は犀ヶ崖(さいががけ)付近に陣を構えましたが、 徳川勢の夜襲により谷に落ちて死傷したものも多かったと伝わっています。

正面からは攻めなかった信玄

信玄は、領土を狙うというよりとにかく家康を倒すために浜松を攻めたわけですが、もしも家康を屈服させてこの地を占領していた場合、 信玄にとって大きな意味を持っていたでしょう。

しかし彼は正面からは攻めてこなかった。

武田軍にとっての戦略的な問題として、浜松城は引間城の頃から攻め落とされたことがないという重要な事実があります。

要害堅固で、 今川軍でも落とせなかった。

さらに徳川家による拡張工事で大きくなっている。

下手に攻めれば自軍の犠牲が大きいのは目に見えているので、あえて攻めない。

攻めずに経済封鎖による征圧をじわじわと狙っていたんです。

浜松の魅力を考えるとき、 やはり海や湖があるのはすごく大きいです。

しかも湖が海とつながっているんですから。

輸送力ひとつとっても、 陸で運べる荷物の量はたかが知れているけど、船なら膨大な量を運べる。

こうした太平洋水運や浜名湖水運などによる、 経済効果は絶大であり、山々に囲まれた甲斐の信玄にとって、魅力このうえない土地だったでしょう。

 

しかみ像(岡崎城公園)

世に伝うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。
このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石造です。
元亀3年(1572)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年 武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に青年 家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと伝われます。

 

2.3         野田城の戦い

三方ヶ原で徳川家康の軍を破った信玄は、野田城を攻め取りました。

その後、信玄は、病気のため京都に登の和諦め、長篠上で休み、鳳来寺に参り、田口の福田寺を経て、甲州へ帰る途中、天正元年(1573)4月死去しました。

野田城の戦い

遠江国三方原で徳川家康を破った武田信玄は、 元亀4年 (1573) 1月、宇利峠を越えて、菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の守る野田城を取り囲みました。

野田城を守る城兵は400人。 約3万人の武田軍を相手によく耐えていました。

あまりに堅固な城の守りに、武田軍は金掘人夫に地面を掘らせ、 井戸の水を抜いてしまおうとしました。

家康は野田城救援のため、 旗頭山まで出陣しましたが、大軍の囲みを見て、救援が難しいことを悟り、 吉田城に退いてしまいました。

1ヶ月におよぶ武田軍の激しい攻撃を耐えた定盈は、自らの命と引き替えに城兵の命を救うことを条件に開城。
定盈は武田軍に捕らえられますが、 人質交換によって再び野田城主として戻ることができました。

 

3        長篠・設楽原の戦い

以下「新城市設楽原歴史資料館」史跡案内図の説明書きを引用

【戦国時代の東三河】

東三河は京の都をめざす東国の戦国大名にとって、とても大切なところだった。 特に駿河国(今の静岡県) の今川義元、 甲斐国(今の山梨県) の武田信玄、岡崎の徳川家康が東三河を自分の領地にしようと狙っていた。

義元が桶狭間の戦いで亡くなると東三河は家康の領地となった。

その後、武田信玄が遠江国や東三河の城を攻め、 野田城も落としたが、 その直後に倒れ、この世を去った。

 

【長篠城をめぐる戦い】

信玄が亡くなると、家康は野田城 長篠城を武田氏から取り戻した。 天正3年 (1575) 4月、信玄のあとを継いだ武田勝頼は、長篠城を再び手に入れようとやってきた。

