蔦重ゆかりの地循環バスに乗ってゆかりの地見学に行って来ました。
このバスは、大河ドラマ館の入場券があればだれでも無料で乗車できます。
循環路は以下の地図が示す通りです。
蔦重ゆかりの地循環バス
目次
1 大河ドラマ館
まずは、大河ドラマ館を見学です。
入場券(来館記念証)は、こちらです。
2 正法寺
蔦屋重三郎の墓があります。
ただし平成6年に再建されたもので、史跡感は全くありません。
建物も、寺と言うよりは、近代的なビルです。
正法寺(蔦屋重三郎ゆかりの寺) 台東区東浅草一丁目一番十五号
誠向山正法寺は日蓮宗の寺院である。
寺の縁起によると、天正十年(一五八二) 心壽院日位を開山に今戸に創建。
延宝九年(一六八一) 浅草新鳥越町(現在の東浅草)に移転した。
本尊は釈迦如来坐像。
伝教大師作という毘沙門天立像が安置され、これは江戸三大毘沙門天の一つとされる。
蔦屋重三郎は寛延三年(一七五〇) 新吉原に生まれ、安永元年(一七七二)新吉原大門口五十間道に書店「耕書堂」を開く。
天明三年(一七八三) 本拠を通油町に移し、洒落本、狂歌本、錦絵などを刊行。
有力地本問屋となる。
寛政九年(一七九七)に没し、ここ正法寺に葬られた。
戒名は「幽玄院義山日盛信士」。
正法寺は幾度か被災し、蔦屋重三郎の墓も失われたが、平成六年記念碑として墓石が再建され、石川雅望、大田南畝による墓碣銘、南畝による実母顕彰の碑文もともに復刻された。
令和六年十月
台東区教育委員会
蔦屋重三郎は寛政9年(1797) に47歳で病没し、 正法寺に埋葬されました。
墓は戦災等で失われましたが、 菩提寺である正法寺には墓碑が建てられています。
碑には蔦重の本名「喜多川柯理(きたがわからまる)」が刻まれ、 碑文は蔦重と親交のあった石川雅望、 大田南畝によるものです。
大河ドラマ「べらぼう」では、蔦重の相棒の少年「唐丸(からまる)」が出てきますが、物語の中で、あえて蔦重の本名・柯理(からまる)を記憶喪失になった少年につけたものと思われます。
3 平賀源内墓所
もともとは総泉寺の敷地にありましたが、昭和三年に寺は板橋区へ移転。
しかしながら、源内の墓は移転されずこの地に保存されました。
平賀賀源内墓(国指定史跡)
台東区橋場二丁目二十二番二号
平賀源内は享保十三年(一七二八)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。
高松藩士白石良房の三男で名は国倫。
源内は通称である。
寛延二年(一七四九)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。
本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。
物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火流布(石綿の耐火布)を発明した。
一方で風来山人・福内鬼外などの名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
安永八年(一七七九)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗) に葬られた。
墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。
後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和三年(一九二八) 板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。
昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。
昭和十八年に国指定史跡となった。
平成十七年三月
台東区教育委員会
平賀源内は、蔦屋重三郎から吉原細見 「細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)」の序文執筆を依頼されました。
従僕福助の墓はこちら。
大河ドラマ「べらぼう」では、平賀源内と共同生活をする「小田新之助」なる人物がいますが、こちらは架空の人物で、福助とは違います。
4 見返り柳と吉原大門
「東京街歩き:樋口一葉記念館から遊郭の街・吉原へ向かう」を参考にしてください。
バスはここでは停車しません。窓からは見えます。
5 江戸吉原耕書堂
