史跡

玉川上水路敷と築地本願寺・和田堀廟所

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京王本線・明大前から周辺を散歩です。

1       玉川上水路敷(たまがわじょうすいろしき)

玉川上水路敷(たまがわじょうすいろしき)は、江戸時代に江戸市中へ飲料水を送るために開削された人工水路「玉川上水」の敷地およびその遺構群です。

明大前駅近くの玉川上水路敷(玉川上水公園付近)で見られる配管は、単なる過去の遺構ではなく、現在も現役で使われている水道管が含まれています。

1.1      玉川上水公園

 

水はありませんが、水車風滑り台。

 

1.2     水管橋

京王井の頭線と交差する地点(井の頭線が掘割を通る場所)では、地面の下を通っていた水道管が地上に露出し、線路をまたぐ「水管橋(水路橋)」となっています。

井の頭線をまたぐ水管橋の巨大な鉄管(φ1200mm程度など)は、境浄水場(武蔵野市)などから都心・代々木方面や周辺の和泉給水所(水圧調整施設)へ水を送るための現役の送水管として利用されています。

玉川上水の「水路」としての歴史的ルートを活かして地下に埋設された水道管が、井の頭線の切土部分だけ地上に飛び出している形です。

 

2       塩硝蔵(えんしょうぐら)地跡

2.1      明大

塩硝蔵(えんしょうぐら)地跡

現在、明治大学和泉校舎および本願寺派築地別院和田堀廟所となっているこの付近は、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。

当初は、多摩郡上石原宿(調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(一七五〇年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ一万八千八百九十六坪(約六万二〇〇〇平方メートルあり、御蔵地(貯蔵庫)は、五棟・二町二九畝五歩(約二万三〇〇〇平方メートル)の規模であったといわれます。

当時、塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心三人が年番で交替居住し、警備や雑用には付近の十六ヵ村に対して、昼夜交替で三人づつの課役が徴(ちょう)せられました。

明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれます。

その後当地は、兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されておりましたが、大正の末期に廃止されました。

明治の末頃までの火薬庫周辺は、雑木林や樫が生い茂り、欝蒼とした森となっていて、多くの狐や理が棲息し、余談に人を化かした話等も伝えられています。

昭和五十九年三月

杉並区教育委員会

 

2.2      築地本願寺 和田堀廟所

築地本願寺 和田堀廟所

当廟所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来立像が本尊として安置されています。

大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災によって、築地本願寺は、地中五十七の子院と共に、焼失しました。

その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和十年(一九三五) インド様式の大本堂の完成を見ました。

墓地については、他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和四年(一九二九) 出願が許可され、翌五年当地を所有し、地名にちなんで和田堀廟所と名付けました。

一二、〇〇〇坪(三九、六〇〇平方メートル)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園式墓地として注目されました。

ところが昭和二十年(一九四五)五月二十五日、空襲により建物はことごとく焼失しました。

しかし、幾多の困難の中バラック建の仮本堂を建てて宗教活動を続けました。

ようやくにして同二十八年、本堂が再建され、更に門信徒会館等が建てられ今日に至っています。

墓地には樋口一葉・九条武子・海音寺潮五郎・古賀政男・水谷八重子・服部良一等有名人の墓があります。

また、明暦の大火(一六五七)で焼失した築地本願寺(当時は浜町御坊)の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先三十三名の由来が書かれた石碑も建てられています。

平成二十二年三月

杉並区教育委員会

樋口一葉女史墓所入口

最初の通りを右に折れて右側六番目

樋口家のお墓はこぢんまりとした普通のお墓でした。

樋口一葉に関する他の記事は以下です。

東京街歩き:本郷 樋口一葉旧居と金田一京助旧居跡

東京街歩き:樋口一葉記念館から遊郭の街・吉原へ向かう

和田堀廟所の全景です。

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