武甲山は秩父盆地の南側にあり、標高は1,304メートルです。
北側斜面は石灰岩質、南側斜面は緑色岩であり、北側の石灰岩は採掘が盛んに行われ、山容は著しく変化しています。
石質が縦方向に異なる理由は、「武甲山ってどうしてできたの?」でその成り立ちが記載されています。
昔は、「神様のこもる山」と呼ばれていたそうですが、今のこの姿を見たら昔の人は嘆き悲しむのではないでしょうか。
ともあれ、ここで取れた石灰岩は高度経済成長の日本を支えるセメントの原料として発展する都市に供給されてきました。
メモ
セメントは石灰石(炭酸カルシウム:CaCO3)を粘土、ケイ石、酸化鉄と共に910℃以上の高温で焼いて、CO2を排出させます。
1㎏の石灰石を焼成すると理論上は0.44㎏の二酸化炭素を空気中に放出します。
コンクリートは、砂、砂利、水などをセメントで固めた物で、固まるときに水と反応して、一連の化学反応を開始し、深部で複雑な微細構造を形作ります。
そのため、大量の水を内部に閉じ込めているのに、乾かないどころか耐水性を持ちます。
コンクリートの場合、加える水の量が多すぎると反応相手であるセメント粉末のケイ酸カルシウムが不足し、水が構造物の中に残ってもろくなります。
逆に加える水が少なすぎると反応しないセメントが残り、弱くなります。
最初のコンクリートの発見はローマ人で、火山が勝手に現代のセメントの製法と似た工程で作り出した天然のセメントを使っていました。
しかしながら、この当時のコンクリートには欠陥がありました。
圧縮には強いが、引っ張りには弱く、ひとたび亀裂がはいるともろくも構造物が壊れてしまう事でした。
この問題の解決は19世紀に、鉄筋を入れることで解決しました。
コンクリートと鋼鉄は温度による膨張、収縮が幸運にもほとんど違わない魔法の組み合わせでした。
鉄筋コンクリートの弱みは、コンクリートの表面にひびが入ると、そこから水が浸入し、鉄筋を腐食してしまうことにある。
従って、約50年に一度は保守を行う必要があります。
そんな武甲山の全てが分かるのが、武甲山資料館です。
目次
1 武甲山の全景
2 武甲山資料館外観
武甲山資料館
所在地 秩父市大字大宮
武甲山は、ここから南東の方向に見える独立峰で、この山は麓の人々からは単なる山塊としてではなく「神様のこもる山」として崇められてきた。
また自然科学上から見ても 地質・動物・植物等、秩父の山塊のうち他にその類を見ない貴重な存在であった。
北面及び頂上の石灰岩採掘によって山容は、自然科学上の価値も消失していくので、秩父市・横瀬村・秩父自然保護委員会・秩父セメント株式会社・三菱鉱業セメント株式会社武甲鉱業株式会社等で「武甲山資料保存会」を設立し、この資料館を建設して、ここに失なわれてゆく貴重な資料を収集保存し、往時の武甲山の全貌を後世に伝えるため、この資料館を建設したものである。
ここでは、系統立てて展示されている資料をもとに、秩父の名山、武甲山の過去、現在、未来を詳しく知ることができる。
昭和五十六年三月
3 昔の武甲山の写真
4 資料館設立趣意
資料館設立趣意
崇神天皇の御代、 知知夫(ちちぶ)国の祖神であった、 知知夫彦命の霊を、この武甲山に奉祀して以来今日まで、神奈備山(神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。
信仰の山としての山塊であるばかりではなく、 自然科学から見ても、 地質、 動物、植物など、秩父の山塊のうち、他にその類を見ない貴重な存在でした。
北面及び頂上の石灰岩採掘によって山容は変貌し、自然科学としての価値も消失して行きます。
今ここに失われて行く資料を蒐集し、当時の武甲山の全貌を後世に伝えるために、 資料館を設立いたしました。
5 武甲山資料館建設の経緯
武甲山資料館建設の経緯
この資料館は、秩父盆地のシンボル武甲山が、 石灰石採掘によって変容するので、 採掘前の武甲山の姿と、 そこに生息する動物、植物等の歴史的資料を展示し、それを後世に伝えるために、 秩父自然保護委員会・清水武甲会長の提案により、 昭和51年4月、秩父市、 横瀬村、秩父自然保護委員会、セメント関係企業3社によって、 武甲山資料保存会を設立すると共に、 その内容については、資料館建設準備室において検討を加えてまいりました。
その結果、 動物、植物、 地質コーナー及び、石灰石の利使用等の産業コーナーを始めとした武甲山の過去、現在、未来を含めたあらゆる姿を網羅した資料館が、 秩父セメント株式会社、三菱鉱業セメント株式会社、 武甲鉱業株式会社によって当地に建設され、それを秩父市に寄附、一般参観者に開放されたものであります。
