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千葉県香取市佐原にある伊能忠敬記念館と伊能忠敬旧宅

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千葉県香取市佐原地区は町ぐるみで江戸時代の街並みが保全され、過去へタイムスリップしたような感覚になる倉敷の美観地区に似た場所です。

この地に来ようと思ったのは、NHK歴史探偵の伊能忠敬の特集で、伊能忠敬記念館の紹介があったのが主な理由です。

ここ佐原地区は何を隠そう、江戸時代の地図の職人・伊能忠敬が養子に入った商家のあった所です。

 

1        伊能忠敬記念館

とうとうやって来ました伊能忠敬記念館。

 

館内は国宝だらけですが、まあほぼ全て忠敬が作成した地図ですので、超地図好きでなければ途中で飽きてしまいます。

そしてほぼ撮影禁止。

伊能忠敬像 酒井道久氏制作

平成13年10月に東京深川の富岡八幡宮に建立された銅像の試作品です。

忠敬は測量に先立ち、富岡八幡宮で旅の無事と成功を祈願しました。

銅像は、日本図を背景とし、55歳の伊能忠敬が杖先方位盤を手に、 カ強く測量の第一歩を踏み出した姿をイメージしています。

天文暦学の歴史 《 日本編②》

何度も改暦を繰り返した中国と違い、日本では奈良時代から戦国時代までに5回しか暦が変わりませんでした。

江戸時代に入ると、朝廷ではなく幕府主導のもと、 それまでに比べて頻繁に改暦が行われるようになります。

823年間も止まっていた改暦を推し進めて 【貞享暦】 を作成したのが初代天文方の渋川春海であり、西洋天文学の知識を学び、より精確な暦 【寛政暦】を作ったのが忠敬の師匠・高橋至時でした。

 

暦学の渋川春海のことは、この本で読みました。

映画にもなった本で、歩測と星の観測をしていたので、丁度伊能忠敬がやっていた事と同じことをしていたのでしょう。

ここは記念館の裏です。

象限儀 (中) (しょうげんぎ )

伊能忠敬が日本全国を測量した時に持ち歩いた測量器具の内の一つで、星の高度を観測するのに使いました。

昼間は土地を測り、 夜は天体を観測しました。

北極星や測りたい星が真南を通過するとき、望遠鏡でその角度を読み上げ記録していきました。

忠敬は一晩に20もの星々をはかりました。

各地で測った記録と江戸で測った観測値から、 緯度を算定しました。

忠敬の測量は道線法と交会法という2つの方法に加えてこの天体観測を行い測量の精度を上げて、精緻な日本全図を完成させました。

(なお実物の四分円の大きさは11.6cmです)

伊能忠敬記念館から佐原歴史の街並みへ向かいます。

 

2        佐原歴史の街並み

樋橋(とよはし)

樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。

もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。

橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。

昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成四年に架け替えられたものです。

 

3        伊能忠敬旧宅

伊能忠敬旧宅

指定:昭和5年4月25日 面積: 639.21㎡²

伊能忠敬が17歳から50歳まで住んだ家で、 店舗・正門・炊事場・書院・土蔵からなります。

伊能家の主な商売は酒造りで、酒蔵や米の倉庫が立ちならんでいました。

そのほか米の売買や舟での運送などでも収入があり、江戸に薪や炭を売る店も出していました。

家は船に原料や商品の積み下ろしが便利なように小野川に面しています。

忠敬がいた当時から比べると、 建物や土地の大きさが縮小していますが、 昭和 20 年代まで伊能家の住居として使われ、 伊能家資料を守り公開した場所です。

商売を行った 「店舗」 は、 土蔵だった建物を作り変え、帳場(商品の支払いや売買の記録をつける所)を設けています。

また旧宅奥にある 「土蔵」 は、観音開きが広く使われるようになる以前の引き戸形式の扉が残る、 佐原でも貴重な建物です 。

これらは江戸時代の雰囲気がよく残っています。

 

第一 仮にも偽をせず,孝悌忠信にして正直なるべし

(少しも嘘をつかず,正直にしなさい)

第二 身の上の人ハ勿論,身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守べし

(どんな人のいうことでも役にたつことや,正しい意見であったら必ず用いて守りなさい)

第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ,少も人と争論など成べからず

(言葉と行動を緩やかにして,万事へりくだって,謹んで,少しの争論もしてはならない)

 

土間から、帳場と座敷を見たところです。

店舗

店舗は、江戸時代の土蔵を改造して、当時店として使っていました。

幅一間の「ちょうば」、七畳半 2部屋の「ざしき」があり、「どま』の上には小屋裏が

あります。

 

象限儀(しょうげんぎ )は置いてありますが炊事場です。

 

別々の方向から撮影した書院です。

 

測量の日は6月3日だそうです。

土蔵です。

 

4        佐原諏訪公園 伊能忠敬像

記念館から500m位でしょうか。

こちらは人が全くいませんでした。

 

伊能忠敬先生の銅像

伊能忠敬先生は、一七四五年、いまの千葉県九十九里町で生まれましたが、一七歳で佐原の伊能家のあとつぎとなり、以後三〇年余りこの町でくらしました。

そして、五〇歳になってから江戸へ出て西洋流の天文学を学び、五五歳のときから、幕府の命によって、何回も測量旅行におもむき、一七年もかかって、全国の海岸線を測量して精密な地図をつくりました。

先生は測量旅行のたびごとに、その地方の地図をつくり最後にその総まとめとして日本全図をつくりはじめました。

一八一八年、江戸において先生は七三歳で亡くなりましたが、日本全図は、弟子たちの協力によって、その三年後に完成しました。

日本の国土の正確な形は、忠敬先生によって、はじめて明らかにされました。

この銅像は、忠敬先生の測量中の姿で一九一九年(大正八年)にたてられました。

台石の文字は、漢学者塩谷時敏先生が書かれたもので、

「仰いでは斗象(としょう)を瞻(み)、俯しては山川を畫(えが)く」とあり、意味は「天体の観測を行って、りっぱな地図をつくった」ということで、 忠敬先生の功績をたたえています。

小島一仁氏解説

一九八三年八月七日 寄贈 佐原青年会議所

 

伊能忠敬その他の記事は以下

50歳で家業引退、55歳から17年間で日本地図を完成させた伊能忠敬が教えてくれるもの

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