飯盛山は、会津若松市街から東に約2キロ離れた小高い山です。
頂上からは会津若松市が一望できます。
戊辰戦争の際、この頂上から鶴ヶ城の天守閣から立ち登る黒煙を見て落城と勘違いした若い白虎隊の戦士たちが自決した場所として知られています。
頂上までの石段は183段ありますが、スロープコンベアを利用すれば楽に登れます。
地図はこちら(会津観光ガイド)
最後は自分の足で。
白虎隊墳墓の沿革
明治16年(1883)に完成した白虎隊士の墓は、明治23年(1890)に拡張されました。 しかし、それでもなお狭く、毎年行われる墓前慰霊祭に支障を来したばかりでなく、他の碑石も多く建てられていて、この地の厳かさを損ねかねない状態でした。
たまたま、東武鉄道の創始者・根津嘉一郎は、この墓に詣で隊士たちの芳績にいたく感激し隊士たちの魂を慰め、後世に語り継いでほしいと願いました。
そこで彼は、元白虎隊士で後に初代の東京帝国大学総長として活躍した山川健次郎博士に相談し、率先して出資するなどして、 大正14年(1925)にさらなる拡張工事がなされました。
時に会津の多くの人々も工費の一部を負担し、すすんで労力を提供するなどし、 本会の理事も東奔西走して献身的に工事に携わり、ついにこの慰霊の地が完成するに至りました。
さらに、白虎隊の精神は、イタリア国民の心を動かしました。 昭和元年 (1926) 記念碑寄贈の申し出があると、日本とイタリア両国の名士によって記念碑建設会が組織されました。そして、高松宮宣仁親王殿下を総裁として迎え、近衛文麿公爵を会長として、昭和3年(1928) 12月1日、総裁殿下ご臨席の下、除幕式が執り行われました。
なお、この碑を建てるにあたっては、大倉喜七郎男爵(大倉集古館理事長)の功績が大きいところです。
昭和3年12月建立
会津弔靈義会
医学士 森川良蔵 題弁書
目次
1 白虎隊十九士の墓(士中二番隊)
松平容保公弔歌の碑
戊辰戦争 (1868年)で自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、第9代藩主松平容保公が詠んだ弔歌の碑です。
「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽ちじとぞ思う」
碑は、八田野(現会津若松市河東町) の篤志家八田宗吉によって建てられました。
2 ドイツ武官慰霊碑
フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑
昭和9年(1934年) この地を訪れたドイツ大使館書記官エッツドルフが、白虎隊精神に感動して贈った碑です。
碑には、古来のドイツ国のマークと「若き少年武士へードイツ人」 とドイツ語で刻まれ、 翌10年 (1935年)に建てられました。
3 飯沼貞雄(貞吉)の墓
白虎隊の中で、唯一の生き残りの隊員のお墓です。
後世の活躍を見ると随分優秀な方だったようです。
生きていれば活躍できたであろう若い人材もここで散っていったのは何とも惜しいことです。
飯沼翁は、戊辰戦役に当たり、白虎隊の一員としてこの地に自刃せるも唯一人の蘇生者となり白虎隊の忠烈果敢な行動を世に使う。
後、逓信事業に挺身し碍子の考案等事業に対する貢献多大のみならず翁の清廉にして高潔なる人格と生涯は後生の事業人に尊い教訓を洵(まこと)に崇敬に堪えず、茲(ここ)に翁ゆかりの故山に墓碑を建立し、謹んでその霊を弔う。
昭和三十二年九月二十四日
財団法人 前島会仙台支部
飯沼貞雄翁の墓
白虎隊自刃者中ただ一人蘇生した飯沼貞吉(のち貞雄) は、 印出新蔵の妻ハツに助けられました。
後に逓信省の技師となり、 仙台逓信管理局工務部長に進み、我が国の通信事業に多大な貢献を果たし、昭和6年(1931年) 仙台市で78歳の生涯を閉じました。
白虎隊の実録は、彼によって知ることができました。
戊辰戦役90年祭が行われた昭和32年(1957年)、 多くの友が眠るこの地に遺髪などが移され、墓碑と顕彰碑が財団法人前島会仙台支部によって建てられました。
4 白虎隊自刃の地
鶴ヶ城の展示から
慶応四年(一八六ハ)八月二十三日(新暦十月八日) 年齢が十六~十七歳で構成された中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進撃した軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。
敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。
しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。
