美術館/博物館

観光地・熱海の象徴 熱海城

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熱海城は戦国の歴史を通じて、建っていたことはありません。

完全に観光用の城です。

熱海城概要

熱海城は海抜100メートル余り、 名勝錦ヶ浦を脚下にひかえた天与の要害の地にあり、築城には最適の立地とされています。

戦国時代の昔、 関東地方に威を振るった小田原北条氏歴代の名将たちも水軍の根拠地として築城を希望しながら果しえなかったと伝えられております。

 

天守閣

熱海城天守閣の建築様式は日本城郭建築が発展の頂点に達した桃山時代、慶長初期様式にのっとり、 外観五層、 内部9階の高層建築で、 昭和34年に建てられました。

天下の名城とうたわれ、昭和の同時期に再建された大阪城、名古屋城をはるかにしのぐ日本一の天守閣です。

熱海城天守閣にそびえる「金鯱」は、コンクリート彫刻作家として著名な浅野祥雲が1年間をかけて製作したもので、 雄の高さ約3メートル、 雌は 2.9メートルと、そろって日本一を誇り、 重量 750kgにもなります。

 

 

1        1F:武家資料館

熱海城 武家資料館について

日本の甲冑や日本刀などの武具は、その目的である兵器としての実用品としてだけではなく、当時の皮革・漆・染織などの技術が結集した美術品としての価値が評価されています。 美術工芸品としての日本甲冑 武具に注目したのは、西洋人が最初でした。

イギリスの王室武器・武具博物館には、 日本の武器武具収集の特別室もあります。

欧州や米国では、日本の甲冑武具を展示するサムライミュージアムが開業しております。 明治維新以降、西洋人は、武士の道具である甲冑武具に興味をもち、 それが美術工芸品として、 非常に優れた作品であることに気が付いたのでした。

なぜ戦場の消耗品である、 これらの品が、 優れた美術品として評価されたのでしょうか? それは武士が、 死を潔くするために費用を惜しまず、これらを用い、 甲冑武具の製作者も武士のために一品一品精鍛を込めて作ったからです。

また、これらは着用者の社会的地位や家の由緒、美意識を象徴する役割を持っていました。

歴史資料としてだけではなく、 皮革・金工・漆芸・染織など当時の工芸技術が結集した美術品である日本の武具甲冑を、熱海城1階にて展示させて頂いております。

明治維新・昭和の終戦によって、これらの優れた美術工芸品が、 廃棄されたり海外に流出したりと危険な状態になっております。

来館者の皆様に甲冑武具を理解してもらい、 次世代への保存につながる一助になれば幸いです。

 

 

2        1F:足湯

眼下にある切り立った高さ約80mの崖の下が断崖の名勝・錦ヶ浦です。

3        6F:天守閣展望台

 

4        5F: 江戸体験の間

人が担いで進む籠に乗るくらいなら、自分で歩いたほうが早くて快適な気がしますが。

昔、地域の運動会で背負いました。

早く回転して桶が揺れると、重心が変化するため体が持っていかれて大変でした。

5        3F:浮世絵・春画展

よく見ると、人の顔が人でできています。(分かりますか?)

残念ながら、春画の方は撮影禁止でした。

 

6        2F  :日本城郭資料館

城の歴史

日本館展示指導  鳥羽 正雄(文学博士日本城郭資料館顧問代表)

出品史料提供解説  西ヶ谷恭弘(日本城郭資料館運営委員長)

 

城とは・・

「城」という字は、土と成の字からできていて(土から成る〕 構築物という意味です。

したがって、外敵から身を守るため、土を掘って窪地をつくり、その土を盛りあげ土塁とし外から侵入を防ぐための設置が 「城」である訳です。

古くは、猛獣などから守るため、また自己防衛 住居防備の観念から城が築かれました。

やぐら

何も天に輝く天守や櫓などがなくても、土盛りがあれば、そこに城そのものが残っていることになります。 では以下、日本の城について見てみましょう。

 

 

古代の城

人類は農耕という手段を見出すと、放浪の生活から集団による定住がおこなわれます。

異集団から身を守るため、また排水のため集団居住地の周囲に濠を掘りめぐらすようになります。

これが「環濠集落」といわれるもので、わが国では、縄文時代末期から弥生時代にかけての集落遺跡によく見受けられます。

これが考古学的に最古の城です。

弥生時代も中頃になりますと、邪馬台国が現われ、その女王卑弥呼の居城は、「魏志」などにみられるように壮大なものが見受けられます。さらに古墳造営は、土木技術の発展を促し、大和朝廷の時代になると、朝鮮の築城技術をとり入れた山城が、北九州一円に大宰府を中心に築かれます。