6 秩父台地の成り立ち
大洋の時代
列島の土台の中に含まれる岩石が形成される
(古生代~中生代 約3億年~約2億年前)
日本列島はまだ形もなく、いずれ列島の基盤を形作っていく岩石が大洋で生まれた時代です。
海底火山 (玄武岩)は、熱水によって変化して緑色岩になり、 火山島の周りの浅海に栄えたサンゴや二枚貝などの遺骸は石灰岩に、 深海底には放散虫という微生物の遺骸が積もり、チャートという岩石になります。
大陸縁辺部の時代 (付加体形成)
大陸縁辺で日本列島の土台が形成される
(中生代 ~ 新生代 約2億年前~約2000万年前)
大洋で生まれた岩石は、 海洋プレートに乗って運ばれていき、 海溝で沈み込む海洋プレートから剥がされ、 大陸から流れ込んだ泥・砂とともに大陸プレートに押し付けられて 「付加体」を形成します。
ジュラ紀には 「秩父帯」、 白亜紀~新第三紀 「四万十帯」 をつくり、また秩父帯の下に潜り込んで地下の高い圧力を受けた岩石が 「三波川帯」 の変成岩になり、 秩父帯の上の浅海には「山中地溝帯」 の泥・砂礫が積もります。
古秩父湾の時代
日本海が拡大し日本列島の原型が形成される
(新生代新第三紀 約2000万年~ 約1000万年前)
海溝に海洋プレートが沈み込むにつれ、 大陸の東縁部の地下からマグマが上昇し、 沿岸の地殻が引き延ばされていきます。
次第に縁辺が大陸から離れ、 その間に日本海ができました。
日本列島の誕生です。
後の東北日本、西南日本となる島々が観音開きのように回転しながら広がり、 約1500万年前に現在の位置にたどりつきます。
そのころ、 現在の秩父盆地周辺では 「古秩父湾」 と呼ばれる海が広がっていました。
列島の時代
山や平野が形成される
(新生代新第三紀~第四紀 約1000万年~現在)
日本列島の地形が形成される時代です。
約300万年前に列島を東西に圧縮する力が働き、 関東山地が高くなり、 河川は山を削って渓谷をつくります。
秩父盆地では、古秩父湾の時代に堆積した地層を荒川が削って河成段丘ができました。
また、 九州から中部地方の活発な火山活動によって火山灰が広範囲に堆積し、 関東ローム層が形成されます。
化石と書いてありました。
7 『武甲山』 山名の由来と変遷
『武甲山』 山名の由来と変遷
武甲山の歴史をたどってみると、現在の 「武甲山」と呼ばれるようになるまでに、幾つかの山名が移り変わっている。
嶽・たけ(嶽山・たけやま)
古い時代、まだ言葉のみ用いて文字を持つに至らなかった頃には 「たけ」 「たけやま」と呼んでいた。
人々にとって、この山は秩父の象徴であり、 神奈備山・かんなびやま (神様のこもる山) として崇められてきた。この山名は現在、「武山」に残っている。
知々夫ヶ嶽・ちちぶがたけ(秩父ヶ嶽)
第10代崇神天皇の時代に、 知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が知知夫の国造(くにのみやつこ)に任命され、秩父神社を拠り所にして神体山を奉祀する。
知知夫国時代へ入った時点で「知知夫ヶ嶽」 と呼ばれるようになる。
江戸時代の文献に 「秩父山」と見えるのは古代の名残であろう。
※知知夫が秩父と改まったのは「続日本紀」からみて和鋼6年 (713年)以降である。
祖父ヶ嶽(おおじがたけ)
大宝律令が制定 (701年) されて、 武蔵国初代の国司として就任した人物が引田朝臣祖父(ひきたのあみおおじ)である。
この名前が冠せられて 「祖父ヶ嶽」 と呼ばれるようになる。
武光山(たけみつやま)
平安時代 山麓地域に“武光庄”という荘園が成立した。
“武光”とは荘園の開発者名であろう。
これによって「武光山」 と呼ばれるようになる。
妙見山(みょうけんやま)
1235年秩父神社は落雷により炎上した。これ以降同社に妙見菩薩(みょうげんだいぼさつ)が合祀され、その後秩父妙見宮として隆盛した。
これにより神体山の名称も「武光山」から「妙見山」へと変化している。
妙見は北極星・北斗七星を神霊としている。
武甲山
日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山の名前が「武甲山」になったという伝説が元禄時代頃から秩父の人々に伝承され定着した。
※ 「武光山」を音読みする記憶が残っていたのか (?)