下町まちしるべ
旧浅草新吉原角町(あさくさしんよしわらすみ ちょう)
元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは"葭原"と呼ばれた。
そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。
明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転するように命じられ、翌三年に移転した。
それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五カ町であった。 そのうちの角町は寛永三年に京橋角町の傾城屋約十軒が移転してできた町である。
循環バスが停車する吉原耕書堂は、観光用に作った「新吉原耕書堂」です。
「新吉原耕書堂」は、蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開いた書店「耕書堂」を模した観光施設です。この施設は、観光案内やお土産品の販売を行っています。
「新吉原秋葉縁日後俄番附(しんよしわらあきばえんにちのちのにわかばんづけ)」
弘化 4 年(1847)11 月 15 日から 19 日の5 日間にわたって行われた、吉原での秋葉権現の俄の記録です。
吉原俄(よしわらにわか)とは、江戸時代に吉原の遊郭で行われていた即興の寸劇(茶番)です。
夜桜や玉菊灯籠とともに吉原三大景物の一つに数えられていました。
吉原俄が、山王祭礼や神田明神祭礼の規模を小さくして模倣したものという指摘が理解できます。
主として、男芸者と女芸者が演じています。
「新吉原耕書堂」に展示されている下の図は、もともとの絵に色を付けたものです。
5.1 吉原の成り立ち
江戸幕府は治安維持などを理由に遊郭を一カ所に集めて管理することを許可し、 元和3年(1617), 日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町付近)に江戸唯一の幕府公認遊郭が開設されました。
吉原の名の由来は、 葭 [よし] の茂る土地を整地して造ったことから、はじめは「葭原 [よしわら]」と呼ばれていましたが、 縁起の良い文字に変えて「吉原」となったと言われています。
その後、人口増加や江戸市中の拡大により、 吉原の移転計画が持ち上がります。
明暦3年(1657)、明暦の大火をきっかけとして、江戸市中から離れた当地に移転しました。 移転前の吉原は「元吉原」、 移転後の吉原は「新吉原」 と呼ばれ、一般に「吉原」 というと、 新吉原を指します。
人工的に造られた町の周辺は田圃が広がるばかりの寂しい土地で、町の区画は元吉原に倣うように造られましたが、 1.5倍の敷地を与えられました。
周囲を塀と堀で囲まれた横長の長方形の広さは、 京間で幅180間 (344メートル)、奥行き130間(約249メートル)あり、出入口は大門に限定されていました。
吉原には高級遊女の花魁を抱える大見世から下級の河岸見世にいたるまで様々な形態があり、最盛期には3000人の遊女がいたとされます。
一日に千両もの金が落ちたといわれる魚河岸、芝居町と並んで、 吉原は江戸の経済を支える繁華街でした。
幾度となく火災に見舞われましたが、茶屋が並んでいた仲之町、 妓楼や商店が立ち並んでいた江戸町や京町、 揚屋町など当時の町割りは今も変わらず残っています。
5.2 蔦屋重三郎と吉原
蔦屋重三郎(以下、 蔦重)は、寛延3年(1750) に新吉原で生まれました。
幼くして養子に出され、 22歳頃に吉原大門前の五十間道で書店を開業したとされます。
安永3年(1774) に 『一目千本』 という遊女を花に見立てた評判記を出版し、翌年には吉原細見 (吉原のガイドブック) の判型を改めて刊行します。
吉原名物や広告などを盛り込む手法で注目を集め、 黄表紙 (洒落や風刺をおり混ぜた絵入りの小説) や多色摺絵本などを次々にヒットさせていきました。
知識人が集う文化サロンとしての側面を持つ吉原では、 大田南畝や山東京伝、 朋誠堂喜三二ら多くの戯作者や狂歌師らが集まり、 蔦重も 「蔦唐丸 [つたのからまる]」という狂名を名乗りサロンに交わりました。
蔦重が彼らの文才を活かして発行する黄表紙は、江戸の庶民から大いにもてはやされました。
吉原の 「耕書堂」で大成功を治めた蔦重は、33歳で日本橋通油町に進出します。
