史跡

日蓮の誕生を記念して建立された千葉県鴨川市小湊にある誕生寺

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誕生寺(たんじょうじ)は、千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗のお寺です。

山号は小湊山。日蓮の誕生を記念して鎌倉時代の1276年に日蓮の生家跡に建立されたのが起源です。

その後、大地震、大津波により現在地に移転されました。

 

誕生寺の目の前は、日蓮誕生の際に集まった鯛が群生する鯛の浦(妙の浦)と呼ばれる海岸で、そこからは遊覧船が出ています。

 

総門の大燈籠です。

総門です。

総門を潜ると次は仁王門。

途中左手に誕生水井戸があります。

日蓮上人誕生の三つの不思議

日蓮上人が生まれた際に「三奇瑞(さんきずい)」といわれる不思議な出来事が起きたと言い伝えられています。

貞応元年(1222) 2月16日、日蓮聖人誕生のとき、庭の片隅に清水が湧き出しこれを産湯に使い、 浜辺には青い蓮華が咲き誇り、海辺では、 本来深海にすむ回遊魚で群れをなさない鯛が、 大小無数群れになって現れ、日蓮聖人の誕生をお祝いしました。

これらの不思議が 「誕生水」 「蓮華ヶ淵」 「鯛の浦 (妙の浦)」として800年を経た現在も当地に残されており、日蓮聖人誕生の 「三奇瑞」と伝承されています。

 

仁王門に向かう参道の左手小高い丘の上には誕生堂があります。

千葉県指定有 文化財

誕生寺仁王門 一棟

平成九年三月二十一日指定

誕生寺の七堂伽藍は、江戸中期の宝暦八(一七五八)年の大火によって仁王門を除く他の建物は全て焼失してしまいました。

焼失をまぬがれた現在の仁王門は、江戸前期の宝永三(一七〇六)年二十六世大中院日孝上人の代に水戸徳川家の助力を得て建立されたと伝えられるものです。

江戸中期の寛政三(一七九一)年の銘を持つ 「誕生寺絵図」中に見られる仁王門が相当すると考えられます。

間口約一四・八メートル、奥行き約五・八メートルの五間三戸瓦葺重層門は、県内では最大規模のものです。

軸部は白木造(ケヤキ)、組物は下層では和様三手先、上層では唐様三手先、中備はいずれも本蟇股、装飾は虹梁の絵様及び蟇股と支輪に波・雲の彫刻が用いられています。

上層に見られる般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられ、正面左右の脇の間には上総の仏師松崎右京大夫の作と伝えられる仁王像が安置してあります。

創建時の様子をとどめた絵様及び彫刻など、様式的にも、歴史的価値の高い貴重な建造物です。

千葉県教育委員会

鴨川市教育委員会

 

仁王門

この仁王門は宝永二年(西暦1705年)当山第二十六世大中院日考上人の代に木戸家の支援を受け建立されたものである。

宝暦八年(西暦1758年)大火災にて諸堂全焼せるも塁種を免れる

 

仁王尊

享保十五年(西暦1730年)上総の国上野村植野の住人(勝浦市植野)

大佛師松崎右京の作

昭和五十年(西暦1975年7月大佛師松久朋琳師により修復

仁王門を潜って、振り返った門の中央には左甚五郎の般若の彫刻があります。

祖師堂に向かいます。

誕生寺略縁起

千葉県が生んだ世界の偉人日蓮聖人は、ここ小湊に生まれました(一二二二)。

聖人は自らの出生を「安房国長狭郡東條郷片海海人が子なり」(「本尊問答抄」)といわれ、聖人没後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。

誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿磨(日家) 甥の長寿磨(日保)により建治二年(一二七六) 開創され、日蓮聖人を開山とし、 日家上人を二祖、日保上人を三祖とし、聖人誕生の地に建立されました。

しかし、明應七年八月 (一四九八) 大地震大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、夜崎の南端から現在の地に移りました。

延宝八年(一六八〇)の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(三、四五六米) 東西二十町(二、 一六〇米) とありますから関東屈指の大寺であったことがわかります。

天正八年(一五八〇) 里見安房守義頼が四十石の田畑及び面海上十石を、更に慶長九年(一六〇四) 市川の地二〇石を、重臣正木大夫頼忠より寄進しております。

そして慶安元年(一六四八) 徳川三代将軍家光公が御朱印によりこれを認められました。

現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものであります。

この頃の小湊村は、七〇国の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、人口もこの地方では最も大きな港町であったといわれます。

