史跡

東京街歩き:石垣だけが昔の名残をとどめる赤坂御門跡

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赤坂御門は江戸城の外堀にあった門で、その跡地は有楽町線・永田町駅の「9a出口」すぐの所にあります。

現在は、石垣の一部が残るのみになりましたが、写真と古地図から往年の姿が確認できます。

今はもちろん門もないので出入り自由ですが、こうして明治時代に撮影された写真を見ると、昔は、特別な人以外は、簡単にお城の中へ入ることができませんでした。(あたりまえですが。)

古地図で確認してみましょう。

外堀を横切る通路を城内へ進むと、そのまま直進できず右に進む桝形構造になっています。

寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之 により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則 によって門が完成しました。

史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門

正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門 の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城 の門は、敵の侵入を発見する施設であるため「見附(みつけ)」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門(ますがたもん)」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門 や桜田門 には同じ形式の門を見ることができます。

赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之 により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則 によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でも有りました。

明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。

千代田区教育委員会

 

赤坂門跡

赤坂門は1636年(寛永13年)に、筑前福岡藩(現在の福岡県)の藩主である黒田忠之により築造されました。

門の名称は、外側の赤坂を監視することから名づけられました。この門は脇往還のひとつ矢倉沢往還(大山街道)の出発点となっており、

大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)を参詣する江戸の人々で賑わいました。櫓などの建築部分は1871年(明治4年)に撤去され、石垣も明治30年代に撤去されました。

赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、1956年(昭和31年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡に、文化財指定されています。

 

門の西側にある弁慶堀と濠にかかる弁慶橋です。

右手上にあるのが、首都高4号です。

赤坂御門の近くには、ホテルニューオオタニ、国立国会図書館、自民党本部があります。

ホテルニューオオタニの場所は彦根藩 井伊掃部頭直弼の中屋敷がありました。

桜田門外の変は、早朝、井伊家の上屋敷から江戸城へ登城する井伊直弼が、水戸の脱藩浪士を中心とする集団に襲われましたが、その上屋敷跡は桜田門(今の警視庁のあたり)の近くにあり、別のお屋敷です。

大きな屋敷をいくつも所有していたのですね。

上屋敷については 「東京街歩き:井伊家上屋敷跡にある議事堂前公園」で書いています。

ホテルニューオオタニもついでに撮影しました。

弁慶堀に一番近い ガーデンコートです。

永田町に近いので、政界では良く使われるホテルなのでしょう。

ホテルニューオオタニの記事は 「紀尾井町界隈散策:ホテルニューオオタニ・ 大久保利通暗殺現場」で報告しています。

余談ですが、2019年4月13日に開催された安倍元首相主催の「桜を見る会」の前夜祭はここで行われています。

一流ホテルのディナーの会費5000円。

差額を安倍さんが支払ったとしたら公職選挙法違反ですが、うやむやのうちに話が立ち消えました。

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