さらに東北地方には蝦夷地経営のため、多賀城、秋田城などの城柵がたくさん築城されました。

 

中世の城

ー武士の登場と方形館ー

古代の律令制度が緩んで、 荘園制度ができると、都にある荘園主にかわり、地方にあってこれを管理する荘官や在地官庁の役人が武力を持つようになります。

武門武士の生成発達がこれです。

武士は自衛のため、館の周囲に濠をめぐらし城としました。

ことに関東地方は武士階級の活躍がめざましく、一族支配(惣領支配)による武士団の発生が顕著であります。

このような館の周囲に濠をめぐらしたものを「方形館」といって、足利氏発祥地の足利館 (栃木県) 、別府氏の別府館 (埼玉県)、 この近くでは仁田氏館(田方郡函南町)などがあります。

やがて武士団は、源平=氏の大争乱を起して、貴族にかわり武家政権の樹立を果します。

鎌倉幕府がこれで、治承4年(1180)源頼朝は平氏の福原やーの谷城の例に習い、天然の要害 「鎌倉」に幕府を開きました。

 

詰の城と楠木正成の築城

鎌倉は周囲を海と山に囲まれ、七つの出入口である切通しがありました。

この七つの切通しは、みな城郭構えで、いざ戦に備えていました。

鎌倉幕府に従う武士(御家人)たちも、それぞれ館の近くにいざという時の山城を持つようになります。

この戦専用の城が、「詰の城」といい、日常生活用の城である館と区別されるようになりました。

また、鎌倉時代に忘れてならないのが、文永 弘安の役といわれる蒙古軍の襲来です。

建治2年(1276) 幕府は石垣づくりの防塁を博多湾に延々20キロに亘り築城 蒙古軍

の侵入を防ぎました。

弘安の役で、弱体した幕府を倒す戦が、元弘の乱です。

後醍醐天皇を中心とする建武中興の勢力は、 従来の戦法である野戦から、直接、城に籠る方法、すなわち「籠城」策をとりました。

楠木正成が考えた戦法で、正成は金剛山を中心に、千早城、 赤坂城などの多くの城砦を築いて、 敵勢を手こずらせ、みごと作戦に勝ちました。

この千早赤坂城の出現は、城が持つ防備力と攻撃力をいかんなく発揮したことで、後の築城法に大きな影響を与えました。

 

戦国の城

一山城と丘城一

楠木正成の籠城戦法は、戦 (詰の城)と生活 (館)をひとつにした城を生み出すように

なりました。

城はおのずから面積を広くして、いくつもの曲輪を持つようになり、戦い易く、生活に便利な丘陵上に城が築かれるようになりました。 丘の上を平坦に削平して堀切りを設けた城が全国に現われ、その城には、堀を曲げたり、土塁の高さをいろいろ変えたりして、戦略的に工夫をこらした設備が施されました。

城はこの時代(室町中期) ころから、臨時的な築城から永久的な築城に変ったのです。

室町時代の永享の乱、応永の乱、応仁の乱など、あいつぐ戦乱は、城をいっそう堅固にし、武力誇示、権力の象徴として利用されるようになりました。

室町政権の弱体化に地方の国人領主は、惣領家を中心に大きな勢力ができあがり、やがて巨大な山城を築いて、 戦国大名へと生長するものが現われます。

 

一戦国大名の居城一

戦国大名に自立していった武士は、一族や多くの家臣団の屋敷を城郭内に建てるため、大きな独立状の山を居城としました。

浅井長政の小谷城、越前朝倉氏の一乗谷城, 斉藤道三の稲葉山城、下野佐野氏の唐沢山城、伊達政宗の岩手山城、上杉謙信の春日山城、北條早雲の韮山城、松永弾正の信貴山城、毛利元就の吉田郡山城、尼子氏の富田月山城、長曾我部氏の岡豊城などがその典型であります。

権力と武力の象徴であるこれら戦国大名の居城は、やがて宮殿化して、巨大な殿舎(御殿)を持ち、土塁にかわり石垣を用いて、屋根は木端葺きや桧皮葺きにかわり、粘土瓦を使い、 塗り壁の防火建築となりました。

