博覧強記 史跡

熱海の鉄道の歴史 / 大湯間歇泉(かんけつせん)

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熱海の観光スポットは何も、「お宮の松」「熱海城」「起雲閣」だけではありません。

見どころは他にもたくさんあります。

1        熱海の鉄道の歴史

観光地熱海の鉄道は人が押す人車鉄道からスタートしました。

それが、同じ軌道敷を使った蒸気機関車牽引の軽便鉄道と変わり、最後に東海道本戦に置き換わります。

今、東海道線に乗っても、小田原から熱海まで伊豆半島横断には長いトンネルがあり、トンネルが無い時代には、さしもの名湯を誇った熱海でも関東から人を呼ぶのは大変だったろうと思います。

 

1.1         豆相(ずそう)人車鉄道の碑

大江戸温泉の前にあります。

かつて、熱海と小田原間を走っていた人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道です。

鉄道が整備されてない頃は小田原から熱海に行くには、海岸沿いの険しい道を行くしかなかったのですが、ここに鉄道を敷きました。

しかも人力鉄道です。

この鉄道のおかげで、駕籠で6時間かかっていた道程が4時間になったとのことです。

豆相(ずそう)人車鉄道

「豆相人車鉄道」は雨宮敬次郎氏と、地元の有志20余名の努力によって明治29年(1896) 3月、 熱海-小田原間 (25km) 全線が開通した。

所要時間は4時間ほどであった。 この人車鉄道は定員6名あるいは8名の客車を3名の人夫が押すという、きわめて原始的なものであった。明治29年当時の運賃は熱海から小田原まで、下等40銭、中等60銭、上等1円、 3歳未満は無料、10歳未満は半額というものであった。

「豆相人車鉄道」は日本最初のもので、明治40年(1907) 12月、軽便鉄道にかわるまでの12年間 貴重な交通として利用された。

 

1.2        熱海軽便鉄道7機関車

熱海駅前にひっそりと展示されています。

豆相人車鉄道は、1907年熱海鉄道と改めて蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えました。

4時間かかっていた小田原―熱海間が2時間40分となりました。

この鉄道は1923年の関東大震災で損傷したため廃線となっています。

その後は東海道線に引き継がれてゆきます。

 

熱海軽便鉄道7機関車

この機関車は明治40年から大正12年まで、 熱海=小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。

この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍したのち神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷へ貴重な交通記念物としてかえってきたものです。

機関車の規格

車両の長さ3.36m 高さ 2.14m 幅 1.39m

重さ 3.6t 時速 9.7km

客車定員 40~50 名

熱海 小田原の所要時間

.  軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線 = 10分

 

2        大湯間歇泉(かんけつせん)

バスで、大湯間歇泉の停留所で降ります。

なぜ「間泉」ではなく「間泉」かというと、「(欠)缼」は「少ない」「足りない」「不完全な」「かける」の意味で、「歇」は「やすむ」、「やむ」の意味の様です。

「一定の時間をおいて起こったりやんだりすること」の意で「カンケツ」という場合には、「間歇」の方が本来の意味的は正しいようです。

 

昔は、ちゃんと自然に間歇的に自噴をしていたようですが、現在は観光用に人工的に間歇噴出させているようです。

 

大湯間歇泉と噏滊館(きゅうきかん・温泉療養施設)

熱海温泉には、江戸幕府を開いた徳川家康が二度、湯治に来ています。

最初はまだ天下をとる前の慶長2年(1597)、二度目は征夷大将軍となった後の慶長9年(1604) 3月で、この時には義直(のちの初代尾張藩主)と頼宜(のちの初代紀伊藩主) の二人の息子を連れて今井半太夫の本陣を訪れ、大湯で7日間の湯治を行いました。