しかるに元禄十六年十一月 (一七〇三) 房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前の人家百余戸が流失し僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞われました。

勿論当山の被害は甚大なものでありましたが、幸い水戸の徳川綱条公(粛公)がご先代黄門光圀公の追善のため七堂伽藍を一基建立され、忽ち旧に復することが出来ましたが、それも束の間、宝暦八年(一七五八)大火により、三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂) 悉くを焼失しました。

現在の雨落十八間四面総欅造りの大祖師堂は天保十三年(一八四二)に、又総桧造りの貴賓殿は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国歓募により完成したものであります。

又、明治に入り東宮殿下(大正天皇) ご悩平癒の御祈願所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川宮家御霊堂(竜王殿)が境内に建立(明治二十三年)されて、御皇室とのご縁もむすばれました。

そして今、長い間海辺特有の風雨に耐えて損傷甚だしい諸堂宇を、五十万人講の全国勧募により、逐次再建整備しつつあるところであります。

現に本師殿宝塔及び宝蔵の新築祖師堂の大改修、新宝物館の建設等は終り、引続き新本堂の建立、庫裡の改修、廻廊門塀等の諸工事を進行中であります。

願くは当山に詣でる有縁の方々が、聖人誕生の霊場を顕彰するこの百年に一度の浄業に、五十万人講の一人としてご結縁下さることを願ってやみません。

小湊山 誕生寺(日蓮宗)

創建 建治二年(一二七六)

開基 日蓮聖人 開山日家上人

由緒 当山はそのはじめ文永元年聖人自ら母梅菊女の病気平癒を記念して建てられた荘厳道場堂に鑑傷し、建治二年直弟日家上人これを聖人生家の地に移して高光山日蓮誕生寺と呼ばれたことに始る。

その後明応七年の大地震海嘯の厄に遭って陥没、妙の浦の丘辺に移したが元禄十六年再度地震海嘯の天災をうけ現在の地に移った。

当山三十六代日孝上人水戸家の帰依をうけ七堂伽藍を整えられたが宝暦年間大火あり二王門を残し悉く焼失した。

雨落ち十八間四面総楼造りの祖師堂は天保三年(一八三二)より十年間の年月をかけ完成し、内陣中央に日蓮聖人像が安置されている。

古くは国守里見安房守、その臣正木太夫、水戸光圀、加藤清正等の帰依篤く、御朱印七十、格式万石、緋綱代乗輿独礼寺格の待遇をうけ、また相馬大作、太田康資等の隠棲が綴る多彩な歴史を蔵し、明治に入り有栖川家の御廟所も建てられている。

堂塔二十有余境内二万坪。現に日蓮宗大本山である。

日蓮聖人ご幼像です。

日蓮大聖人ご幼像

この銅像は日蓮大聖人が善日麿と称していた十二歳の折 修行出家の為情澄山に登られた時のお姿です。

昭和十年六十七世 日誘上人の代に創立されました。

京佛師 瑞岑(ずいしん)作と伝えられています

日蓮聖人像を安置する祖師堂です。

鴨川市指定有形文化財

「誕生寺祖師堂」

附「指図(天保三年)・棟札(天保十三年)

奉納額(明治二十九年)」

所有者  誕生寺

指定   平成二十九年十一月十八日

市内で最大規模の木造建築であり、建立当初の建築様式を良好にとどめている貴重な建物です。

祖師堂の歴史を伝える「指図(天保三年)」 「棟札(天保十三年)」「奉納額(明治二十九年)」の関連資料も残されています。

これらの資料から、建立年代、造営に携わった大工棟梁や彫工及び関係者、後年の改修履歴の概要が把握されています。

当初は須弥壇後方に後陣が設けられていたと推定されますが、それが取り払われ、昭和六十三年には宝塔に建て替えられました。

この改築工事にもかかわらず、祖師堂内部の礼拝空間は良好に保持されています。

後年の改修を経ながらも、天保から弘化年間の建築様式をとどめる祖師堂の保存状態は良好であり、日蓮聖人が誕生し小湊地区の歴史を象徴する建物として高い価値を有しています。

平成三十一年三月八日

鴨川市教育委員会

 

鯛の飾りが祖師堂の入口に展示されていました。

龍の天井絵です。

宝物館が祖師堂の隣にあったのですが、丁度訪問した日は、お休みでした。

残念。

 

 

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