五稜郭タワーは、北海道函館市の特別史跡・五稜郭跡に隣接する高さ107mの展望タワーです。
現在の塔は2006年に完成した2代目で、五稜郭の美しい星形の城郭を真上から一望できる唯一のスポットとして親しまれています。
展望台からは、四季折々に表情を変える五稜郭(春の桜、冬のライトアップなど)はもちろん、函館山や津軽海峡のパノラマも楽しめます。
また、館内には新選組副長・土方歳三のブロンズ像や、五稜郭の歴史を学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」があり、観光と歴史学習の両面で魅力的なスポットです。

目次
1 展望台
1.1 五稜郭ジオラマ

1.2 五稜郭


1.3 土方歳三像


展望台の土方歳三ブロンズ像は、函館出身でローマを拠点に活動していた、 彫刻家である故・ 小寺眞知子氏によって製作されました。
ブロンズ像の基となった2枚の肖像写真が現存しており、 どちらも函館で撮影されたものだと言われています。


2 五稜郭歴史回廊
2.1 亜米利加船、箱館来航
安政元年(1854) 日米和親条約の締結により、幕府は、 二百年以上続いた「鎖国」を廃止、 箱館 (函館) は翌年3月の開港が決定しました。
箱館港の調査のためにやってきたペリー提督と、 応接役である松前藩の家老が、 軍艦ミシシッピ号の艦上で初めて対面しました。
2.2 開港場の交流
開港場となった箱館の町の通りには、買物や散歩をする外国船の乗組員たちが行き交うようになりました。
彼らは町の人々と交流し、八百屋で買ったキュウリなどを生でかじりながら歩いたり、 木魚を叩いて陽気に踊ったりすることもあったようです。
2.3 北海道開拓のための箱館奉行
徳川幕府が箱館と蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すと同時に、 箱館の防備強化も計画しました。
蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に説明しています。
2.4 箱館諸術調所
西欧の学問を教育・研究するための機関 「箱館諸術調所」には、日本各地から学問を志す若者が集まりました。
教授である武田斐三郎は、 航海学、 測量、 造船、化学などの専門的な技術と知識を熱心に教え、ここから明治の指導者達が育っていきました。
2.5 五稜郭の築造
安政4年(1857)、五稜郭の築造工事が始まりました。
土木工事や石垣の工事、役所の建築など、各地から集まった際人や多くの労働者の努力により、着工から7年後の元治元年(1864)には箱館奉行所が移転し、五稜郭は蝦夷地の政治・外交・防衛の中心となりました。
2.6 旧幕府の家臣、箱館到着
旧幕府海軍の副総裁榎本武揚は、徳川家臣による蝦夷地の開拓を目指して、大政奉還により仕事を失った旧幕府の家臣らを艦隊に乗せて江戸湾を脱走しました。
明治元年(1868)10月20日 (新暦12月3日)、 箱館の北方にある鷲ノ木沖に到着した彼らは吹雪の中で上陸し、 五稜郭を目指します。
2.7 五稜郭を占領
旧幕府脱走軍は箱館への途中で、新政府の軍隊である箱館府兵の攻撃を受けますが、これを打ち破りました。
箱館府知事は青森へ退却し、 10月26日 (新暦12月9日)、 無人になった五稜郭を占領した脱走軍は 「日の丸」の旗を先頭に、堂々と入城していきます。
2.8 松前攻略
箱館を占領した脱走軍は松前藩に平和共存を提案しますが、 松前藩は戦う姿勢を見せたため、 陸軍を派遣し城下を占領しました。
松前藩の新しい砦である館城も脱走軍の攻撃を受け、 まな板を盾代わりに奮戦する三上超順ら松前藩兵の激しい抵抗もむなしく攻め落とされました。
2.9 旧幕府軍の軍艦「開陽」座礁
松前藩を攻撃する陸軍を海から支援するために出撃した旧幕府軍の軍艦「開陽」は、冬の日本海の嵐により江差の港で座礁してしまいました。
陸軍を率いて江差に到着した土方歳三が、 荒波に砕かれていく 「開陽」 を見て言葉もなく立ち尽くしています。
2.10 脱走軍 全蝦夷地平定
軍艦「開陽」を失いながらも松前藩を打ち破り、全蝦夷地を手にした脱走軍は、12月15日(新暦1月27日) 箱館港で百一発の大砲を撃って勝利を祝いました。
彼らは入札 (選挙) によって、 榎本武揚を総裁とする仮の政権を樹立しました。
2.11 明治政府軍反撃開始
翌明治2年(1869)4月9日 (新暦5月20日)、新政府軍の大部隊が日本海側の乙部の海岸に上陸しました。
脱走軍に対する反撃が開始されたのです。
新政府軍は陸軍を3つに分けて、三方から脱走軍の本拠地である箱館五稜郭へ向けて進撃を開始しました。
2.12 一進一退攻防
箱館への最短ルートである江差山道では、脱走軍陸軍奉行並である土方歳三の率いる部隊が陣地を築いて、押し寄せる新政府軍の部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退しました。しかし新政府軍は他の二つのルートで勝利を収め、増援部隊を加えて五稜郭へ迫ります。
2.13 箱館総攻撃
5月11日(新暦6月20日)、箱館と五稜郭を包囲した新政府軍は、遂に総攻撃を開始しました。箱館山裏側から上陸し崖を登って現れた新政府軍の急襲部隊により箱館の街は占領されてしまいます。これを知った土方歳三は箱館の奪回に向かいますが、銃弾を受けて戦死しました。
2.14 戦時下の赤十字精神
新政府軍の一隊が脱走軍の箱館病院にも突入しました。
病院長であった高松凌雲は、身動きできない病人やけが人の命を助けるために赤十字精神の大切さを訴えました。
新政府軍の薩摩藩兵も患者達を救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して脱走軍に降伏を勧めます。
2.15 五稜郭開城・終戦