戦国時代も永禄年間(1560年頃)になると、 織田信長による岐阜城や北條氏康、氏政による小田原城などが出現します。

ことに小田原城は周囲五里におよぶ、大城郭でした。

 

近世の城

一信長の安土城、秀吉の大坂城、家康の江戸城一

岐阜城にあった信長は、山上に三重の天守と麓に二重の大御殿を構え、その壮大華麗さは宣教師ルイス・フロイスにより欧州へ伝えられました。

しかしその数年後、信長は、史上空前の築城工事を近江安土に起します。

天正6年、安土城は完成し、その天守は最上層内外に金を張る七重(五層)、塁壁は、本格的な総石垣づくりで、まさに金殿玉楼の雄姿でありました。

しかし天正10年、本能寺の変ですべてが焼失、信長についで天下をとった秀吉は、大坂築城をなしとげます。

大坂城は全国30余国の大名を使い、昼夜三万の役夫をもって工事をしました。

天守の瓦は、金、銅、鉛、石葺き分けられたと伝えられます。

秀吉は、大坂に引きつづき聚楽、伏見、名護屋の三名城をつくり没してしまいますが、その築城技術は、家康によって引きつがれ、近世城郭の完成期を迎えます。 家康は秀吉の全国諸大名の手伝普請に習って、文禄年間より江戸城に着手、世界でも稀な大外郭をもった江戸城を三代目家光の代に完成させます。

家康は、名古屋、駿府、高田 篠山などの要所にも築城、白壁で黒い瓦の城郭建築のパターンを、つくりました。

 

一江戸時代の城一

天下統一を終えた家康は、元和一国一城令という法令を定め、全国諸大名の居城のみを残し、 一藩一城として、全国の城郭を破却させました。

一万石以下の藩は城とはいえず.以降、陣屋といいました。

徳川 300年の安泰も幕末になると外国の脅威にさらされ、各地の要所に西洋式の築城をもった台場が築かれます。

「稜堡式城郭」 というもので、 五稜郭, 竜岡城、品川台場はその代表的なものです。

 

さて、これからはマッチで作った名城シリーズです。

高知城

松本城

名古屋城

小倉城

熊本城

 

 

お城を築く順序

どんなものをつくるにも、まずその計画からはじまります。

まず、その計画にとってどんなものをつくるか、次にどこにそれをつくって置くか、です。 城でいう第一段階は「地取」と「選地」とか呼び、日常生活に適しているか、戦闘をおこなう上で有利か、政治的や経済的に見て最適であるかなどの吟味をします。

そこで、定められた土地に築城工事をおこないますが、その時点で、地形や、中心部にとって、いかに防ぎ易く、攻撃し易いかを考えます。

この考えがいわゆる城の生命をつくるもので「縄張り」といいます。

縄張りが終えて、いよいよ、本格的工事に入る訳です。

 

地取りと縄張り 城の用途により、地取りは大きく三つに分けられます。

 

〔山城〕山城は、鎌倉時代の「詰の城」 と、 戦国大名の居城となった「戦国山城」の二種類が主流です。

標高でいちばん高い山城は、箱根山中の鷹巣山城 (839米) で、 戦国山城では、大和高取城 (480米) 近江佐々木城 (340米) 播磨竹田城 (353米) 美濃稲葉山城 (336米) など沢山の山城がありました。

江戸時代には、常陸笠間城、 備中松山城、鳥取城、豊後竹田城など数城にすぎません。 これは、生活や経済的に不便で、大名の居城に適してなかったからです。

 

〔平山城〕平山城は 「丘城」と「平山城」の二つがあります。

丘陵の上部を真平に削して、丘上のみを利用した丘城、丘とその下の平城を利用した平山城がこれです。

江戸時代の城のほとんどがこの平山城です。

姫路城、和歌山城、江戸城、小田原城などが好例です。

 

[城] 平城は古くは「館」に代表されるように生活面を重視した城です。

二条城、大坂城 高田城などが典形です。

また [水城〕 とか 〔海賊城〕 〔沼城〕 などの水の中に建てた城もありました。

高島城 高松城、中津城などがこれです。

 

