吉原は言わずと知れた、江戸時代に遊郭が立ち並んだ歓楽街です。
随分前に消えたはずの街ですが、地図を見ると、四角形の街が斜45度の角度に傾いて、くっきりとその形を残していることが分かります。
江戸時代の古地図を見ると、この遊郭の周りには建物は無く、江戸の中心部から離れた土地に建設されたのが分かります。
というのも、もともと徳川家入府の時代には日本橋人形町のあたりにあり、海岸に近くヨシが茂っていたため「吉原」という名前が付けられました。
その後江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになったため、浅草寺裏の日本堤へ移転させられました。
それが、一般的に吉原と呼ばれる「新吉原」です。
吉原は現在でも、歓楽街です。
今回、樋口一葉記念館(こちらに記事)から浅草へ向かう途中で吉原を見て来ました。夜がこの街の時間ですが、昼でもその雰囲気は伝わってきます。
あまり観光を目的としていくところではないです。
「吉原遊廓」(2020年11月26日 (木) 00:57 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
吉原大門の信号機です。
しかし、本当の吉原大門はここから南西に100mほど、少し曲がった道を進むとあります。
吉原大門の交差点にある、地味な柳ですが、「見返り柳」と呼ばれる柳です。
遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから名づけられました。
樋口一葉の有名な「たけくらべ」の冒頭でも単なる掛詞ですが、「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、・・」と書かれています。
昔の遊郭の入口は、今の吉原大門から少し入った所にあります。
出入口はここだけでした。
遊女は一旦、この門をくぐったら、めったなことでは出られませんでした。
「吉原遊廓」(2020年11月26日 (木) 00:57 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
大門をくぐり、「仲之町通り」を真っすぐに進むと、右手に「吉原神社」があります。
1872年(明治5年)新吉原四隅に祀られていた稲荷祠を合祀し、吉原遊郭の鎮守として創建されたものです。
以上 いつか行ってみたいと思いながら、行くことが無かった吉原でしたが、歴史的な跡よりもその雰囲気自体がやはり遊郭の跡だなあと思わせる街並みや、人の動きがありました。
「見返り柳」以外にも歴史跡の看板を立てて、観光しやすいようにしてもらえるとありがたいですが、そこで営業しているお店の目的から考えると少し難しいかな、とも思われます。
街は時代とともに変化しますので、いつかそういう日も来ることでしょう。