以下の記事は「あゝ厚木航空隊 相良俊輔」を参考にして記載しています。
1945年 1月14日名古屋空襲を終えたアメリカ軍のB29は、陸軍の鍾馗(しょうき)、飛燕の国内戦闘機から逃れようと海上に向かいました。
厚木飛行場から、迎撃として飛びたった海軍戦闘機には、「撃墜王」と呼ばれた遠藤大尉と西尾上飛曹のペアもいました。
戦闘機は後ろ下方からの攻撃に弱いB29の弱点に対応した斜銃(しゃじゅう)を備えた月光。
遠藤機は、B29一機を撃墜。
引き続き、二機目を襲っている時に、敵の後部旋回銃からの銃弾が、遠藤機のガソリンタンクに命中しました。
機は、戦列から離れ、機体を横滑りさせて消火しようとしましたが、消火に至りませんでした。
遠藤は、機の放棄を決断し、西尾上飛曹が脱出するのを確認後、愛知県田原町の農地の上空で脱出しました。
しかしながら、先に飛び出した西尾のパラシュートは翼端に紐が引っかかって切断、遠藤のパラシュートは焼け切れていたため開かず、2人とも墜落死してしまいました。
遠藤機は、神戸村青津集落の、河合さんの山林に激突し、黒煙に包まれて、2時間近く燃え続けました。
墜落の瞬間、ガソリンが周囲に散って、防空頭巾をかぶって見ていた小学生にも降りかかりました。
地面をころころと転がって、消火したとのことです。
慰霊碑は、墜落地点(実際は道を挟んで反対側)の近くにあります。
集落の公民館屋上の対空監視所で、墜落を目撃していた目撃した河合さんの証言。(S54年)
「もう、二十五年も昔のことですが、私はあのときのことをはっきりおぼえています、いや忘れようとしても、忘れられるものですか」
―はじめ、火をふいた飛行機を上空にみたとき、米軍機かとおもった。すごく大きくみえたのですが、しだいに低空になるにつれ、日の丸がはっきりみえた。エンジンと機首だけが火の玉になっていた。 日本機だぞ!と叫んで、ハシゴをおりかけたとき、黒いかたまりがパッとおどりでた。つぎの瞬間、無人の機は三十度南東へ方向をかえ、私の家の前の畑におちた。
ものすごい音がして、花火のように、火が四方へとび散った。炎につつまれながら、二つのプロペラだけが回転していたのが、印象にのこっていた。
遠藤大尉は、墜落の衝撃で、両足を土中にめりこませたまま倒れていました。
その時には息があったそうですが、病院に搬送する途中でお亡くなりになりました。
大東亜戦
故 海軍中佐 遠藤幸雄
故 海軍少尉 西尾 治
昭和20年1月14日
愛機月光最後の地
つはものは優し 天翔ぶおのが機に 月の光といふ名をはせつ
川田 順 詠
空の勇者ここに甦る 四海波 永遠に安かれ 空の防人ここに眠る
相良俊輔 捧 (あゝ厚木航空隊の著者)
昭和54年1月14日
発起 河合 正
建立 遠藤 フミ子 有志一同
平和な世の中になっても、昔の記憶を忘れないように河合さんの土地に建てられた記念碑でした。