登米は、1604年(慶長9年)に「伊達政宗」(だてまさむね)の領地となり、その一門である登米伊達氏の城下町として繁栄しました。
現在、「登米」と表記される宮城県の地名は、市を表す場合には「とめ」、町名としては「とよま」と呼ばれています。
鎌倉時代には葛西氏が「奥州合戦」で武功を上げ、陸奥国(現在の宮城県から岩手県南部にかける地域)を統治していました。
1536年に15代領主の葛西晴胤が居城を石巻から登米に移しました。
登米は水陸の交通要所であり、領地経営に適した場所とされています。
しかし、豊臣秀吉に反旗を翻した葛西氏は滅亡し、登米の治世は木村氏に引き継がれました。
木村氏の圧政に苦しんだ葛西氏の旧臣と農民は一揆を起こし、伊達政宗が一揆を平定しました。
その後、登米は「白石宗直」によって統治されました。1606年には町割りが行われ、家中町や町屋敷が整備され、登米伊達家の基盤が築かれました。
武家屋敷全景
目次
1 みやぎ北上商工会登米市所
武家屋敷の門が特徴的です。
登米の武家屋敷は、門を入ると片側に、もと土塀があり、ヒロマに取り付き、塀重門(又は中門)をつけて庭に通じるのが普通である。
門から玄関まで古風な敷石が布かれ、そのわきに古木が植えてある。
ヒロマ、ホンタクは美しい庭園に彩られている。
(三原良吉氏「古建築巡礼 登米の武家屋敷」河北新報所蔵)
武家屋敷の門
屋敷構えを見ると、道路に面した四足門、長屋門は上格のもので、棟門は次に位し、それぞれの格式に応じた門構えになっている。
棟門:二本の柱を立て、上部に冠木を渡し、切妻造りの屋根をかけたもの。
四足門:二本の大柱に扉を付け、その前後に四本の柱を立てた大柱で、 貫で結び、切妻屋根をかけたもの。
長屋門:長屋の中間が通路になっている門。
(町史より一部抜粋)
2 武家屋敷春蘭亭
「武家屋敷春蘭亭」は、1604年に白石宗直が移住した「鈴木家」が所有していた屋敷です。
創建年代は詳しくは分かっていませんが、江戸中期から後期にかけての建物で200年以上前に竣工されたと言われています。
1989年までは実際に持ち主が住んでいましたが、町に寄贈され保存修理され、現在は町の象徴的存在となっています。
喫茶コーナーでは、町に自生する春蘭を加工した「春蘭茶」を味わうことができ、槍に触れたり甲冑を着用したりする体験コーナーもあります。
鈴木家武家住宅「春蘭亭(町指定文化財)
鈴木家は、紀伊の国(今の和歌山県) 熊野の鈴木氏から分かれた一族であり、鈴木将監重信公の代に、登米伊達初代藩主相模宗直公が、水沢城より登米に移るに伴い慶長九年に移住し班列一族、知行高六二一一文を賜り外道川原に戦功をたてた。
元禄時代頃、鈴木家の屋敷は後小路東角地に見出せるが、天保十年以後に現屋敷に移ったものであり、登米の武家屋敷の一般形式とは異なり「直ご家形式」になっているのが特徴である。
本施設は、登米町の武家住宅に接し当時の面影をしのんでいただくため、無料休憩所「春蘭亭」として整備したものである。
平成二年三月
登米町
3 清野家のシダレザクラ
清野家のシダレザクラ
(バラ科エドヒガン)
門を入って左側にある北樹と、右側にある南樹の二本がある。
北樹は、樹高八・八材、根元周囲二・九八材、枝下高三・一だ。
南樹は、樹高・三材、根元周囲三・一四材、枝下高三・九州。
資料と伝承によれば、このシダレザクラは、元禄年間(一六八八~一七〇四)に植えられたと推定される。
花の季節には多くの人が足を止め、優美な姿を鑑賞している。
武家屋敷通りを彩るシダレザクラである。
平成三十年
五月二十一日 指定
登米市教育委員会
4 懐古館
「登米懐古館」は、仙台藩の21要害のひとつで、かつての寺池城跡に建てられました。登米伊達家にゆかりの深い大鎧や具足が展示されています。
登米懐古館は、1961年に登米出身の実業家である渡辺政人氏によって寄贈され、伊達家関連の文化財を収蔵・展示しています。
また、隈研吾氏によって設計された新館もあり、歴史愛好家や観光客にとって興味深い場所となっています。
庭園のアプローチは、小端立て(こばだて)と敷石とのパターンで構成されています。
黒い部分の小端立ての材料は、登米町産のスレートで、スレートは屋根材としてよく使われる石材とのことです。
登米町産のスレートはこの屋根にも使われています。
歌舞伎十八番 【勧進帳】から
『弁慶飛び六方の体』
四年ぶりのお祭り
登米町に欠かせない歴史絵巻
豪華さと風流を堪能してください
出来栄えはいかがでしょうか!
「あらすじ」 兄源頼朝に追われ、山伏姿で奥州平泉をめざして逃亡の旅を続ける源義経一行、途中、加賀の国安宅(あたか)の関所に着いた一行は、無事通過するため、消失した東大寺再建の諸国勧進の山伏と偽って関所を通り抜けようとしますが、
関守(せきもり)の富樫左衛門(とがしさえもん)に止められます。
機転を利かせた弁慶が白紙の巻物を勧進帳として取り出し朗々と読み上げます。
しかし、うまく切り抜けたようにみえたのも束の間、義経が見咎められてしまいます。
弁慶は疑いを晴らすために心を鬼にして主君を金剛杖で打ちすえます。
弁慶の芝居と知りながら、富樫は情けをもって一行の関所通過を許し、失礼をしたと酒をすすめ、もてなした上で見送るのでした。
歌舞伎では、義経一行の花道の出、勧進帳の読み上げ、弁慶と富樫の山伏問答、富樫の呼び止めから押し合い、義経の弁慶へのねぎらい、弁慶の延年の舞いから最後の飛び六方まで、全編が緊張感あふれる見せ場の連続です。
今年の山車は、迫力いっぱいに六方を踏みながら花道を引く「弁慶」と、情けをもって義経一行を許した富樫左衛門を見送りに配しました。
丹精込めた手作りの桜・岩山・冠木門(かぶきもん)の配置と迫力ある弁慶、凛々しい富樫で陽と陰を表現しました。
じっくりご覧下さい。
令和五年 登米秋まつり
- 九日町町内会
建物の中も隈さんらしい特徴的な造りです。
参考
登米伊達家(とめだてけ)は、仙台藩の一門であり、江戸時代に登米地域を治めていました。特に有名なのは、4代当主の伊達宗倫(だて むねとも)です。彼は仙台藩2代藩主・伊達忠宗の五男として生まれ、1646年に登米伊達家を継ぎました。
宗倫は新田開発に力を入れ、知行高を大幅に増加させましたが、その結果として隣接する領地との境界争いが頻発しました。また、彼は伊達騒動の主要人物の一人としても知られています。
登米伊達家は、仙台伊達家との結びつきが強く、7回の養子の出入りがありました。また、領内では能が盛んに行われ、「登米能」として継承されてきました。