その後、 寛政の改革による出版統制により自身も財産半分没収の処罰を受けますが、 逆境の中で喜多川歌麿をプロデュースして美人大首絵を創始し、東洲斎写楽を見出して一世を風靡するなど、江戸の町人文化を牽引する存在となります。
蔦重の成功の背景には、江戸を代表する文化人たちと強いネットワークを築けたことがあります。
それには吉原に生まれ育ったことによるところが大きく、 また、 ユニークな出版企画や浮世絵版画の刊行のアイデアは、吉原に集まる人々が何を求めているかを敏感に察知することにより生まれたものでした。
6 吉原神社
バスはここでは停車しませんが、耕書堂から歩いてすぐです。
吉原神社 千束3-20-2
吉原遊郭には、 吉原大門手前の「吉徳稲荷」、廓の四隅の 「榎本稲荷」、 「明石稲荷」、「開運稲荷」、「九郎助稲荷(くろすけいなり)」 という5つの稲荷社がお祀りされていました。
これらの5つの稲荷社が明治14年に合祀され、 創建したのが 「吉原神社」 です。
その後、近隣の吉原弁財天も合祀され、現在では計6つの神さまが祀られています。
九郎助稲荷は、吉原遊郭内の四隅に祀られていた稲荷社のうち、 最南端にありました。
縁結び 五穀豊穣・諸願成就の神さまとして篤い信仰を集め、 縁日である毎月午の日は特に賑わいをみせたと言われています。
大河ドラマでは、綾瀬はるかが扮する九郎助稲荷のお狐様が話に花を添えていました。
7 浅草見番(あさくさけんばん)
浅草見番(浅草見番)は、東京の浅草花柳界の中心施設で、芸者衆の稽古場や手配を行う場所です。
見番は花柳界の「舞台裏」ともいえる存在で、普段は一般人が立ち入ることはできません。浅草見番は2階に広い舞台があり、芸者さんが踊りや唄の稽古を行う場所として利用されています。
浅草花柳界は、浅草寺の北に広がる伝統的な花街で、多くの料亭や置屋が集中しており、江戸時代からの格式と伝統を誇ります。
浅草見番には20名以上の芸者が在籍し、日々その芸を磨いています。
見番では、特別なイベントやお座敷体験の際に、浅草芸者衆による伝統的な唄や踊りが披露され、訪れる人々に花柳界の雰囲気を味わってもらうことができます。
幇間(ほうかん)と呼ばれる男芸者も、浅草見番の特徴の一つです。
幇間はお座敷遊びを盛り上げる役割を持ち、自ら芸を披露したり、芸者をサポートしたりします。
浅草花柳界には数少ない幇間が在籍しており、彼らの存在は浅草の花街文化を支えています。
浅草見番は、花柳界の伝統と格式を守りながら、現代の観光客にもその魅力を伝える重要な施設です。
後で調べましたが、巡回コースには入っていますが、蔦重とは全く関係ありませんでした。
8 浅草寺
浅草見番からは、浅草寺を抜けて駅に向かいました。
九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫(しばらく)」の銅像
大正八年 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草草寺境内に劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました。
この銅像は近代彫塑の先駆者・新海竹太郎の傑作であり 歌舞伎の象徴として全国の人々から親しまれておりました。
ところが第二次世界大戦中の昭和十九年十一月三十日金属類回収のためこの「暫」の銅像も供出命を受け 四十余年を経てまいりました。
この度 十二代市川團十郎襲名を機に復元運運が高まり 浅草寺の御理解のもと多くの方々に御尽力を賜り、ここに「暫」の銅像が再現されました。
十一代目並びに十二代市川十郎父子、地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります。
こののちも歌舞伎の隆盛とともに、この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として日本國民もとより世界の人々からも幾久しく愛されますことを願ってやみません。
昭和六十年十一月三日
宇野信夫撰書
十二代 市川團十郎
仲見世通りは平日でもいっぱいの人です。
丁度、中国の春節時期で、大きなトランクを持った外国人が沢山いました。
以上が蔦重ゆかりの循環バスの各停車場の様子ですが、あまりぱっとした史跡はありませんでした。
循環バスに乗って観光するかどうかお薦め度は微妙です。
浅草は他にも観光場所が多数ありますので、初めての方はそちらへ行った方が良いと思います。