東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派の大本山の寺院です。
嘉禎2年(1236年)、摂政九条道家は、九条家の菩提寺として、この地に大寺院を建立することを発願し、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」としました。
東福寺のバス停で降り、そこから歩いて向かいます。
日下部門まで徒歩4分です。
しばらく行くと、境内から流れてくる三ノ橋川に架かる臥雲橋から東福寺の通天橋を見ることができます。
ここは紅葉が渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)いっぱいに広がると有名なフォトスポットで、沢山の人が、欄干に集まって写真を撮っていました。
紅葉が見頃の期間は撮影禁止との情報がありましたが、特に制限はありませんでした。
日下部門に着きました。いよいよ入場です。
正面に大きな本堂が見えます。
目次
1 本堂
猫のいる大涅槃図で知られる本堂(仏殿兼法堂)
昭和9年築の重層入母屋造の大建築。
天井の蒼龍図は堂本印象作。
春の涅槃会には明兆の大涅槃図が公開される。
拝観券は、本坊庭園(方丈)と通天橋・開山堂別々に買えますが、ここは共通拝観券を買います。
2 通天橋
まずは通天橋へ。
そしてこれが、先ほど臥雲橋から見えた通天橋です。
橋の中央には「通天台」と呼ばれる舞台があります。
本堂と開山堂を結んで架かる橋です。 ここから眺める渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉と新緑は絶景。
黄金色に染まる珍しい三ツ葉楓は聖一国師が宋から伝えた唐楓といわれている。
今度は、通天橋から臥雲橋を眺めます。
3 開山堂
1280年入定(にゅうじょう) の聖一国師を祀る。
楼閣そびえる伝衣閣 (でんねかく)にある「三国伝来の「布袋」像は伏見人形のルーツ。
普門院前の庭園は江戸中期の名園。
建物の作り方が独特です。
4 愛染堂
室町時代の建物ですが、赤い塗装が映え、古さを感じさせません。
重要文化財
東福寺愛染堂
室町時代前期
江戸時代まで東福寺北隣にあった塔頭三聖寺(鎌倉時代創建、廃寺)の愛染堂で、昭和九年の室戸台風で倒壊し、現在は東福寺普門院辺のこの地に移転され修理された。
朱塗の八角円堂で、屋根は一重、宝形造でこけら葺とする。
八面観音開きの開口部とし、正面後方三面の位置に設けた須弥壇上に宝塔形の厨子を置き、中に鎌倉時代制作になる愛染明王坐像を安置する。
また隣には元は中国の海神で禅院伽藍を守護するとされる招宝七郎(しょうぼうしちろう)を祀る。
愛染明王は十二の広大な誓願を発して、一切衆生を諸々の苦悩から救い愛と尊敬の心を与え、悪縁を断ち切ってすべての人々に安寧を授けるという。
とりわけ女性に善き愛を与えて良縁を結び、結婚すれば善根となる子を授け、出産の苦を和らげ、子供には福徳と愛嬌を授けるとされる。
5 方丈・八相の庭
東福寺方丈と「八相の庭」
方丈とは禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなった。東福寺方丈は明治十四年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失したが明治二十三年(一八九〇)に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮している。
内部は三室二列の六室とし、南面に広縁を設ける。
中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸とする。
広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道」に因んで「八相の庭」と称する。
禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは東福寺の方丈のみである。
作庭家・重森三玲(一八九六~一九七五)によって昭和十四年(一九三九)に完成されたもので、当寺の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として広世界各国に紹介されている。
5.1 【南庭】
「八相の庭」とは、四庭に配された「蓬莱」「方丈」「瀛洲(えいじゅう)」「壷梁(こりょう)」「八海」「五山」「井田市松」「北斗七星」の八つを、「八相成道(釈迦の生涯の八つの重要な出来事)」に因んで命名されたものである。
古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「壷梁」と呼ばれる四仙島があり、島には仏薬財宝があると信じられた。
広さ二一〇坪の枯山水庭園である南庭は、この四仙島を十八尺の長石を基本に巨石を剛健に配し、渦巻く砂紋によって「八海」を表す。
西方には「五山」になぞらえた築山を置き、その苔地と砂紋とを区切る斜線の表現も効果的である。
南正面に設けられた向唐破風の表門は昭憲皇太后の寄進と伝わる。
恩賜門とも呼ばれ、小型ながら明治期唐門の代表作である。
5.2 【東庭】
雲文様地割に円柱の石で北斗七星を構成し、北斗の庭と呼ばれる。
北斗七星に見立てた石は、もと東司(重要文化財、旧便所)の柱石の余石を利用したもの。
後方には天の川を表した生垣が配され、夜空が足元に広がるかのような小宇宙を造りだしている。
5.3 【西庭】
さつきの刈り込みと砂地とを葛石で方形に区切り、大きく市松模様に図案化する。
井の字に等分した古代中国の田制「井田」に因み、「井田市松」と呼ばれる。
北庭へ続く途中には「通天台」と呼ばれる舞台が設けられ、眼下に渓谷「洗玉澗」を一望できる。
写真の奥に見えるのが通天橋です。
5.4 【北庭】
ウマスギゴケの緑との対比も色鮮やかな市松模様の敷石は、もと恩賜門に使われていたものである。
サツキの丸刈りとの調和の妙も誠に印象深く、彫刻家イサム・ノグチはこの庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評した。
秋には、背景の紅葉の赤色と聖一国師が宋より持来したといわれ唐楓「通天紅葉」の黄金色とが織りなす色彩感あふれる空間となる。
5.5 方丈から見る龍吟庵方向
6 書院
7 三門(国宝)
知恩院の三門と同じくらい大きな門です。大きさに圧倒されます。
手前には思遠池があり、蓮が植えてありました。
大仏(天竺) 様を思わせる、 室町初期の再建。
扁額「妙雲閣 (みょううんかく)」 は足利義持筆。
楼上内部には諸仏が並び、天井や柱には明兆と弟子による極彩画が描かれている。
この巨大な門を惜しみながら、今度は近くの六波羅門から出て、次へ向かいました。