大阪城の地には、もともと浄土真宗の巨大寺院「石山本願寺」がありました。
織田信長と本願寺勢力が激しく争った「石山合戦」の舞台となり、1580年に本願寺側が退去し寺は焼失します。
その後、1583年、秀吉が天下統一の拠点として大坂城の築城を開始します。
当時最大級の城郭で、金箔を多用した豪華な城だったと伝わっています。
秀吉の死後、豊臣家と徳川家が対立し、1615年「大坂夏の陣」で豊臣大坂城は落城。秀頼と淀殿が自刃します。その後、豊臣時代の城は徳川により跡形もなく埋め立てられました。
徳川秀忠は1620年から城の再築を開始し、巨大な石垣と堅牢な構造を持つ城が完成しますが、1665年に天守が落雷で焼失し、その後再建されないまま明治期を迎えます。
現在の天守は1931年に市民の寄付で再建された鉄筋コンクリート製のものです。
1997年には大規模改修が行われ、現在は歴史博物館となっています。

大阪城へは南の大手門から入り、北の青屋門から出ます。

目次
1 大手門

エレクトリックカーも大手門をくぐって城内に入ります。

大手門手前から左手の堀を見た所。千貫櫓が見えます。


重要文化財 大手門
城の正面を大手 (追手 【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、 設けられた門を大手門 (追手門) とよぶ。
現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、 徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。
正面左右の親柱 【おやばしら】の間に屋根を乗せ、 親柱それぞれの背後に立つ控柱 【ひかえばしら】 との間にも屋根を乗せた高麗門 【こうらいもん】 形式である。
屋根は本瓦葺 【ほんがわらぶき】 で、 扉や親柱を黒塗総鉄板張 【くろぬりそうてついたばり】 とする。
開口部の幅は約5.5メートル、高さは約 7.1 メートル。 親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継 【ねつぎ】 がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手 【つぎて】 は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。
門の左右に接続する大手門北方塀 大手門南方塀も重要文化財に指定されている。
2 多門櫓
大手門を入って左側に多門櫓があります。

3 市多聞跡
市多聞跡は大手門をくぐった桝形の中にあります。
市多聞跡(いち た もん あと)
江戸時代、大坂城の大手口枡形には、 現存する多聞櫓のほか、南側に東西13間5尺、 南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。
大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で、一年交替で城に詰めた旗本 (大番衆) が日用品を調達するための市が開かれたことから、 市多聞という名がついた。
明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。
大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。

4 大手口枡形(おおてぐちますがた)の巨石

大手口枡形(おおてぐちますがた)の巨石
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の進入を食い止める役割を果たした。
築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、 大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。
大手門をくぐって正面に位置する大手見付石 【おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷 (47.98 平方メートル) で城内第4位、 左の大手二番石 【おおてにばんいし】 は約 23 畳敷 (37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石 【おおてさんばんいし】 は約22畳敷(35.82 平方メートル)で第8位、 いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】 と推定されている。
現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、 元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、 石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。
この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広【かとうただひろ】 が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏 【ありまとようじ】 が改築した。
5 千貫櫓(せんがんやぐら)
重要文化財 千貫櫓
大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓 【すみやぐら】である。
西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。
創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620) 戦後の解体修理工事の際、墨書で 「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。
二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、 茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】 である。
具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、 さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。
名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂 ( 石山) 本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、 「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」 と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。
面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。

内堀です。


この部分は空掘りになっています。

運搬途上に何らかの理由で打ち捨てられた、いわゆる残念石です。
それを示す様に、石の表面には巨石を割り出すのに用いた矢がねという楔のような道具を打ち込んだ痕があります。
6 南仕切門跡・太鼓櫓跡

南仕切門跡・太鼓櫓跡(みなみしきりもんあと・たいこやぐらあと)
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、 通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。
また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628) に創建されたと考えられる。
太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。
ここには太鼓坊主とよばれる僧形 【そうぎょう】 の役人が交替で詰め、 彼らは香 【こう】 をたいて時刻を計り、 城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。
いずれの建物も慶応4年 (=明治元年、1868)、 明治維新の大火によって焼失した。
7 石山本願寺推定地
石山本願寺は信長も攻め落とせなかった難攻不落の要塞でした。
石山本願寺推定地
明応五年(一四九六)に、本願寺八世蓮如が生玉庄(いくたまのしょう)の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(一五三二)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。
その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によっ大坂城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。
大阪市教育委員会
8 西大番衆小屋跡

