尾崎紅葉の「金色夜叉」は熱海を舞台にした小説です。
元は文語体ですが、岩波文庫版の文語体に早々に挫折し、下の本に乗り換えました。
物語は端折られていましたが、当時の社会、政治状況も併せて説明があった分、十分に満足の行く内容でした。
残念なのは物語が紅葉の病のために中絶し、これからという場面でぷっつりと終わってしまったこと。
熱海の海岸にある像から想像していた寛一像は、雄々しく自分の道を進んでいくタイプと思っていましたが、お宮、赤樫満枝に告白されても態度が煮え切らない優柔不断の男。
小説の中では、復讐のために高利貸しになったということですが、目的が何なのか全く分かりませんでした。
でも劇場では映える筋書かもしれませんね。
実は小説には明示されてないのですが、熱海の海岸に「お宮の松」があります。
こんな感じで、松の側で「来年の今月今夜に・・」と言っていたのではということで、松とお宮さんが結びつきました。
※熱海城にある記念写真用のパネル。
「お宮の松」の由来
お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものです。
この松は、江戸時代前期(一六四五年頃)、知恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれております。
この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の橋」とも呼ばれていました。
明治三〇年(一八九七年)から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものです。
このことから、大正八年(一九一九年) 熱海に別荘を持って「いた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立されました。
この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。
また、この碑も女性的な感じから川端康成は「石そのものも可憐な女の後ろ姿に似た記念碑」と認めています。
昭和二十四年(一九四九年)、 キティ台風により道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ三〇〇年で現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約二メートルの場所にありました。)
市では市民皆様の力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。
その結果、五十数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを二代目「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏より寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大なご協力により、昭和四十一年二代目「お宮の松」として完成したものです。
「お宮の松」の樹齢は、平成十三年(二〇〇一年)添松はおよそ七十五年になります。
小栗風葉の句碑「宮に似たうしろ姿や春の月」
昭和30年代初代 [お宮の松]
※起雲閣にあった写真
尾崎紅葉(1867-1903)
鴎外等と並び明治を代表する文豪。
胃癌のため35才の若さで惜しまれつつ世を去ったが、晩年、読売新聞紙上に連載した恋愛小説「金色夜叉」が日本全国の読者の熱狂的支持を得 その舞台となった熱海海岸は一躍全国に知れわたった。
以来、熱海市は国観光温泉文化都市を標榜し、 全国有数の観光地として大きな発展をとげ、今日に至っている。
熱海市民は、尾崎紅葉先生の業績に感謝するとともにその遺徳を偲び「金色夜叉」の「来年の今月今夜のこの月を」の名科日で有名な貫一・お客の別離の日、1月17日を記念日と定め、尾崎紅葉祭を開置している。
明治の文豪尾崎紅葉の代表作『金色夜叉』は、明治三十年一月一日から五年半に渡り新聞に連載され、たちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起しました。
ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮(しぎさわみや)がカルタ会の席で、銀行家の息子、富山に見初められることに始まります。
宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者・間貫一がいたにもかかわらず、それを承知で両親が富山の求婚を受け入れたことから繰り広げられる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌
熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ
共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り
が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになりました。
今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に『金色夜叉』が大きなきっかけになったことは申すまでもありません。
金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が.....
月が……月が…・・・・・ 曇ったらば、宮さん、 貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思ってくれ」の名台詞と共に、歳月の移り変わりにもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくことでしょう。
紅葉は、三十五歳の若さで死去し、『金色夜叉』はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに、紅葉の高弟であった小栗風葉(おぐりふうよう)によって完成されたのであります。
熱海市では毎年一月十七日、作者を偲んで尾崎紅祭が行われます。
貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青(たてのこうせい)氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立三十周年の記念に、昭和六十一年一月十七日、熱海市に寄贈したものであります。
平成元年五月吉日
寄贈
熱海ロータリークラブ
お宮の松は熱海海岸沿いにありました。
冒頭に書いたように「金色夜叉」の小説自体は、納得できない内容が多いのですが、熱海は尾崎紅葉のこの小説が観光資源として大活躍しているのがよく分かりました。