「徳川慶喜家の子ども部屋」を読んでから、ぜひ邸宅跡を訪れたいと思っていましたが、この程念願かなって現地に行ってきましたのでここで報告いたします。
2013年11月26日この本の著者・榊原喜佐子さん(慶喜家2代慶久の三女、慶喜の孫)が心不全で身罷れました。大正10年生まれの92歳でした。本書はその新聞記事を見て知った本です。
著者が生まれる8年前には既に徳川慶喜は薨去(こうきょ)している(大正2年)ので、祖父慶喜との思い出はありません。しかし、歴史と現代の狭間の時代の華やかなりし華族の思い出が綴られています。茗荷谷を望む三千坪の敷地に建坪一千坪の日本屋敷を建て、常時50人の人がいる邸宅でした。
常在していたのは、
男性は、「表」の人(執事にような仕事です)、書生、運転手、コック、植木屋、大工、請願巡査、風呂焚き。
女性は、家族の身の回りの世話をするお付き、ご飯炊き、草取り。
お目見え以下の使用人は、慶喜家の家族と顔を合わせることがありませんでした。
“お目見え”という言葉が出てくるところが、江戸っぽいです。
“徳川慶喜家”とあるのは、新たに興した家だからです。 慶喜自体は将軍職には就きましたが、宗家は継いでいません。宗家は、明治維新の1868年に家督を譲った田安徳川家の亀之助(徳川家達)が継ぎ、現18代当主徳川 恒孝(とくがわ つねなり)さんまで続いています。
目次
1 慶喜邸の場所
小説の冒頭には下記のように記載されています。
徳川慶喜家は、小石川小日向第六天町の、前に江戸川(現・神田川)、西に茗荷谷を望む高台にあった。家の横の急な坂をさらに登ると軒の低い商店が並ぶ広い通りに出たが、その通りを少し東に行くと伝通院があった。第六天町という地名は、その昔このあたりに第六天神社があったためだと聞いている。現在の文京区春日二丁目にあたる。
場所は、文京区のホームページにも記載されています。
https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/ato/yoshinobu.html
本に書いてあった「徳川慶喜邸見取り図」と現地の地形を照らし合わせて勝手に推測した邸宅の範囲を赤線で区切ってみました。現在はその殆どが国際仏教学大学院大学の構内になっています。北側は東京メトロが走っています。(ここは地上を走っています。)
軒の低い商店が並ぶ広い通りは今の“春日通り”です。
参考までに古地図もご覧ください。
1.1 第六天町
名前の由来は、小説にも書いてありましたが、道路沿いに掲示してありました。文京区はいたるところにこの手の看板があります。
神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られていたので、その北側の前の町を第六天前町と称した。(1713年)明治になって、周辺の土地と大久保長門守下屋敷等を併せて、前の字を省いて第六天町と町名変更した。
小説の中ではこの邸宅を”第六天”と書いています。
1.2 今井坂
小説の中の"家の横の急な坂"というのが、今井坂になります。
2 徳川慶喜屋敷の歴史
もともとは大久保長門守の下屋敷であったものを明治34年に慶喜が移って来たとのことです。では、大久保長門守とは? その苗字から想像がつくように三河武士の血筋です。
明暦3年(1657年)、相模小田原藩主・大久保忠朝の次男として生まれました。
最後は1万6000石を領する大名・駿河松長藩主となっています。
元文2年(1737年)12月17日に死去しました。享年81。
屋敷名は明治維新の頃になっても100年以上前に亡くなった大久保長門守の名前で呼称されていたのですね。今は都会のど真ん中ですが、本来は下屋敷ですから、江戸城からは少し離れたところに位置していたことがわかります。
3 慶喜邸の玄関
小説を読むと
お客様の車は、たいてい家の東側にある金富小学校横の急な坂を長い塀に沿って登って来た。中程まで来るとお車は正門の砂利敷きのご門を入り、馬車回しの築山を右に見て表玄関に横付けとなった。
と書いてあります。丁度その場所が、地図の②で示した場所で、この場所には、「徳川慶喜終焉の地」の掲示板があります。
少し離れた位置で掲示板を撮影したものが下の写真です。
現在もここは仏教大学の北の入り口になっており、入口のすぐそばには、当時からある大銀杏の木が現在も元気に生えています。
本の見取り図では玄関の北側に請願巡査(せいがんじゅんさ)の派出所があり、その近くに生えていました。
請願巡査は個人の請願により配置された巡査(警察官)で、派出警察官の給料および派出所などの費用は請願者がすべて負担することになっていました。今であれば、民間のボディーガードを雇うところですが、昔はこうしてVIPの家にはお金さえ払えば警察が駐在してくれていました。
4 邸の南側
巻石通り(水道町通り)に面した南側の現在は国際仏教学大学院大学の正門となっています。
正門の左端のところに「徳川慶喜公屋敷跡」の碑が立っています。
写真では分かりづらいかもしれませんが、正面の道は坂道となっています。
奥に建物が立っていますが、その場所が平地になっているところで、昔の邸宅も同じ場所に建っていたと思われます。
入り口付近は小説の地図では芝生庭で、その左隣りにはテニスコートがありました。
5 徳川おてんば姫
著者の妹の井手 久美子が出した「徳川おてんば姫」も2018年6月13日に出版されています。「徳川慶喜家の子ども部屋」にも子供の頃の著者と写った写真や、お正月、お雛様の思い出が綴られて内容が被ってますが、こちらの本の方が、より読みやすく編集されています。
姉に喜久子様が昭和天皇の弟 高松宮宜仁親王との御結婚で、出立するときは、屋敷の東の新坂に騎兵がずらりと並び、門は見送りの人でごった返し、人の列が坂の下までずっとつながっていたとのことです。
結婚は、昭和16年ですが、そのころでさえも「薩長なんて」と言う風潮があり、佐幕派から選んだそうです。維新の影が無くなったのは戦後のことなのでしょう。
残念ながら出版直後の2018年07月1日に亡くなりました。
彼女らが暮らした第六天の屋敷は、1947年(昭和22年)に同時の三代目当主である德川 慶光が、財産税の支払いのために国に物納されました。
こうして、現在ここで暮らした人たちで生存している人は居なくなったと思われます。
静岡にある慶喜の旧居跡のレポートは 徳川慶喜の住んだ駿府(静岡)の旧居跡探訪 です。