この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かっ 訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
鶴ヶ城開城はその一カ月後であった。
平成二十三年(2011) 九月二十三日
(飯沼貞雄書白虎隊顛末記参考)
白虎隊の会
飯盛山から見た鶴ヶ城。(赤い矢印)
5 さざえ堂
堂の上りスロープから下りのスロープは一続きで、決して戻ることがないのが特徴の建物です。
建立は寛政8年(1796)で、当時、庶民の間で関西地方の西国33観音巡りが大流行していました。
そこで、会津に居ながら33観音巡りができるお堂を作ろうと、さざえ堂が考案されました。
そこで昔はスロープに沿って33の観音像が安置され、お堂を上って、下りて来るだけで観音巡りを体験できました。
すれ違う事もないので混雑を気にすることもなくお参りができるという訳です。
旧正宗寺三匝堂
1796年に建立された、 高さ16.5メートル、 六角三層の堂であり、 正宗寺の住職であった僧郁堂が考案した。
二重らせんのスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、 参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるつくりになっている。
観音像は明治時代の神仏分離令により取り外され、 現在は松平容敬が編纂した会津藩の道徳の教科書と言われる「皇朝二十四孝」 の絵額が掲げられている。
また、 上りと下りが別の通路になっている構造により、 参拝者がすれ違うこと無く参拝できる世界的に珍しい建築様式である。
ブラタモリでもタモさんが、さざえ堂の内部に入っていました。
全国で街歩きブームを巻き起こしたNHK「ブラタモリ」(土曜夜7時30分)案内役のお株を奪うほどのタモリの博識ぶりと、マニアックな議論に置いてきぼりを食う相棒アナウンサーの姿が笑いを誘う。
タモリとの掛け合いが絶妙だった桑子アナが今春卒業し、一時は「桑子ロス」とも言われた。だが後任の近江友里恵アナも、おっとりし雰囲気と「ドジっ子キャラ」で、独自の存在感を放っている。
福島県会津若松市を訪ねた2日の放送は「会津人はアイデアマン!!」がテーマ。
城下町にくまなく水が行き渡るよう設計された水路や、農業の知識を誰でも理解できるようにした歌などが紹介された。
目を見張ったのが、飯盛山にある重要文化財の「会津さざえ堂」。
江戸時代にできた建物は、らせん状のスロープが二重になっていて、上りと下りが出合わない独特の構造だ。
元は西国三十三所霊場をうつした仏堂で、堂内を一周すると本物の巡礼と同じご利益があるとされた。
だがそのココロは会津の人々を藩内にとどめ、金の流出を防ぐという目的だと聞きびっくり。
堂内各所で投げ入れられた賽銭が1カ所に集まる仕掛けもあり、これに即応したタモリが「集中賽銭採集装置」と名付けた瞬発力にも脱帽した。
次回16日は会津磐梯山に登る。 (佐藤剛志)
さざえ堂の入り口。
ここから木で作った螺旋スロープを登って行きます。
入口の正面には建立者の郁堂禅師の木造が安置されています。
ここが頂上です。
最後の出口に、ここ飯盛山正宗寺開祖の残夢大禅師が鎮座されています。
6 宇賀神堂
白虎隊士19人の霊像を安置しています。
7 「忠孝両全」碑
保科正之以来、徳川本家に忠誠心を貫き、最後まで新政府軍と戦った精神の基礎が記されています。
会津藩白虎隊精神の基礎 「忠孝両全」碑
会津藩祖保科正之公は徳川三代将軍家光公の弟にて格別の信頼を受け、信州高遠より山形を経て寛永二十年(一六四三) 奥羽の要として会津二十三万石に封ぜられたが、四代家綱将軍に亘り生涯幕政に参画し徳川三百年の太平確立に尽痺した。
依て徳川宗家に対する「絶対忠節」と、学問を重んじ武道を尚ぶ「文武両道」と、自ら吉田流神道奥義を究めての「尊皇愛国」を藩の伝統精神とした。
第三代正容公より松平姓となり大いに治績を上げたが、降(くだ)って文化五年(一八〇八)露国の南侵に対し宗谷、利尻、樺太に二年間千六百名を、続いて欧米諸国の江戸侵航に対し文化七年より黒船来航を含み安政六年(一八五九)までの間、三浦半島警備十年及び江戸湾警備十二年夫々約千四百名を派兵して海防に当り、軍紀厳正、士気旺盛、功績抜群であった。時に国内情勢不穏となり幕閣より都の警備と治安維持に全権を有する京都守護職の内示を受けたが、「公武の政争に巻込まれ傷付く以外に効無し」と第九代藩主松平容保公始め藩を挙げて反対し辞退した。
