金沢長町武家屋敷は繁華街の香林坊や片町から歩いて数分の距離にありますが、この一帯は時が止まったように、昔ながらの土塀や石畳の小路が維持されています。
というのも、ここが、伝統環境保存区域および景観地区に指定されていて、地域ぐるみで昔の街並みを守っているからです。
住んでいる人達の努力は大変なものだと思います。
目次
1 街並み
石畳と土塀の小道です。
2 大野庄用水
長町武家屋敷周辺の土塀沿いを流れる用水です。
灌漑、物資運搬、防火、防御、融雪などの多目的用水ですが、金沢城築城時に大きな役割を果たしたと伝えられています。
旧宮腰(金石港)から大量の木材を運ぶために造られたことから、御荷川(または鬼川)と呼ばれていました。
現在は、犀川桜橋の上流右岸地点で取水しています。
その流れは今でも屋敷内庭園の曲水に利用されています。
3 武家屋敷跡野村家
金沢市文化施設共通観覧券を利用して廻りましたが、ここは個人の施設のため使えなかったので入館していません。
外から外観だけを撮影して帰りました。
庭園は、大野庄用水から引いた曲水(まがりみず)の庭で各種の灯籠が配されているということです。
天正十一年(1583年)藩祖前田利家が金沢城に入城した際直臣として従った野村伝兵衛信貞家は禄高千石千二百石と累進し十代にわたって御馬廻組組頭各奉行職を歴任千有余坪の屋敷を拝して連綿と明治四年廃藩までつづいた由緒深い家柄である。
武家制度の解体はついにこの地を庭園土塀を残して菜園としていたがその窮乏は次第に土地を分譲したり更に文明開化の町づくりの妨げとなって大正に入るや住宅街として現在に至ったのである。
しかし未だに一部藩政時代の面影をとどめている。
いくたびか住人をかえたが昭和の初期藩政時代蝦夷遠くはロシアに通商し藩政をも支えた「北前船」の旧橋立村の傑商久保彦兵衛が藩主を招くために造った豪邸上段伺候の間を
移築したものである。
今更のように時代の推移盛衰を身近に感じられてならないし加賀文化を知る貴重な文化遺産である。
天正11年(1583年) 藩祖 前田利家が金沢城に入城し加賀百万石のいしずえを築く際、直臣として従った加賀藩士「野村伝兵衛信貞」。野村家は、主君が乗った馬の周りを警護する馬廻衆(うままわりしゅう)の組頭や各奉行職を歴任してきた代々続いた由緒高い名家です。
4 前田土佐守家資料館
行ったときは丁度外壁を改修中でした。
エントランスから館内を撮影。
前田土佐守家の紹介が入口に書いてあります。
家祖となる前田利政は、加賀藩祖前田利家・その夫人まつの次男です。
家祖利政は七尾城にあって能登国22万石余りを領有していましたが、関ヶ原の戦いで妻の籍(蒲生氏郷の娘)を石田三成側の人質に取られていたことから出兵を拒否しました。
利政は徳川家康の出兵要請に応じなかったことにより領知を没収されました。
一方、前田本家は毛利輝元・宇喜多秀家から強く勧誘を受けましたが、それには応じず徳川方として旗揚げをしました。
上方で挙兵した石田三成方についた山口氏の大聖寺城を落城させ、西に向って進みながらも引き返し、小松の浅井畷の戦いを経て金沢に戻りました。
利政の嫡男である2代当主直之は、幼少時に祖母芳春院(前田利家夫人まつ)にひきとられて養育されました。
祖母芳春院の尽力があって、元和元年(1615)12歳の時、3代藩主前田利常に召し抱えられました。
これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ1万余石の禄高をもって代々前田「八家」の一つとして藩の要職を歴任し、10代当主直信の時に明治維新を迎えました。
結局、家祖とよばれる利政は、お家をつぶされた人物になり、子どもが再興を果たすのですが、家祖として系図に残して後裔から大切にされている様子が窺えます。
展示室の2階には昔の双六がありました。
『甲冑着用備双六(かっちゅうちゃくようそなえすごろく)』は、江戸時代の安政5年・1858年に、歌川芳員(うたがわよしかず)という浮世絵師が描いたもので、甲冑の着用手順を表したものです。