これらの山名の変化には、それぞれの時代に秩父を代表する権威者 (政治的・宗教的)この名前、または神の名前が反映されている。
武甲山は秩父の歴史のなかでも、そびえ立つ象徴だったのである。
8 武甲山の地形と地質
武甲山は、 秩父盆地の南東隅にほぼ東西の山稜をもち、当館の位置する羊山丘陵の南端に接しています。
地形は大変険しく、 随所に断崖絶壁があり盆地とは対照的です。
これは、山の北側に広く分布する石灰岩層が、 遠い地質時代からの侵食に対し、 強
い抵抗を示して来たためです。
また、山稜の南側には主に緑色岩が発達し、 チャート、砂岩、泥岩などからなる地層が、 全体として南から北へ向かって重なり合っています。
武甲山には、 地質年代を知る化石が長い間見つかりませんでした。
近年、 コノドントと呼ばれる微化石をはじめ、 二枚貝の化石が発見され、 約2億年
前の三畳紀に海底で堆積したことが明らかにされています。
9 武甲山ってどうしてできたの?
南の海で海底火山が噴火を繰り返し、火山島に成長。
海洋プレートに乗って移動
火山活動がおさまり、 上部にサンゴ礁を形成。
海洋プレートに乗って移動
サンゴ礁は石灰岩となり、陸のプレートと接触。
大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの堆積物が大陸側に押し付けられる。
付加体の形成
大陸側に次々と付加体が追加されていく。
地表は雨や川によって侵食される。
地表の侵食が進み石灰岩 緑色岩が地上へ現れる。
山地の隆起と侵食に伴い、 突出した山 (武甲山)となる。
10 石灰岩の種類と出来方
石灰岩の種類と出来方
石灰岩は炭酸カルシウム(CaCO)を主成分とする堆積岩であり、生物起源のもの、化学的沈殿によるもの、 流水により石灰泥・砂や生物の遺骸が別の場所に運ばれ堆積したものに分けられます。
主として化石より成る石灰岩は、化石の種類に応じて珊瑚石灰岩・有孔虫石灰岩 貝殻石灰岩等に分けられます。
また、生物起源以外の石灰岩もそれを構成する粒子のあらさや、砕屑物の種類によりさらに細分されます。
石灰岩は、その生成した地質時代の情報を伝える、地質学的に重要な岩石であると同時に、たいせつな地下資源です。
11 神霊が鎮座する山
秩父の神奈備山~ 武甲山
昔、大化改新(645年) の後、埼玉・東京・神奈川(の一部)は武蔵国として統一され、それまでの知知夫は 「秩父」と改められた。
ヤマトタケルが甲冑を岩室に奉納した伝説に由来する武甲の名も、江戸期以前は、古い順に、タケ ・ ダケ (嶽)、 タケヤマ (嶽山)、 秩父獄、祖父ケ嶽、武光山、 妙見嶽 (名剣山)、 妙見山、そして武甲山と、歴史の曲折点とともに変遷してきている。
徳川幕府の頃、築城に街造りに石灰石の需要は増し、青梅や足尾など、山は次々と開発されたが、 武甲山は、 札所御開帳に多くの巡礼を集め、 祭りや絹大市などで栄える秩父を護る山として、 大正期まで本格的に開発されることはなかった。
古来より武甲山は、 秩父の神奈備 (かんなび) 山であり、 神霊が鎮座する山として、 山の自然の神代 (かみしろ) として、 里人をはじめ多くの人々の信仰の対象となっております。
12 武甲山~緑化への取り組み
武甲山~緑化への取り組み
武甲山は石灰石の山で、古代の海の贈り物と言われています。
はるか数億年前に太平洋の彼方の海で造られ、太平洋プレートに乗って日本列島へと向かい、やがて秩父にたどり着きました。
秩父地方の南方、 天空にそびえ立つ標高 1,304mの孤高の峰は、山麓に里人が住み、 社会が形づくられ、神の山として崇められるようになりました。
人々は武甲山で方角を知り、その日の天気を読んでいました。
武甲山は人々の生活と共に親しまれてきました。
