弘前市の山車会館は観光用として、平成6年4月に追手門広場に建設されたものです。
弘前ねぷたまつりの時に出陣する直径4メートルの『津軽剛情張大太鼓』や、藩政時代から伝わる弘前市内各町会の山車を一堂に展示しています。
そして、嬉しいことに入場料は無料です。
目次
1 津軽情っ張り大太鼓
津軽情っ張り大太鼓の由来
津軽三代藩主信義公は負けず嫌いの大名で数々の有名情っ張り談があるが、その中に津軽の大太鼓のエピソードがある。
ある年、江戸城年賀の式に登城し殿中諸公、控の間で談、たまたま加賀百万石城内の六尺大太鼓は恐らく日本一だろうと言うのを聞いて、信義公セセラ笑い、津軽ではその程度のものは、子供が打ち鳴らして遊ぶ玩具の類で物の数ではない。
城内では櫓太鼓十尺に余るものを用いるとおおぼらを吹いたので、諸公も黙らず雪どけを待って検使を下向させて実否を確めることとなった。
信義公も少々吹き過ぎたと思ったがそこは情っ張り殿様のこと、武士の一言金鉄の如しと言うので国表弘前へ早馬を走らせ十尺に余る大太鼓を早々に作り櫓に備えよとの達しに重臣達もびっくりしたが、名臣服部長門守康成の才覚によって見事に完成し内側には無数の金の薄板を張り、これを打てばその響き遠く新田地方にまで及んだという
のち検使の面々もこの大太鼓を見て、唖然として言葉もなく帰ったという。
四代藩主信政公が、本所ニッ目の上屋敷に運び、非常に備えたがその響き隅田川を越え江戸八百八町にとどろき渡ったので、津軽の大太鼓とはやされ江戸名物のつとなった。
夏のねぷたまつりの先陣を切って出る大太鼓です。
津軽剛情張大太鼓(つがる ごう じょっぱり おおだいこ)
夏の夜空を彩る「弘前ねぷたまつり」は、毎年八月一日から七日まで行われる。
弘前のねぷたまつりは山車の影響を受けていると言われているが、津軽剛情張大太鼓は、このねぷたまつりで大型ねぷたの先陣を切って出発し、その大音響は人々の心と体を揺さぶり郷愁をかきたてる。
大きさは、長さ四メートル五十センチ、太鼓の直径が四メートルあり、五十人がかで引く大太鼓として、弘前市民の誇りとなっている。
情っ張りとは、津軽の人間の意固地さを示す津軽弁であるが、さらにその上をゆくという意味で「剛」をつけている。 弘前のものが一番という気概が見える大太鼓である。
2 弘前八幡宮祭礼の山車
弘前の山車は、四代藩主津軽信政公の時代の天和(てんな)二年(一六八二) 八月十五日の弘前八幡宮祭礼施行の際、神輿の露払いとして各町内の若衆たちによって繰り出されたのが初めです。
弘前八幡宮は弘前藩の総鎮守として人々に崇拝されてきた神社ですが、祭礼は藩主が参勤交代を終えて無事に帰城した喜びを、城下の人たちと分かち合いたいということで始められました。
山車飾物の特徴は、京都や江戸の文化の影響を受けた人形を中心とした高欄つきの山車であり、後に「弘前 組ねぷた」に影響を与えたと言われています。
題材は、各町会と深いつながりがあり、能や謡曲・故事来歴などを引用して表現され、町会のシンボルとして、また繁栄を願って、町会の豪商たちが競って京都などから高価な衣装を仕入れるなど、町人文化の粋を示すものでもありました。
展示されている人形や衣装の中には、享保年間(一七一六~一七三六)のものもあり、現在では技術的にも再現不可能な衣装も展示されています。
明治に入ってからは廃藩となったこと、また神仏分離により八幡宮との根拠も薄れ、節目にしか市民の目に触れなくなったことから、貴重な文化遺産は倉庫の奥深く眠ってしまいました。
しかし、この貴重な文化遺産である山車を保存しようという機運が盛り上がり、平成六年
(一九九四)四月、山車展示館が建設され、再び甦ることになったのです。