西大番衆小屋跡
大坂城が徳川将軍の城だった江戸時代、ここには大坂城本丸の警備を主な任務とする将軍直属の旗本部隊 「大番」 の小屋 (宿営)が置かれていた。
大番は1組50騎の12組からなり、 2組が1年交替で在番し、 城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居した。
西大番衆小屋の範囲は現在の修道館の敷地とほぼ重なる。
慶応4年(=明治元年、 1868) 1月に勃発した戊辰戦争の際には、新選組を含む旧幕府軍の兵の滞在場所として東西大番衆小屋が使われたが、旧幕府軍撤退時に起きた城中の大火により焼失した。

9 豊国神社
明治元年(1868年)、明治天皇が大阪に行幸された際、「国家に功績のあった豊臣秀吉を祀るように」とのお言葉があり、神社の創建が命じられました。
当初は別社として中之島にありましたが、中央公会堂建設のため公園内に移転後、昭和36年(1961年)に現在の大阪城内に「奉還」されました。
豊臣秀吉のほか、秀吉の子・秀頼公、秀吉の弟・秀長卿も祀られており、豊臣家の繁栄も願われています。

豊臣秀吉の像


10 桜門


桜門から見る天守閣はフォトスポットです。

銀明水井戸の井筒(ぎんめいすいいどのいづつ)
この井筒は元来、 本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部 【だいよんしだんしれいぶ】 庁舎 (旧大阪市立博物館) の裏手にある銀明水(銀水) 井戸のものである。
銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、 本丸御殿 【ほんまるごてん】 台所の裏に位置し、 本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。
大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」 などを井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。
昭和6年(1931)、 大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、 井筒と周囲の敷石が現在地に移され、 飲料用の水道水が引かれた。
なお現在の金明水は小天守台上にあるが、 これは元来 「黄金水」 と呼ばれたもので、 金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。
今は配水池に埋もれていて目にすることができない。
11 桜門枡形の巨石(さくらもんますがたのきょせき)
池田忠雄が備前国(現在の岡山県)でこの石を採石し、100km以上離れた大阪城まで運びました。


通称「蛸石」という呼称は左下部にあるまだら模様に由来し、それが蛸の形に似ているからと言われています。
桜門枡形の巨石(さくらもんますがたのきょせき)
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、 石垣で四角く囲まれた 「枡形」 とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓 【たもんやぐら】 が建てられた。
この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、 備前岡山藩主池田忠雄 【いけだただお】 の担当によって築かれ、 石材は備前(岡山県)産の花崗岩 【かこうがん】 が用いられている。
正面の石は蛸石 【たこいし】 とよばれる城内第1位の巨石で、 表面積がおよそ36 畳敷 (59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。
向かって左手の巨石は振袖石 【ふりそでいし】(袖石 【そでいし】) とよばれ、表面積はおよそ33 畳敷 (53.85 平方メートル)で、 城内第3位である。 なお、上部の多聞櫓は慶応4 年(明治元年、 1868)、 明治維新の大火で焼失した。
12 旧第四師団司令部庁舎

旧第四師団司令部庁舎(きゅうだいよんしだんしれいぶちょうしゃ)
現在の大阪城天守閣と同じ昭和 6 年 (1931)、 陸軍第四師団司令部の庁舎として建設された。
鉄筋コンクリート造で、ヨーロッパの城を参考とし、 左右対称の重厚な外観をあらわす。
昭和20年の第二次世界大戦終結時には第十五方面軍司令部および中部軍管区司令部の庁舎だった。
連合国軍による接収のあと、昭和23年から警察 (大阪市警察局、 大阪市警視庁、 大阪市警察、大阪府警察) の庁舎として、 昭和35年から平成13年(2001) までは大阪市立博物館として使われた。
平成 29 年に耐震補強ならびに外装・内装の修復や改装工事が完了し、現在は来訪者向けに土産物や飲食、 大阪城公園内の史跡に関する情報などを提供する「ミライザ大阪城」 として利用されている。

