江ノ電の旅、第4弾。
鎌倉から、腰越まで行き、戻ってきましたがここが最後の駅です。
鎌倉から1駅来たところの和田塚です。
和田塚駅に直結する一般住宅を改造した喫茶店で休憩してから出発です。
目次
1 和田塚
鎌倉幕府には、その代表的な役所として、軍事面で武士(御家人)を統率する「侍所」、各種の事務手続きを行う「政所」、主に相続や領地争いの裁判を行う「問注所」の3つが置かれていました。
このうち「侍所」は、1180年源頼朝が平家討伐で挙兵した年には既に鎌倉に置かれ、源氏軍の司令部としてその役割を果たしていました。
この「侍所」の初代別当(長官)となったのが、頼朝の信頼も厚かった和田義盛でした。
「侍所」は、警察として傷害や窃盗などの刑事裁判も担っており、その長官だった義盛は、鎌倉期初期から幕府の中心的な武士でした。
頼朝亡き後、義盛は幕府運営を合議する宿老(13人)の中でもその力を発揮するとともに、1203年には、北条氏による比企一族(2代将軍源頼家の姻戚)の討伐に加勢し、3代将軍源実朝の擁立にも協力しました。
建保元年(1213)2月信濃国の住人・泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して北条氏の打倒を企てました。
しかし事前に発覚して、一味は捕らえられましたが、その中に和田義盛の子・義直と甥の胤長(たねなが)が加わっていました。
義盛は二人の息子の赦免を願い出て許されたが、胤長について執権・北条義時は許さず、陸奥国に配流されました。
5月2日和田義盛は密かに北条氏打倒の挙兵の準備を進めました。
当初は同族の三浦義村.胤義親子は協力する約束をしていましたが、土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと訴えました。
和田一族は、軍兵150騎で幕府を攻撃し、幕府の建物は全焼となりました。
その後、5月3日幕府軍の軍勢が増えると和田軍は劣勢に陥り、一族は次々と討たれ、義盛自身も落命し、滅亡しました。 (和田合戦)
明冶25年、新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところおびただしい人骨が出てきました。
おそらく和田合戦の時のものであろうと言うことで「和田一族戦没地」の碑が立てられました。
2 畠山重保邸跡と墓塔
由比ケ浜に近い一ノ鳥居の側に石碑と宝篋印塔があります。名将畠山重忠の長男、畠山重保の屋敷跡/墓所といわれています。讒訴により謀反の疑いをかけられ、この場所で殺されました。
畠山家は、幕府立ち上げ以来の御家人でしたが、北条が覇権を握る過程で、あらぬ罪を着せられて和田義盛よりも早い1205年に滅亡しました。
鎌倉時代の御家人間では、北条が実権を握るまで、こうした粛清が続きました。
畠山重保ハ重忠ノ長子ナルガ甞テ北條時政ノ婿平賀朝雅ト忿爭ス
朝雅其ノ餘怨ヲ蓄エ重保父子ヲ時政ニ讒ス
時政モト重忠ガ頼朝ノ薨後其ノ遺言ニ依リ頼家ヲ保護スルヲ見テ之ヲ忌ミ事ニ依リテ之ヲ除カント欲ス
乃チ實朝ノ命ヲ以テ兵ヲ遣シテ重保ノ邸ヲ圍ム重保奮闘之ニ死ス時ニ元久二年六月二十ニ日此ノ地即チ其ノ邸址ナリ
其ノ翌重忠亦偽リ誘ハレテ武蔵國二俣川ニ闘死ス
大正十一年三月建 鎌倉町青年團
メモ
畠山重保は、畠山重忠の長男です。
しかし、かつて北条時政の婿である平賀朝雅と争いました。
平賀朝雅はその恨みから重保父子を北条時政に讒言しました。
北条時政も、畠山重忠が源頼朝の死後、その遺言によって源頼家を保護するのをみて、なにかにつけて討とうと思っていました。
そこで北条時政は源実朝の命令として、兵を出して畠山重保の邸宅を囲ませました。
畠山重保は奮闘しましたが、殺されてしまいました。
これが元久2年(1205年)6月20日のことです。
この場所は、その畠山重保の邸宅の跡です。
その翌日に父の畠山重忠も偽りによって誘い出され、武蔵国の二俣川で打ち取られました。
鎌倉市指定有形文化財 石造宝篋印塔(明徳四年銘)
高さ3.4mを超える、市内でも大型の宝篋印塔で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重保墓塔と伝えられます。塔の基礎には『明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘道友』と刻銘があり、作風からも明徳四年(1393年)造立と見られます。同じく14世紀後半に造立された市内の宝篋印塔としては、文和五年(1356年)銘の通称「泣塔」(寺分所在)も有名です。
江ノ電の旅シリーズは以下です。
江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#2 極楽寺・成就院
江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#3 長谷寺・鎌倉大仏
江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#4 和田塚・畠山重保邸跡と墓塔