併(しか)しながら「会津藩に非(あらざ)ればこの危機を解決し得るものなし」と説得強要せられるに至った。
○松平容保公(当時二〇才)その苦哀を実父に述べたる問答歌
行くは憂し行かぬもつらし如何にせむ君と親とを思うこころは
○実父美濃高須藩主松平義建公の返歌
親の名はよし立たずとも君のためいさお現はせ九重のうち
ここに容保公意を決し、文久二年(一八六二)精鋭千余名を率いて遥々京に上り六年間任務を遂行したが、時の孝明天皇の御親任最も厚く、賜りたる御親書は竹筒に収め終生肌身より離す事なく御信頼に応えた。
然るに、天皇の御急逝に続き明治天皇(御年一六才)を擁して王政復古の挙あり第十五代慶喜将軍と新政府との意見相違して慶応四年(一八六八)一月三日鳥羽伏見の戦いとなりこれに敗れて会津に帰還した。
この間恭順謝罪文を幾度奉呈するも新政府首脳は仇敵会津を圧殺せずば維新の達成不可能と握り潰し、薩長土肥始め二四個藩の大軍を差向け終には籠城戦となったが藩公の下老幼男女一致団結、九月二十二日降伏開城に至るまでその節を貫き徹した。
さらに戦後明治三年(一八七〇)には、寒冷不毛の地下北斗南藩(三万石実質七千石)に転封され家族とも一万四千名が移住したが、同六年解散まで貧窮飢餓堀立小屋の流民生活を耐え忍んだ。
○孝明天皇より御親書とともに賜りたる御製
武とこころはしていわほをもつらぬきてまし世々のおもいで
○会津武士の亀鑑野矢常方老(六七才郭門を守り入城の勧めを断って突進戦死)の詠歌
君のため散れと教えてこれ先づ嵐に向かう桜井の里
○娘子軍の名を挙げた中野竹子女(二二才同輩と入城前混戦に壮烈な戦死妹優子介錯)辞世
武夫の猛きこころにくらぶれば数には入らぬわが身ながらも
○津川喜代美少年(一六才自刃)門出に当たり父母に捧げし歌
かねてより親の教えのときは来て今日の門出ぞわれはうれしき
○飯沼貞吉少年(一六才自刃唯一の蘇生者検貞雄と改名)出陣に際し母文子のけの歌
梓向う矢先はしげくとも引きな返しそもののふの道
白虎隊二番士中隊(日新館生徒一六・七才三七名)のうち、八月二十三日夜明戸ノ口原の血戦に隊長副隊長と分離した二〇名は、敵の囲みを破り教導篠田儀三郎指揮の下にかねて熟知の飯盛山に辿りついた所、城は火煙に包まれ落城の様相を呈した。
一同は伝統の話合を開き、斬込みか、立籠りか、自決か、討議した結果、隊長代理決をとり、全員城を枕に討死の武士道に殉じ、「人生古ヨリカ死無ラン心ヲ留シテ肝青二照サン」の名詩を合吟し車座となって自刃したのである。
○容保公白虎隊士の自刃を聴いての歌
千代までと育てし親のこころさえおしはかられて涙こぼるる
○宮中御歌所長高崎正風男の弔歌
大君のみたと後になりぬべき あたらわかまつ雪の下折れ
○皇太子同妃両殿下(昭和天皇同皇后) 大正十三年の御親拝に生存者飯沼貞雄感激の歌
日の御子の御影仰ぎて若桜散りてののちも春を知るらん
8 飯盛山からの眺め
9 厳島宗像神社
会津の領主が芦名直盛公の時代に建てられた神社だということです。
10 戸ノ口堰洞穴(とのくちぜきどうけつ)
会津盆地は江戸時代に新田開発が進み水不足が深刻になります。
猪苗代湖からの水を引く水路として掘削されたのが戸ノ口堰洞穴です。
後に、戊辰戦争で白虎隊が猪苗代からこの洞穴を使って飯盛山に辿り着いたことでもよく知られるようになりました。
鶴ヶ城展示
飯盛山への道のりと自刃に至るまで
敵が若松城下に迫りくると、 士中二番隊が滝沢本陣から出陣し猪苗代の戸ノ口に向かった。しかし途中で隊長とはぐれ、 少年たちだけが残されたところへ敵があらわれ、 戦闘となった。白虎隊士も懸命に戦ったが、 実戦経験がない上に、 兵士の数や武器の性能も大きな差がある敵を前に退却せざるを得なかった。
傷を負った彼らは、 滝沢峠の間道から戸ノ口堰洞門(とのくちぜきどうもん)をくぐり抜け飯盛山にたどり着いた。
戸ノ口堰洞穴
猪苗代湖北西岸の戸ノロから、 会津盆地へ水を引く用水堰で全長31kmに及ぶ。
元和9年(1623年) 八田野村の肝煎八田内蔵之助が、開墾のため私財を投じ工事を行い寛永18年(1641年) 八田野村まで通水した。
その後、天保3年(1832年) 会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し、5万5千人の人夫を動員し堰の大改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を掘り同6年(1835年) 完成した。
慶応4年(1868年) 戊辰戦争時、 戸ノロ原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である。
この後、桜満開の鶴ヶ城の見学に向かいます。