13 本丸御殿跡
単なる広場だけです。
本丸御殿跡
城の中心部を本丸といい、 大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。
豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、 徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。
幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、 重要な歴史の舞台にもなっている。
慶応4年(明治元年、1868)、 明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失した。
ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。
14 月見櫓跡(つきみやぐらあと)
月見櫓跡(つきみやぐらあと)
ここには月見櫓と呼ばれる三層の隅櫓が建っていた。
徳川幕府が再築した大坂城には本丸に11棟の三層櫓が築かれ、それぞれ備蓄用の武器武具や兵糧などが納められていたが、この月見櫓には鉄砲が保管され、 大坂鉄砲奉行が維持管理にあたった。
明治維新の大火により本丸の他の櫓とともに焼失する。なお「月見櫓」の名称は他の城郭にもみられ、もともとは兵士の到着を大将が確認する 「着見」 に由来するとされるが、江戸時代には月見をはじめとする眺望を意識した櫓の名として使われることが多かった。

15 糒櫓跡(ほしいいやぐらあと)
糒櫓跡(ほしいいやぐらあと)
「糒櫓」は徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建っていた三層櫓11棟の内の1棟である。
大坂蔵奉行が管理し、 名称は、蒸した米粒を乾燥させた 糒(千飯) がここに備蓄されていたことにちなむ。
窓は26あって本丸の三層櫓の中で最も多く、 これは北東方面への眺望や監視に適していたことによるものだろう。明治維新の大火により糒櫓は他の本丸の櫓とともに焼失した。
なお、この櫓近くに生えていた松が江戸時代 「豊臣秀頼生害の松」 と呼ばれていたが、これは豊臣秀頼が大坂夏の陣の際、 城内の糒櫓で自害したとの考えが一般に広まったことを背景に生まれた伝説とみられる。
16 天守台石垣の爆撃被害跡
天守台石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)、 陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。
これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。
天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。
昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

17 山里丸

山里丸(やまざとまる)
天守から一段下ったこのあたり一帯を山里丸と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情を保つ松林や、桜、藤などの木々が繁り、いくつもの茶室が建っていた。豊臣秀吉や、その家族が茶会や花見を楽しむくつろぎの場所であった。
大坂夏の陣 (1615年) で落城の際、 淀殿、秀頼母子が自刃したのも山里丸と伝えられている。
徳川時代寛永元年(1624年) の再築後は構造も建物もすっかり変わり、石垣を取り囲む櫓のほか大坂城を守衛した山里加番 (城役人) の建物が建ちならんでいた。
18 秀頼・ 淀殿ら自刃の地
ここがなかなか見つかりませんでした。
地図を頼りに大阪城を1周しましたが見つからず、1段低くなった北側の山里丸で見つけました。
秀頼・ 淀殿ら自刃の地
慶長20年(元和元年、 1615) の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、 徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、 山里丸にあった櫓にひそみ、 自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、 現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

19 極楽橋
内堀に掛かる橋です。


極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。
江戸時代には幅約8メートル (4間)の木造で、 慶応4年(=明治元年、 1868) に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、 97年後となる昭和40年 (1965)に再架橋された。
現在の極楽橋は長さ約54メートル、 幅約5.4メートルで、橋脚 【きょうきゃく】 主桁【しゅげた】 を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。
「極楽」 とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、 大坂 (石山) 本願寺以来の名称ではないかと考えられている。
豊臣秀吉が築造した大坂城の「極楽橋」は、その豪華さから権力の象徴とされ、1600年頃に京都・東山の豊国廟へ移築され、その後さらに竹生島(宝厳寺)へ移されて現存するとされています。
竹生島の宝厳寺にある唐門(極楽門)は、秀吉の大坂城極楽橋の一部であったと伝わり、豪華絢爛な桃山様式の遺構として有名です。
20 青屋門

青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形 【ますがた」 の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620) と考えられ、 明治維新の大火によって被災し、 その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945) の空襲で再び大破した。
昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。
現状は上部に櫓 【やぐら】 を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。
枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、 青屋口の枡形は、 二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形 【でますがた】 だった。
さらにその外側はかつて水堀となっていて、 橋が架かっていた。
この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋 【そろばんばし】 で 非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、 戦国時代この地にあった大坂 (石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

公園内は歴史的に有名な史跡の宝庫でした。
大阪城の中と、秀吉の大阪城の遺構は別途報告します。
