各山車は故事に纏わる飾りを乗せています。
それぞれの故事を見ていくのもまた楽しいことです。
2.1 米山(こめやま)
米山(こめやま)(和徳町)
山車(だし)の「米山」は、米俵の山の上に農業神、商工神として崇敬されている稲荷様の神使である狐をのせている。
この狐は宝珠と鍵を口にくわえ、火炎の玉を尾にまいた阿吽(あうん)の狐であるが和徳稲荷神社のご神体であるため御幣(ごへい・紙または布を切り、細長い木にはさんで垂らしたもの)に代えている。
宝珠は財産を意味し、鍵は財宝を得る幸運の鍵とされ、米山は五穀豊穣などを祈願したものである。
練物は当初、淡海公台乗であったが楠公父子の桜井駅別れの場面の人形に変わった。
しかし、当初の練物である淡海公、山車の米山を考えると、和徳町会に鎮守する和徳稲荷神社と深い関係があり、町内の繁盛とご利益を願い山車飾物にしたものと思われる。
2.2 三條小鍛冶宗近
町印 三條小鍛冶宗近
我が町印は、山車と共に武百余年前に当町に伝来した名作ですこぶる古雅の起きにとんでいる。
三條小鍛冶宗近は、平安時代中期の人と伝えられ、京鍛冶の祖と云われている。
宗近の刀剣の作柄の品格と、鉄味の優れたことは他に比べることは出来ない。
精錬にあたる時は斎戒沐浴して天下泰平国家安穏を祈念し、無想の境地に達していたと今でもその徳をたたえられている。
天下五剣の一口(名物 三日月宗近)は国宝である。
謡曲(小鍛冶)はよく知られている。
鍛冶町六ヶ町町会
鍛冶町々会、北川端町々会、新鍛冶町々会、南川端町々会、桶屋町々会、銅屋町々会
2.3 道成寺山
道成寺山(鍛冶町)
町印は平安時代の京都の刀匠・三条小鍛冶宗近で、藩政時代から鍛冶が盛んだった町らしく、精根こめて鍛練している姿を表している。
山車の「道成寺山」は、和歌山県道成寺に伝わる縁起物・安珍と清姫の物語で、謡曲の代表的出し物である。
それは清姫が恋に狂って執念のあまり、半身鬼、半身大蛇となって安珍の隠れている大きな釣り鐘に巻きつき、二人の山伏がそのかたわらで誠心祈している場面を人形で表現したものである。
鍛冶町々会の山車飾物は、他の町会の飾物と違って、町印 (小鍛冶)も山車(道成寺山)も変わることなく、文化三年以来、明治に入ってからも飾られ、運行されてきている。
山車 道成寺鐘卷
鍛治町六町に保存されている「道成寺鐘巻」は、今から弐百余年前に当町に伝未至宝である。
鐘巻の由来をたずねると、醍醐天皇の延長六年四月のこと、奥州福島の白河から熊野権現参詣の修験者安珍と云う若い僧が、心願の途中紀伊の国真砂村の庄司清治と云う庄屋一夜の宿を願って長旅の足を休めた。
家の娘清姫に見そめられた安珍は逃がれて道成寺の鐘の中に隠れた。
ますます感情にかられた清姫は、逃すまいとその後を追いかけたが、増水した日高川を渡りかねた。
しかし女の一念でたちまち大なって川を泳ぎ渡ると、この寺の鐘堂修理中の鐘を怪しんで、七まといに巻きついて火焔を吐き出した。
山の法師等が驚き集い祈り伏せようと珠数をつまぐって祈ったものの安珍は遂に黒焦げとなって悲愴な最後を遂げた後、謡曲又は長唄に作られたのは、ひろく人の知るところである。
鍛冶町六ヶ町町会
鍛冶町々会、銅屋町々会、桶新鍛町々会、台町町々会、屋鍛冶々会、鋼南北々会
2.4 猩々山
猩々山(しょうじょうやま)(土手町)
猩々:真っ赤な顔の福神
山車の「猩々山」は昔、中国の揚子の里に高風(こうふう)という孝行者がいて、夢のお告げにより市に出て酒を売ったところ、次第に高貴の身となった。
ところがある日、近くの海中に住む猩々がこの店に入り酒売りの酒に舞い戯れるほど、 いくども盃を重ねても顔色一つ変えなかった高風の純朴さに感じて、くめども尽きぬ酒つぼを与え、祝福して海中に消えていくという能楽の祝言物である。
