永田町を歩くことはほとんどありませんが、東京オリンピックのボランティア(六本木)の帰りに、少し足を延ばすと国会議事堂までたどりつきます。
都心と言ってもこのあたりは普通の人にとっては全く用がないため、人影も少なく静かなものです。
議事堂前公園は、国会議事堂の正面から向かって右手にあります。
折角なので、古地図と並べてみました。
目次
1 国会議事堂
国会議事堂が目的ではありませんが、せっかく来たのでその雄姿をパチリ。
外装は、広島県呉市倉橋島町納地区で産出される赤色や桜色系統の色彩の最高級の花崗岩を使っています。
この石は国会議事堂に使われているので、議院石(ぎいんせき)と言う呼び名もあります。
2 この地の由来
室町時代の末期 太田道灌がよんだ
「わが庵は松ばらつゞき海ちかく、ふじの高根を軒端にぞ見る」
という歌の松原の一角に連なっていたこの地は、江戸時代のはじめ加藤清正が居住し、寛永年間に井伊家の居所となり、明治初頭に及んだ開国の難衝に当たった大老井伊直弼もここに住んでいた
明治以降、弾正台ついで参謀本部の所在地となったこの地にある日本水準原点は、明治24年に設けられた。
昭和27年この地は衆議院に移管され35年憲政の功労者尾崎行雄を追念してここに浄財で記念会館が建設された。
弾正台(だんじょうだい)は「監察・治安維持などを主要な業務とする官庁」です。
3 阿刀田 高さんが紹介する議事堂前公園
国会議事堂から道一本へだてた公園。洋風の庭園は憲政記念館と地つづきになっている。散策をしながら、
「ほう?24.4140メートルですか」
と知って、頭上に24メートルの高さを想像してみた。
家屋の一階が約3メートルの高さだろうから、ざっと八階建てのビル。それが私の立っているところの標高。海面よりの高さ。
「意外と海が近かったんだ」
今はずいぶん遠くなったけれど。
かつて陸軍の測量部があって、このあたりを標高の基準にすえて日本地図が作られたらしい。それにしても、この公園は人にあまり知られていないから、とてもよいデートスポット。まぎれもない日本国の中心。永田町で恋が語れるなんて……。三方にひだを広げた時計塔があって、
「これ三権分立を表しているんだって」
「あら。あなたは経済力と容姿のよさと性格のよさと三つ表しているかしら?」
「うん?」
阿刀田 高
4 加藤清正邸跡/井伊掃部頭(かもんのかみ)邸跡
この掲示板は公園の中にはありません。
公園の内堀通り側にありました。
通る人に分かるようにとの配慮だと思いますが、あまり人通りの多い道には思えません。
井伊家の菩提寺は世田谷の豪徳寺にあります。
永田町一丁目1番と8番(国会前庭北地区と、その西側の一角)には1596年~1615年(慶長年年間)から熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤清正の屋敷がありました。
加藤家は2代忠広の時に、謀反の疑いをかけられ、1632年(寛永9年)に改易となり、屋敷も没収されました。
同年、彦根藩(現在の滋賀県)藩主井伊家がその屋敷を拝領し、明治維新まで上屋敷としました。
歴代当主は、掃部頭(かもんのかみ)を称しました。
幕末の大老井伊直弼は、1860年(安政7年・万延元年)3月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士らに襲撃されました。
なお、加藤清正邸跡は、1955年(昭和30年)3月28日に、東京都指定旧跡として文化財指定されています。
桜田門は井伊家跡のすぐ近くです。
5 江戸の名水「櫻の井」
今の場所より10m位お堀側にあったとのことです。
名水と言われるほど良い水が湧いていたのでしょうか。
今では信じられません。
東京都指定旧跡 江戸の名水「櫻の井」
「櫻の井」は名水井戸として知られた「江戸の名所」で、近江・彦根藩井伊家上屋敷の
表門外西側にあったが、ここは加藤清正邸跡(都旧跡)で、清正が掘ったと伝えられている。
三連式釣瓶井戸で、縦約一.八メートル、横約三メートルの石垣で組んだ大井戸で
三本の釣瓶を下ろし、一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられた。
江戸名所図会に絵入りで紹介され、 歌川(安藤)広重の「東都名所」の「外櫻田弁慶櫻の井」(天保十四年(一八四三)(図)にも描かれている。
安政7年(一八六0)三月三日には大老井伊直弼がこの井戸の脇から登城途中、暗殺された。
大正七年(一九一八)史蹟に定められ、東京都は昭和三十年(一九五五)旧跡指定。
昭和四十三年(一九六八)道路工事のため交差点内から原形のまま十メートル離れた現在地に移設復元された。
平成一九年(二00七)彦根城築城四00年祭と東京金亀会設立90周年に記す
平成19年10月
東京金亀会(滋賀県立彦根中学校・彦根東高等学校同窓会)
東京都教育委員会
6 時計塔
公園の中心です。
すぐそばの尾崎記念会館も緊急事態宣言で閉鎖中のため、訪れる人も少なく、閑散としていました。
時計塔
この時計塔は、尾崎記念会館(現 憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔全面の噴水池・花壇とともに設計され、昭和35年(1960)7月に完成した。
三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。また、塔の高さは、「百尺竿頭一歩を進む」ということわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3メートル)より高くした31.5メートルに設定された。
時計は、時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られたものであったが、現在は国産のものに改修されている。
チャイムは、10時・13時・17時・22時の4回鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。
日本語が変ですが、今は鳴るのか鳴らないのか。
7 日本水準原点
古くからの台地上にあり、地盤沈下の影響を避けることができることからここを日本の原点としました。
地盤を安定させるために、標庫の基礎はパイルを打ち込んで、地下10余mの安定地層から築いてあります。
重要文化財【建造物】
「日本水準原点」
所在地 東京都千代田区永田町1丁目1番2号
指 定 令和元年12月27日日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。
日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定されました。
日本水準原点
日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
令和元年12月
国土地理院
日本水準原点
日本水準原点は、わが国の土地の標高を測定する基準となる点である。
明治24年(1891年)5月にこの場所に設置した。
日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。
その標高は、明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、当時の24.5メートルと定めた。
その後、対象12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴い、その標高を24.40メートルに改正したが、平成23年(2011年)
3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に」伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
平成23年10月21日
国土地理院
8 電子基準点
こちらは、日本国内に何か所もありますが、21区ではここだけです。
この電子基準点は、日本の標高の基準となっている日本水準原点と同じ地盤に設置され、その変動を衛星測位でモニターできます。
もし首都直下地震などで都心の標高が変わっても、衛星測位によって従来の水準測量よりも早く変動量を把握でき、その後の測量が円滑に進みます。
高さは7mで、日本水準点と同一の、約10mの深さにある支持層までパイルを打設しています。
最上部にアンテナを、その下にはソーラーパネルを搭載しています。
内部にみちびきやGPS、GLONASS、ガリレオに対応したGNSS受信機、ルーター、バッテリー、電源監視装置、通信装置、UPS、傾斜計、ヒーターなどを備えています。外装にはステンレス素材を採用し、熱で変形しないよう二重になっています。
また、正面下部には測量標であると示す銘板が掲示され、基礎には測量の基準点として利用できる金属標が設置されています。(内閣府)
閑散としている割には、盛沢山の公園でした。