勝頼は15,000人の大軍で、 長篠城を取り囲んだ。 長篠城主奥平貞昌を始500人の城兵はよく戦って防いだ。

しかし、少人数で城を守るのは難しく、 貞昌は援軍要請の使者として鳥居強右衛門と鈴木金七郎を岡崎へ走らせた。

5月14日のことだった。家康は長篠城を救うため、 織田信長の助けを借りて長篠城を目指すため、 岡崎で軍議を開いていた。

岡崎城で金七郎と強右衛門は家康と信長に長篠城の状況を伝えると、それぞれの役目で2人は別れた。

長篠城に入る直前、 強右衛門は武田軍に捕まってしまった。

城内に向かって「援軍は来ないと言えば命は助けてやる」と言われた強右衛門。

その約束を破り「援軍はすぐそこまで来ている」と叫んだ強右衛門は、磔になって殺されたが、強右衛門の決死の叫びは長篠城に大きな勇気を与えた。

【両軍の布陣】

38,000人の織田・徳川連合軍は、16日に牛久保城(豊川市)、17日に野田城と進み、 18 日に設楽原に到着した。

信長は本陣を極楽寺山、家康は弾正山に陣をおいた。

 

そして、設楽原を流れる連吾川沿いに強固な馬防柵を作り、武田軍の攻撃に備えた。

信長は家来や味方の大名に火縄銃とそれを使う足軽を連れてくるように命じていた。

一方、武田軍は軍議で出撃すべきかどうか意見が分かれたが、最終的に設楽原へ陣を移し、連合軍と向かい合うことに決した。

そして連吾川の東側の台地に陣地をおいた。

 

【激闘10時間】

設楽原の戦いが行われた5月21日は、今の暦では 「7月9日」にあたる。

ちょうど梅雨明けのころで、 野山は草木が生い茂り、田んぼには稲の苗も植えら

れていた。

前夜からひそかに豊川をわたり、鷲ヶ巣山を目指した酒井忠次は夜明けとともに武田軍陣地に襲いかかった。

その声が遠くに聞こえる設楽原では、武田軍が連合軍に攻撃を仕掛けた。

しかし、馬防柵を前に武田軍は、思わぬ苦戦となった。

柵の手前には連吾川があり、 川の両側には水田が続いている。

それらを越えて、やっと柵に近づいたかと思うと3,000挺の鉄砲が休むことなく放たれる。 武田軍が突撃を繰り返すたびに死傷者の数が増えていった。

天下無敵とうたわれた武田軍。

土屋昌次をはじめ、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、 真田兄弟等が連合軍の堅い守りを突き崩し、必死に戦った。

メモ

土屋昌次は、甲斐源氏ではなく直流ともいえる清和源氏の血筋の武田の重鎮で、織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。享年31。

 

しかし、正午を過ぎるころになると、 武田軍の敗色は明らかとなった。

柵より討って出る連合軍に押され、じりじりと後退を始めた。

馬場信房は、勝頼を落ちのびさせたあと、追手をくい止めていたが、寒狭川付近でついに力尽きた。

勝頼はわずかな兵に守られて退却していった。

武田軍 10,000人、連合軍 5,000人が、 10時間足らずの戦いで命を落とし

たといわれている。

首洗池

長篠の戦いの時、 この池で戦死者の首を洗ったという。

このような地名が残ったのは、戦いがいかに壮絶であったかを想像させる。

近くに、戦死者の霊を弔った「信玄塚」が有る。

昭和57年3月30日 新城市教育委員会

 

【戦後の村人】

設楽原に住む村人たちは、戦いが行われている間、 雁峰山の中腹に避難していた。

戦いが終わり、設楽原へと戻ってきた村人は両軍の兵や馬を手厚く葬り、その霊をなぐさめる祈りをささげた。

その場所が竹広の信玄塚で、 毎年8月15日の夜に行われる「火おんどり」は400年以上も絶やすことなく供養の灯を続けている。

 

夫々の武将の年齢を見ると、信長(42歳)、家康(34歳)、勝頼(30歳)で、勝頼が一番若かったです。

この若さが、単純に力で押して相手を組み伏せる戦法に駆り立てたのかもしれません。

勝頼がもう少し年齢を重ねていたら長篠での壊滅的な負けは避けられたのかもしれません。

 

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