史跡

三十三間堂・ 後白河上皇の離宮や、秀吉の大仏殿と共に存在していたことも

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三十三間堂は京都を代表する観光地です。

その歴史は古く、元々後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があり、その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂(三十三間堂)です。

上皇が、平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したということです。

その後、鎌倉時代の建長元年(1249年)の建長の大火で焼失し、元寇の年・文永3年(1266年)に現在「三十三間堂」と称されている本堂のみが再建されています。

桃山時代には、豊臣秀吉による方広寺(京の大仏)造営により、三十三間堂や後白河天皇法住寺陵もその境内に含まれることになります。

 

1        蓮華王院本堂(三十三間堂)本堂

蓮華王院本堂(三十三間堂)

現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛二年(一一六四)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。

一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(一二六六)に再建。

その後、四度の大修理を経て七百五十年以上の間護持されている。

長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に百十八メートルあり、お堂内陣の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に千一体もの観音像(国宝)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という三十体の仏像(国宝)が祀られている。

境内の太閤塀と南大門は豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の冬の風物詩になっている。

京都市

 

拝観するには、北側にある瓦屋根の拝観受付で拝観料を納めます。

靴を脱いで、堂内へ。

しかし、内部は撮影禁止で、観音様の御影は写せずじまい。

沢山の観音様を見た後、本堂の中間あたりで、一旦外に出られます。

三十三間堂の西側は、「通し矢」 射場となっています。

西側にある門には「通し矢射場」の札が架けてありました。

 

「通し矢」 射場

江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢 「天下一」の争奪戦は民衆の評判となりました。

縁側の柱や軒に残る鉄板は、 雨あられと飛びくる矢からお堂を守るために徳川第三代将軍家光が付加したものです。

西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射つづけるという「大矢数」は身命を賭けた凄絶な競技で、江戸時代を通じて、約八百人がこれに挑み、時々のおもいをのせて放たれた矢数も延べ百万本に達すると伝えられます。

毎年正月 (15日に近い日曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行なわれ、全国から約二千人が参加し終日、賑わいをみます。

南側からみたお堂です。

そしてこちらが東側。

2        夜泣泉(よなきせん)

夜泣泉(よなきせん)

お堂創建の翌年 (1165) 6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で 『古今著聞集』には「いつも冷たく美味しくて飲んでもお腹を痛めることのない“極楽井”でどんなに汲んでも尽きず、汲まない時も余ることのない不思議な泉だ。」 と記されています。

夜のしじまに水の湧き出す音が人の“すすり泣き”に似ることから “夜泣き” と言われるようになり、いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られて、 特に幼児の 「夜泣き封じ」 に功徳があるとして地蔵さまの 「前掛け」を持ちかえり子供の枕に敷けば“夜泣き” が治るとされ、今もそのご利益を求める参拝が続いています。

 

3        池泉回遊式庭園

本殿の東側にあります。

 

4        後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑

後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑 (ほうじゅうじどのあとひ)

法住寺殿は、保元3年 (1158)8月、 その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政 (上皇が天皇に代って政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。

上皇になると天皇の住う御所とは別の所に専用の“院御所” を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行なわれました。

後白河院は譲位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路(現・東海道線南・大谷高校辺) から六条大路(現・六条通り) に及ぶ広大な地域で、その地名を取り「法住寺殿」 と名付けたのでした。

構内は政治的な施設の 「北殿」 と “常の御所” と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した 「南殿」に分かれ、東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍を並べたといいます。

永暦2年(1161) 4月、月明かりの夜に、上皇はここに移り以後20年住まいとします。

しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183) 11月、 対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。

800年の昔に変らぬ姿でこの場所に伝承されてきた三十三間堂は、 その時代をしのぶ稀有の物証といえるでしょう。

 

法住寺の地図。

北を上にするために、立て札に書かれた地図を90度回転させました。

三十三間堂の東に南殿、南殿の北に北殿がありました。

5        秀吉の建てた方広寺の中にあった時代

豊臣秀吉は法住寺殿跡地に方広寺大仏殿を造営しました。

それより前に、同じ跡地に移って来ていたのが、天台宗の妙法院です。

秀吉の時代には、三十三間堂は方広寺の管理下にあったようですが、豊臣氏が江戸幕府に滅ぼされたことを受けて管理は妙法院に移ったようです。

そして現在も、妙法院の飛地境内として、同院が所有・管理しています。

 

横山華山作の花洛一覧図では、巨大な方広寺大仏殿が描かれ、江戸時代における三十三間堂と方広寺の位置関係がよく分かります。

国指定史跡 (京都国立博物館 方広寺遺構解説板)

方広寺の遺構

京都国立博物館は、 豊臣秀吉が創建した方広寺の境内南側であった場所に建てられています。

方広寺は天正十四年(1586) に建立が始められ、 子秀頼によって整備された桃山時代の寺院です。

平成知新館の設計にあたっては、 蓮華王院(三十三間堂)の南大門の中心を通り、 明治古都館と正門を結ぶ東西軸に直交する南北軸線上に、新しい入口を設けました。

建設工事に先だって発掘調査が行われ、 この新しい入口の地下約1mの深さから寺の南之門跡や回廊跡を示す柱の根石 (集石) が検出されました。

また、寺の南辺を区切る長い石垣(石塁)の下部石積みも発掘されています。

平成知新館の建設にあたっては、地中にある柱の遺構を慎重に保存し、その正確な位置を金属製の円環によって地上に示しました。

また、 水盤の前に設けられている石列は、かつて石垣のあったおよその場所を示しています。

ありし日の方広寺の様子を偲んでいただきたいと思います。

(国指定史跡 「方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔」 の一部)

三十三間堂は歴史の変遷の中で法住寺殿から方広寺、そして妙法院へと管轄が変わりながら現代に至っています。

見学時は現代のお堂だけでなく、昔の風景も頭に描きながら見学すると、また一つ違った姿が見えてくるかもしれません。

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