近代以降、社会生活上欠かせない鉱物資源として石灰石の需要は高まり、 武甲山の採掘が始まりました。
武甲山の石灰石は北側に偏って賦存(ふぞん)しているため、 採掘しても南側に壁状の地形が残ります。 これを残壁と言います。
この残壁の造成と緑化は武甲山の採掘と共にある基本的な活動です。
今日まで、数多の人々がその山容を見上げ、 登り、崇めてきた武甲山は20世紀から 21 世紀のわずかな間の採掘活動によって、 造られた残壁として姿をとどめるに至りました。
古代の海の贈り物は山や石灰石だけではありません。
武甲山に分布する植物もまた大切な贈り物です。
武甲山の採掘にあたり、 残壁の造成と緑化はもとより、希少植物の保護育成も重要な取り組みと位置づけています。
13 武甲山~人と自然の未来
武甲山~人と自然の未来
山、 街、 私たちの暮らし
江戸期、 伊能忠敬実測原図には、 武甲山山頂が関東東北部の測量起点として記録されている。
世はやがて明治となり、まさに文明開化、 洋風化は進み、 煉瓦建築の街はコンクリートの都市へと移り替わって行った。
めざましい進歩はとどまることを知らず、 大正期に入った武甲山は、産業資源としていよいよ開発され始めたのだった。
秩父鉄道の前身、上武鉄道は明治34年(1901年) に熊谷―寄居間を開業。地元特産の生糸、織物、木材のほか、 武甲山から産出される石灰石を運ぶ貨物輸送路として、文字通り日本の高度経済成長を担ってきた。
そして私たちは21世紀を迎えるに至る。
これまでこの国を牽引してきた産業界のリーダーたちですら、現代の地球規模の環境問題は思いもよらなかったことだろう。
現在、武甲山は、 秩父のみならず、 日本にとって、工業社会のあり方を象徴する山である。
かけがいのない地球を守るため、豊かな自然環境を次世代にバトンタッチすることが、 山の神々を信じ、 山に育まれてきた秩父人、 そして今に生きるあらゆる人たちの義務であろう。
新しい科学技術も、人々の暮らしの便利さも、すべては地域と地球と共にある。
はたして私たちはこの武甲山から何を学ぶべきだろうか?
14 石灰石採掘の流れ
穿孔 せんこう 穴をあける作業
石灰石を爆破するため、穿孔機で10mほどの採掘ベンチの高さに合わせ、 直径約4~10cmの爆薬を仕掛けるための穴をあける。
発破 はっぱ 爆薬で爆破する作業
穿孔した穴に爆薬を仕掛け石灰石を爆破する。
積込運搬
発破により砕かれた石灰石は、 ホイルローダー(ドラクターショベル) のパケット(容量約10mで直接立坑に投入するか、運搬容量が50-60tの大型ダンプトラックに積みこんで、 立坑まで運搬する。
立坑投入 たてこうとうにゅう:垂直に掘り下げた坑道に石灰石を投入
採掘場とプラント設備は、 直径約5mの立坑でつながれている。
破砕・選別
立坑に投入された石灰石は、 プラント設備にて、破砕・ふるい分け・選別・運搬を繰り返し、 用途に応じた様々なサイズの石灰石製品が生産される。
出荷
プラント設備にて生産された石灰石製品は、 ベルトコンベア、 トラック、 鉄道等によって出荷される。
15 資料館からみた秩父の街
春は、芝桜でピンクの絨毯が山一杯に広がります。
秩父ジオサイト
羊山丘陵
秩父盆地に見られるひな壇のような地形は、荒川の氾濫による砂礫層の堆積や侵食作用によってできました。
盆地内には、高位段丘・中位段丘・低位段丘があり、前方の尾田蒔丘陵は約50万年前に堆積した高位段丘、 市街地は約7万年前以降の低位段丘です。
羊山丘陵は中位段丘で、礫層(約20m)は約13万年前に堆積したものです。
その後、荒川と横瀬川の侵食作用によって削られ、高低差50mほどの丘陵ができました。
尾田蒔丘陵の北部、寺尾付近も中位段丘です。