家康はこの湯をたいへん気に入り、同年7月には伏見城に参勤にきた周防の吉川広家のため熱海から大湯5桶を取り寄せています。

4代将軍家綱の時代には、江戸の将軍家にこの大湯を献上する「御汲湯」が始まり、8代将軍吉宗や10代将軍家治の時代にも多くの湯が運ばれました。

当時、大湯は昼夜6回、ほぼ同じ時刻に蒸気と熱湯の噴出を繰り返し、その様子を江戸後期の戯作者山東京山は「石龍熱湯を吐くがごとく 湯雲のごとくたち昇り泉声雷(せんせいらい)のごとし。本朝第一の名湯なり。」(『熱海温泉図彙(ずい)』)と記しています。

また、およそ一か月に一度、「長湧き」といわれる昼夜続けざまの噴出があったといわれています。

明治に入り、維新で活躍した政治家や実業家らが熱海温泉に続々と訪れるようになると、 明治 18 年 (1885) この地に日本初の近代的な温泉療養医学センターともいうべき「噏滊館」が建設されました。 これは地元から土地の献納を受けてつくられた宮内省直轄の施設で、規則正しく噴出する大湯間歇泉からの蒸気を患者が吸入し胸部疾患治療を施すというものでした。

さらに館内には、 体重計、身長計、肺活量計、寒暖計、湿度計、気圧計、 雨量計など医療及び測候に必要な当時の最新機器も備え、別に浴室を設けて入浴療法などもおこなわれました。

また、 明治22年 (1889) 噏滊館内に日本最初の市外電話 (東京-熱海間)が設けられ、大日本帝国憲法発布の報道も全国で熱海にだけ電話で通報されたといわれています。

明治24年(1891) 噏滊館は宮内省から温泉業者一同に払い下げとなりましたが、昭和9年 (1934) に焼失するまで、熱海の名所の一つとなっていました。

噏滊館に噴出する蒸気を提供していた大湯は、明治以降、 周辺で新たな源泉が開発されるとしだいに湯量や噴出回数が減少し、 大正12年 (1923) 関東大震災で一時的に噴出量が増したものの、再び衰え、とうとう休止してしまいました。

現在は、昭和37年(1962) の工事により人工的に湯を噴出させ、 往年の大湯噴出の様子を再現しています。

昭和52年(1977) 4月25日、史跡「大湯間歇泉跡」 として、 熱海市指定有形文化財に

指定されました。

市外電話創始の他

明治22年(1859年)1月1日この場所にもつた内務省の噏滊館と東京木挽町の東京電信司との間にわが国で初めて公衆用の市外通話が行なわれました

これはアメリカのアレクサンダー、グラハム・ベルが電話機を発明してから13年後のことであります。

昭和37 8

日本電信電話公社

 

駐日英国公使サー・ラザフォード・オールコックの碑と、その愛犬の墓がこんなところに。

オールコック滞在記念碑とトビーの墓碑

初代駐日英国公使サー・ラザフォード・オールコック (1809~1897) は万延元年(1860) 7月、外国人として初めて富士登山をした際、帰路熱海に立ち寄り、本陣今井半太夫方に2週間ほど滞在しました。

この滞在記念碑には「熱海温泉に浴し、山海奇勝(自然)を愛するあまりこの石碑を建て、後の人に熱海に遊んだ英国人は自分が最初であることを知らせる」ということが漢文で刻まれています。

また、本国から連れてきた愛犬トビー(スコッチ・テリア)が、噴出した大湯に触れて大火傷を負い死んでしまった際、里人は人の死を悼むのと変わらない葬儀を行い、丁重に弔いました。

オールコックは江戸に戻った後、自らの滞在記念碑とともに、「Poor Toby (かわいそうなトビー)」と刻んだ墓碑をこの地に送り届けました。

攘夷派による外国人襲撃事件がたびたび起こり、日本人への印象が悪化していたこの時期に、オールコックは愛犬の死への里人の懇切な対応に心を動かされ、帰国後に執筆した著書「大君の都」 ( 1863年発刊)の中で 「日本人はまことに親切な国民である」と記し、英国世論が親日的となるきっかけをもたらしました。