5月17日(新暦6月26日)、榎本武揚ら脱走軍の幹部は、新政府軍の陣地に出頭し亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日彼らは五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。ここに幕末維新の動乱は終了し、明治時代が本格的に動き出すのです。
2.16 静穏
箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬期間に天然氷の切り出しが行われ、明治4年(1871)には本州へ送られて「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業に育ちました。また大正3年(1914)には公園、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、激動の歴史を静かに伝えています。
3 1階


3.1 砲


3.2 土方歳三

「五稜郭に立つ 土方歳三」
天保6年(1835) 武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、文久3年(1863) 幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる京都で新選組を結成、 「池田屋事件」 などの討幕派浪士に対する徹底した取締まりと同時に、「鬼の副長」 として新選組隊士を厳しく統率し恐れられた。
鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新選組局長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、宇都宮、 会津と戦い続け、 榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し蝦夷地に渡った。ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、いわゆる「蝦夷共和国」 では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。
箱館での土方は、 「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、 明治2年(1869) 春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、 押し寄せる敵を撃退した。
しかし明治2年5月11日、 新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、 一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。
この像は、旧幕府軍が蝦夷地から一時的に新政府の勢力を駆逐し、暫定政権を樹立した明治元年12月15日、 戦場から凱旋した土方歳三が、 乗馬用の鞭を片手に五稜郭に降り立った姿を再現したもので、函館出身の彫刻家、 小寺眞知子さんの作品です。
写真函館市中央図書館蔵
また展望2階には、 小寺さん制作による座像 「土方歳三之像」 が設置されております。




3.3 函館の地形
「トンボロ」 がもたらした函館の歴史夜景で有名な函館の街は函館山から北東方向に扇形に広がっています。
これは、島であった函館山と対岸の陸地が海流に運ばれた土砂で陸続きになった 「陸繋砂州=トンボロ (tombolo)」 という地形の上に街が出来たためです。
砂州に囲まれて波が静かな函館山の麓には、蝦夷地産物の交易の港として人々が移り住み、 街が出来ました。
安政元年(1854) の日米和親条約によって開港場となった函館の歴史や五稜郭の誕生、そして現在の夜景の美しさも、 函館山と「トンボロ」によって形づくられた天然の良港という地形によるものと言えます。
3.4 武田斐三郎

五稜郭の設計者
武田斐三郎 (1827-1880) 像
伊予大洲藩出身。 江戸や大阪で洋学を学んだ後、通訳として蝦夷地へ派遣される。
箱館諸術調所教授として洋学による人材育成に当たると同時に五稜郭や弁天岬台場の建造など箱館の防備強化に貢献する。
江戸に戻り開成所教授となり、 維新後も陸軍士官学校教授など、 生涯を通じて教育に尽くした。
3.5 榎本武明

旧幕府脱走軍 総裁
榎本武揚(1836-1908) 像
幕臣。「長崎海軍伝習所」で航海術を学んだ後オランダに留学して国際法・器械学などを修める。 大政奉還後、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱走。 五稜郭を占領するが新政府軍の総攻撃により敗北、投獄。赦免後は開拓使に出仕。 逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任した。
3.6 開陽

開陽
徳川幕府が海軍力の増強のため、オランダに発注して建造した当時我が国最強の軍艦です。
榎本武揚の率いる旧幕府軍の旗艦として蝦夷地へ渡りましたが、 威力を発揮することなく嵐のために座礁沈没しました。
·排水量 2,590トン 乗員数 350~500人 全長 72.8メートル 最大幅 13.0メートル 速力 10ノット 大砲 26門
「開陽丸」は帆船から蒸気船への過渡期に建造された軍艦であり、 まだ蒸気機関の効率が悪く、 スクリューは港の出入りや無風時に使用し、 帆走が中心でした。
帆走時には、水の抵抗を減らすためにプロペラはスクリューシャフトから外して船体内部に引き上げるように、 四角い枠の中に装備され、 プロペラ自体も、鉄板をひねっただけの二枚羽を二組繋いだものでした。
帆走時には、煙突も船体内に引き入れられ 「煙突たおせ! スクリューを引き入れよ!」
のオランダ語での号令が艦上に響き渡ったようです。
さて、五稜郭の勉強を終わったところで、夜も更けましたが、五稜郭跡に向かいます。


