縄張り 工事の前に縄を張って、その区画 (曲輪郭) や墨線の屈曲などを決めたことから、この名がつけられました。

平面の構成から輪郭(りんかく)式縄張、円郭(えんかく)式縄張、梯郭(ていかく)式縄張、連郭式縄張などに分けられます。

兵法や軍学にとって「縄張り学」は最も重要な学問でした。

お城の普請(土木工事)

城をつくる工事は、建物をつくるよりも重視されていました。

建物はあくまで飾りであって、 本来の城の機能は、 堀と土塁にありました。

〔堀の種類〕堀は、水がない堀を「空堀」といい、水が入っている堀を「水堀」とか「濠」と呼んでいます。

また、屋根などを左右から切断する堀を「堀切り」といい、山城などの斜面につけた堀を「堅堀」といいます。

また形状の断面から、図のようにわかれます。

[土塁] 土塁は堀を掘った土を城内側に盛りあげ、 壁として、土居(どい)とも書きました。

芝土居とタタキ土居があります。

[石垣] わが国では古代の城に石垣を利用したのち、 中世では土塁が主流を占めました。

しかし、戦国時代末期の頃から、美観と防備の二面から、 石垣を施すようになりました。 ことに安土築城で動員された近江国穴大村の石工は、江戸時代になって、 全国の諸大名の

築城に活躍し、「穴太」 という名は石垣工事役の別名にまでなりました。

わが国の石垣技術は、安土築城から江戸築城までの15年間ぐらいの間に、何と世界一の精密な工事ができる技術ができたのです。

使用石の状態から、野づら積み、切り込みハギ、 打込みハギと大別され、見た目から算木積み、亀甲積み、牛蒡(ぎゅうぼう)積みなどと呼ばれています。

 

お城の作事(建物)

土木工事が終るとその上に建物をつくる訳ですが、 戦国時代までの城は、質素で目立たない建物でした。

今日、絵巻物や、発掘調査などにより堀立式で、木端葺きの建物が、16世紀までのわが国の建物であったことが分ります。

〔櫓〕 櫓は、矢倉とも書き、 中世までの城には井楼(せいろう)といい、 組みあげ式の物見櫓か、矢や武具を常備した舞台状の建物でした。

江戸時代の櫓は、ほとんどが二重もしくは三重で、 十二支の方位 (子、丑、寅など) や用途の名称 (着到櫓 月見櫓など) がつけられていました。

 

熱海城築城によせて

日本城郭資料館顧問

文学博士  鳥羽正雄

熱海城は、静岡県熱海市の市街地の南方、錦ヶ浦の山頂に建てられている。

この場所は熱海を西南から囲む和田山の裾が東にのびて海中に突きき出た魚見崎の岬角で、一方のみは山につづき、三方はけわしい断崖になっているという、城郭を築く所としては典型的な勝地である。

熱海海岸の静かな入江を脚下ひかえた天与の要害であるところから、戦国時代の昔、関東・東海地方に威を振るった小田原後北条氏歴代の名将たちも、水軍の根拠地として築城を希望しながら、果し得なかった所であると伝えられている場所であります。

熱海城築城場所は、海抜百米に余る高地で、その上にそびえ立つ天守閣は熱海の全市街を眼下に見おろし、遠くは相模湾一帯から伊豆の大島をはじめ、関東の連山を一望のうちにおさめ、堂々たる威容を誇っている。

この天守閣の建築様式は、日本の城郭建築が発達の頂点に達した桃山時代慶長初期の様式にのっとり、外観五層、内部十階の高層建築である。

その容姿は秀麗で近代築技術の粋をつくして、古典芸術を表現したのです。

その規模に置いて、天下の名城とうたわれ、昭和時代に再建された大坂城・名古屋城をはるかにしのぐものであります。

熱海城天守閣にそびえる、「金鯱」は雄の高さ九尺八寸(約三米)、雌は九尺六寸(二、九米)と、そろって日本一を誇り、約一年間の製作日数を要した、重量二百貫(七五〇kg) のものであります。

熱海城の概要

構造=鉄骨鉄筋コンクリート造り九階

延床面積六四三一平方米 (約一九五〇坪)