 

大湯

古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。

「大湯」 の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、 地面が揺れるようであったといいます。

明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。

しかし、その後も噴出回数は減少しつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。

昭和37年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至っています。

 

3        湯前(ゆぜん)神社

熱海市指定文化財

湯前(ゆぜん)神社 石鳥居・石燈籠
平成十八年十二月四日熱海市教育委員会指定 (第建三号・第建四号)

湯前神社石鳥居、石燈籠(境内中段左右二基)は、江戸時代に熱海温泉に湯治した大名が寄進した石造物で、 熱海温泉の歴史を考える上で特に意義のある資料です。

熱海市内には、江戸時代に遡る石丁場がいたるところに存在し、産業が盛んであったと考えられるが、伊豆東海岸で多く産出される安山岩を使用して作られた石鳥居、石燈籠は熱海市の産業を考える上で貴重な資料です。

 

石鳥居

安永九年(一七八〇年) 八月に第七代久留米藩主有馬賴撞公が来湯し、九月に御帰館する際、湯前権現(現湯前神社)に寄進されたものです。

石鳥居の高さは三四五cm、横幅四一〇cm、柱の太さは一〇五cm(直径三五cm)で両柱の石をくりぬき造りあげた石の鳥居は、全国的にも稀な建造物です。

 

石燈籠

宝暦八年(一七五八年) 夏に第七代久留米藩主有馬賴撞公が熱海に来湯した際、湯前権現(現湯前神社)に寄進されたものです。

石燈籠の高さは二〇五cm、横幅七五cm、柱の太さは一〇五cm(直径三五cm)石鳥居・石燈籠とも関東大震災等多くの自然災害にも倒壊することなく今日に至っていますが石鳥居は、柱に疲れが生じたことから平成十五年五月に基礎部分の修復工事を行いました。

寄進の時期は、石鳥居・石燈籠の本体に刻印があります。

 

<有馬賴撞公> 正徳四年十一月二十四日~天明三年十月二十三日(一七一四年〜一七八三年)

有馬賴憧公は、久留米に生まれ享保十四年に久留米藩第七代藩主となり、治世は十一代藩主中で最も長い五十五年間でした。 (享年七十歳)

関流算学の大家として日本数学史上に特筆され、その功績により明治四十四年十一月十五日、明治天皇より従三位を追贈されました。

 

湯前神社(ゆぜんじんじゃ) 由来記

祭神 少彦名神(すくなひこなのかみ)

玄古(いにしえ) 大己貴神(おおなもちのかみ)、少彦名神の二柱 我が秋津洲の民が夭折(わかしに)することを憫(あわれ) み禁薬 (くすり)と温泉の術を制めたまいき(伊豆風土記)とある如く温泉の神として古代から尊崇されている。

例祭 二月十日。十月十日

 

由緒

旧記に依れば「今から一千二百余年前(天平勝宝元年)神、小童に託して曰く、諸人此なる温泉に浴せば諸病悉(ことごと)く治癒 (じゅ) せんと因 (よ) って里人祠(ほこら)をたて少彦名神を祀る」とあり。

然れども往古 熱海に温泉の湧出せし時には既に祀られしものと考えられる。

永正十八年、寛文七年に再興している。

平安朝の頃より徳川明治に至る迄公家、 将軍、 大名等を始め入浴者及び一般庶民の崇敬が厚い。

特殊神事 献湯祭 (けんとうさい)。 湯汲 (ゆく ) み道中。

毎年春秋二季の例祭に当り 神前に元湯の温泉を献湯して浴客の健康安全を祈り併せて江戸城へ当温泉を献上せし往古を偲んで 古式に則り 「湯汲み道中」 が行われ此の日は市中が賑わう。

撰文 雨宮治一

書   鈴木丹陽

4        小沢の湯

「熱海七湯」といわれる源泉で、坂の途中にあります。

この小沢の湯では、吹き出す蒸気で温泉卵を作って食べることができます。

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