博覧強記

文豪・徳富蘆花の旧居跡は芦花公園となって世田谷区民集いの場になる

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芦花公園、正式名称・蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)は、東京都世田谷区粕谷一丁目20-1にある都立公園です。

公園は「ホトトギス」等の名作で知られる明治・大正期の文豪・徳富蘆花が愛子夫人と明治40年40歳の時から20年間、晴耕雨読の生活をしながら作家活動をした場所です。

昭和2年9月蘆花は静養先の伊香保で亡くなりましたが、昭和11年蘆花没後10周忌に愛子夫人は現状の維持と故人の生活状態を偲びうるようにという条件のもと、土地、住宅、樹木、墓地、書籍、原稿、書画、生活用品その他遺品一切を東京市に寄付されました。

蘆花恒春園は昭和13年2月に都市公園として開園。

その後、拡張整備を重ね開園時の6.3倍の広さとなっています。

1        恒春園の名前の由来「みみずのたはこと」から

台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜が好いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。

2        蘆花記念館

公園内にある蘆花記念館には、蘆花の作品展示の他にも、「ホトトギス」の主人公「浪子」を描いた黒田清輝の「浪子像」、「トルストイの手紙」、伊藤博文を暗殺し、処刑された韓国の独立運動家「安重根(アンジュングン)」の書などが展示されています。

3        秋水書院

この建物の建前の日の明治44年1月24日に、大逆事件の犯人とされた幸徳秋水らが処刑されました。

蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願しましたが果たせませんでした。

メモ

大逆事件

信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」を口実として、政府の政治的でっち上げにより、幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと取り調べや家宅捜索を行なって弾圧した事件です。

明治43年6月26名が逮捕され、 明治44年1月18日全員が有罪判決を受け、2人を除いて死刑。(一審にして終審) 大逆罪であるため不満があっても上告できませんでした。

翌日12人が恩赦により減刑され、無期懲役。 残る12名は判決後6日目の24日に11人の刑執行。

7日目の25日に残る菅野スガの刑が執行されました。

今、事件の経緯を見ると、かなり無茶苦茶な捜査と判決です。

故人を忘れないように処刑された幸徳秋水の名前を付けたのでしょう。

4        お地蔵さん

秋水書院と梅花書屋の間にあります。

このお地蔵さんについても「みみずのたはこと」に記載されています。

地蔵様が欲しいと云ってたら、甲州街道の植木なぞ扱う男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の蔭に南向きに据えてくれた。八王子の在、高尾山下浅川附近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だと云う。眼を半眼に開いて、合掌してござる。近頃出来の頭の小さい軽薄な地蔵に比すれば、頭が余程大きく、曲眉(きょくび)豊頬(ほうきょう)ゆったりとした柔和の相好、少しも近代生活の齷齪(あくせく)したさまがなく、大分ふるいものと見えて日苔(ひごけ)が真白について居る。惜しいことには、鼻の一部と唇の一部にホンの少しばかり欠けがあるが、情(なさけ)の中に何処か可笑味(おかしみ)を添えて、却て趣をなすと云わば云われる。台石の横側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初一瞥(いちべつ)して寛永と見たが、見直すと寿永(じゅえい)に見えた。寿永では古い、平家没落の頃だ。寿永だ、寿永だ、寿永にして措け、と寿永で納まって居ると、ある時好古癖(こうこへき)の甥が来て寿永じゃありません宝永ですと云うた。云われて見ると成程宝永だ。暦を繰ると、干支(えと)も合って居る。そこで地蔵様の年齢(とし)も五百年あまり若くなった。地蔵様は若くなって嬉しいとも云わず、古さが減っていやとも云わず、ゆったりした頬に愛嬌を湛えて、気永に合掌してござる。宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山(ほうえいざん)が一夜に富士の横腹を蹴破って跳(おど)り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被(かぶ)られたことであろう。

 

5        梅花書屋

この家に掲げられていた横額の書にちなんだ名前です。

蘆花の父親・徳富一敬から譲られた薩摩の書家・鮫島白鶴によるものです。

6        茅屋

茅屋(ぼうおく かやぶきの屋根の家の意味)が最初の家です。

「みみずのたはこと」には以下の様に記載されています。

引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院(梅花書屋)を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院(秋水書院)を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。

7        徳富蘆花と愛子の墓

二人には子供がいませんでした。

東京都には墓ごと寄付されたため、管理は東京都公園協会で行っているようです。

8        わかれの杉

芦花公園の南にあります。

蘆花を訪ねて帰る人を、いつも、この粕谷八幡神社の入口の杉の下に佇んで見送っていました。

杉は第二次世界大戦後に枯れ幹を少し残して切られました。

現在は、若い杉が2代目として植えられています。

「みみずのたはこと」には以下の様に記載されています。

村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下(した)に立って色々の人を送った。彼(かの)田圃を渡(わた)り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送(もくそう)した人も少くはなかった。中には生別(せいべつ)即(そく)死別(しべつ)となった人も一二に止まらない。生きては居ても、再び逢うや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送りの杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。

9  公園

芦花公園は、蘆花の旧居跡のほかにも広場やドッグランなどの設備があり、人の出入りが絶えません。

梅はもうすぐ見ごろを迎えます。

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