外観=桃山調五層共日本瓦本葺 外観白セメント

高さ=敷地地盤 標高 一二五メート

天守閣高さ    四三メート

主なる所要資材

鉄筋・鉄骨   一、一〇〇トン

コンクリート 六、八〇〇立方米

延工事人=七八、〇〇〇人

建築期間=一四ヶ月

築城完成=昭和三五年一〇月

姫路城(白鷺城)城郭模型

兵庫県姫路市

白鷺城とも称される姫路城は、現存する城郭のなかにおいて最も壮麗な城として有名。

現在の姫路城は慶長7年(一六〇〇)、関ヶ原合戦後、池田輝政によって造られた。

輝政はまず秀吉時代の三重の天守を取り除き、一回り大きな東西十八間南北十間の石垣を積み、五層六階地下一階の大天守を建て、これに三基の小天守が連立する守りの堅い城とした。

およそ九年の歳月を費やし、大拡張を行い近世の城として日本一の華麗さを誇る城となった。

姫路城の規模は現在の数十倍の規模を有しており、城址公園になっている堀に囲まれた内側でも当時の1/3の範囲にすぎない。

□姫路城は世界文化遺産文化財部門の日本認定第一号 (奈良法隆寺とともに)

□姫路城は建造物がそのまま残る唯一の城として、国宝・重要文化財・特別史跡に指定されている。

遺跡 ◇五層七階の大天守、西小天守、乾小天守、東小天守 天守丸渡櫓他

賤ヶ岳合戦図屏風  (六曲一双)

原本     大阪城天守閣收藏

製作年代 江戸時代

天正十一年(一五八三)四月、前年本能寺の変に倒れた織田信長の後継者の地位を争う羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が近江国(滋賀県)の琵琶湖北部で激突し、秀吉が大勝した戦いを賤ヶ岳合戦と呼んでいる。

合戦は、四月二十日、秀吉が岐阜城攻撃に出陣した直後、柴田の重臣佐久間盛政は、秀吉の家臣中川清秀の守る余呉湖東側の大岩山砦と同じく高山右近の守る岩崎山砦を奇襲し、両砦を占領した。

大垣でこの知らせ受けた秀吉は、直ちに兵を返して江北へ向い、その日のうちに木之本に到着、翌朝、慌てて撤兵をはかる盛政軍を追撃し、桑山重晴の守る賤ヶ岳砦を拠点に、柴田方の佐久間盛政・柴田勝政の部隊を一挙に撃破して、北国街道へ敗走せしめた。

その結果、余呉湖北方の柳ヶ瀬に本陣を布いていた柴田勝家は北ノ庄城(福井県)へ逃げ戻り、同月二十三日自刃して果てた。

秀吉が天下人への地歩を固めたこの画期的な戦いを主題とする本屏風は、四月二十一日の賤ヶ岳西方の激戦を描いている。

この屏風絵は、賤ヶ岳西側の下方のの切り通し付近での秀吉の小姓らいわゆる七本槍の奮戦ぶりを画面中央に据えて、秀吉軍の勝利と柴田軍の敗走の様子を描いている。

大坂夏の陣図屏風  (六曲一双)

原本      大阪城天守閣收藏

製作年代  江戸時代

元和元年(一六一五)五月七日、大坂城の南部一帯を戦場に、徳川軍十五万五千余、豊臣軍約五万五千の大軍が最後の決戦を繰り広げた。

戦いは激烈・悲惨をきわめ一般市民・婦女子を巻き込み、両軍の死者合計約三万人を数えたと言われる。

この日の夕方、ついに大阪城は落城、秀吉の権勢のシンボルであった五層の大天守も本丸殿館もろとも焼亡した。

翌日、秀頼は自刃してはて、わずか二代にして豊臣氏は亡んだ。

この世紀の戦いを 「大坂夏の陣」という。

これをもって応仁の乱以来一世紀余りも続いた戦国の時代にようやく終止符がうたれ、以降二百五十年余の徳川長期政権の時代を迎える。

大坂夏の陣図屏風(右隻)は、九州の黒田家に伝わったことから黒田屏風と呼ばれている。

黒田家の記録では、先の大坂冬の陣に豊臣恩顧の大名ということで参戦が許されなかった黒田長政が滅びゆく旧主家へ捧げる挽歌といえる六双一曲の大画面は大阪城落城寸前の城を背景に各戦闘場面が描かれている歴史的にも貴重な絵画の一点です。

昭和六年復興の現大坂城天守閣も本屏風に拠っている。

 

7        地下: 無料ゲームコーナー

家族連れにはうれしい無料ゲームコーナーです。

 

 

 

 

 

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