猩々は無邪気な愛酒家の妖精でありその姿は酔いと童心を示す笑いをたたえた赤い童顔の赤ずくめの扮装をしている。
この「猩々」を土手町の山車飾物にしたのは藩政時代、土手町に大酒造家が軒をつらねていたところから用いられたといわれる。
2.5 紅葉狩山
紅葉狩山(紺屋町・浜の町)
山車は、初め「和田酒盛山」であったが文化三年から「紅葉狩山」に変わっている。
この「紅葉狩山」は、平安時代末期の武将平維茂(たいらのこれもち)が信濃の戸隠山の狩りに出たとき紅葉見物の美しい女性たちに誘われ、酒宴や舞を楽しんでいるうち、ついうとうとと眠り、目覚めると夢に見た鬼女が目の前に現れ、維茂は神授の太刀で鬼女を退治するという謡曲の説話からとったものである。
練物は曽我兄弟の仇討ちで有名な曽我五郎が、夢の中で兄が敵の工藤祐経(くどうすけつね)に捕われて救ってほしいと頼まれ、折から通りかかった馬子の馬を奪い、積んだ大根を鞭にしてかけつけるという場面である。
これらの山車は、明治以降紺屋(こんや)町と浜の町に分けられて飾られ、両町によって保存されてきた。
2.6 布袋山
布袋山(東長町)
山車の「布袋山」は、中国の布袋和尚が大きな袋を背に満面の笑いをたたえて唐団扇を手にし、かたわらに唐人の子供たちが戯れている。
それに練物は当初稲荷台乗とあるが、文化三年からは「福祿寿と大黒天の角力場」に変わっている。
人形といいどれも皆、七福神の神さまである。
福の神の和平遊楽の場面で、唐子たちを配したのは、古来より子は宝という人形製作の意図からであり、町内における商売の福徳を祈ったものと思われる。
その邪悪払いとして、町印の青竜刀が用いられたのであろう。
一説によれば、藩政時代、東長町の呉服反物商、片谷家が布袋山や福祿寿、大黒天の相撲人形を京都から買って、寄付したものとも言われる。
2.7 大根山
大根山(茂森町)
町印は三番叟で天下泰平・五穀豊穣を祈能「翁」の中で演じられるものである。
山車のふたまた大根は聖天さま (歓喜天)を表し、夫婦和合、家内安全、善事成就の神さまとして、商人、芸能人や女性たちから信仰されていた。
当時の茂森町は藩主信政公が江戸や京都から役者や浄瑠璃語りらを招いて城下の民衆に倫理道徳を植えつけるため常設芝居小屋(茂森座)を建てたところで城下の娯楽場として、芸能とは深いつながりがあったと思われる。
また、一説には当時、茂森町には津軽藩の御用八百屋、荒谷家があり、一切の野菜を納めていたため、藩公から茂森山車は大根にせよとのお声がかりで、
この山を選んだとも言われる。
2.8 黄石公と張良山
張良は漢の高祖を助けて、天下を平らげるという有名な兵法家です。
この飾りは、龍に乗った張良が白馬にまたがった老人から兵法の秘書を受け取っているところです。
2.9 その他
赤い金襴の羽織を着た猿と、下で大太鼓をたたく唐子です。
説明はなかったけど、“おっ” これは平和なときに鳴く閑古鳥でしょうか。
ねぶたの張りぼてのようですね。鮮やかです。
4 弘前市役所の展示
隣接する市役所にも すばらしい展示がありました。
ねぷたまつりについて
全国には、農作物の豊作を祈願して、さまざまな燈籠に灯をともして行うまつりがありますが、 各地にある「七夕まつり」の行事であるねむり流しや虫送りといった風習もねぷたまつりと密接な関係があります。
弘前ねぷたまつりは、約300年の歴史の中でこうした色々な風習と融け合って現在に永々と引き継がれています。
また、ねぶた起源の中で、 坂上田村麻呂の蝦夷征伐の説もありますが、伝説の一つとして語り継がれています。