史跡

紀尾井町界隈散策:ホテルニューオオタニ・ 大久保利通暗殺現場

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江戸時代、紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷などが並んでいた武家町は、各家から1文字ずつとって明治時代、紀尾井町と言う町名となりました。

今では、都心のビル街です。

 

1        紀尾井町の町名由来

千代田区町名由来板:紀尾井町(きおいちょう)

所在地:紀尾井町2番(清水谷公園)

江戸時代の初期から、この界隈(かいわい)には大名屋敷が置かれていました。安政(あんせい)三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊(きい)和歌山藩徳川家上屋敷(かみやしき)、尾張(おわり)名古屋藩徳川家中屋敷(なかやしき)、近江彦根(おうみひこね)藩井伊(いい)家中屋敷がありました。

紀尾井町(きおいちょう)の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。また、紀尾井坂より南、弁慶橋(べんけいばし)あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷(しみずだに)」と呼ばれていました。

これらの大名屋敷は、明治五年(1872年)、新たに麹町紀尾井町(こうじまちきおいちょう)に生まれ変わり、明治十一年(1878年)、麹町区に所属します。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮(きたしらかわのみや)邸(のちの李王(りおう)邸、現・赤坂プリンスホテル)や伏見宮(ふしみのみや)邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。

明治七年(1874年)、赤坂喰違(くいちがい)付近で岩倉具視(いわくらともみ)が襲われ、同十一年(1878年)には清水谷前の道で、時の内務卿(ないむきょう)大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺されました。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。

明治四十四年(1911年)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和九年(1934年)、区画整理により北側の一部が麹町五丁目、麹町六丁目に編入されました。

江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町(ながたちょう)、外国使臣を迎える迎賓館(げいひんかん)などに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供しています。

 

 

2        ホテルニューオータニ

 

ホテルニューオータニは、江戸初期には熊本藩主・加藤清正の中屋敷でした。

加藤清正は豊臣秀吉子飼いの家臣でしたが、関ケ原の戦いでは、不仲であった石田三成の西軍に付かず、家康の東軍に協力し、九州の西軍勢力を次々と破りました。

そして、戦後の論功行賞で、小西行長の肥後南半を与えられ、52万石の大名となり江戸屋敷を拝領しました。

寛永9年(1632年)に加藤家が改易されると屋敷も没収されました。

その後、この地は近江国彦根藩2代藩主・井伊直孝に引き継がれます。

明治になると、宮家の伏見宮(ふしみのみや)邸となりましたが、戦後皇籍離脱により手放した1万8000坪の土地を、ホテルニューオータニの創業者・大谷米太郎(おおたに よねたろう)が1951年(昭和26年)に1億7000万円で買収しました。

当初、ホテル業に乗り出すことなど考えていませんでした。

しかし東京オリンピック開催が決まった1964後に当時のオリンピック担当大臣である川島正次郎からオリンピックの宿泊地不足解消のためぜひホテルを建てて欲しいと頼まれてホテル建設を決意し、1963年(昭和38年)に開業しました。

 

ホテルニューオータニ・メインビル。

最上階のレストランは、2018年3月までは床が回転する回転レストランでした。

この回転技術は、戦艦大和の主砲の回転技術を考案した技術者が設計したものです。

 

 

近江彦根藩井伊家屋敷跡

この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。

井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。

慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。 石高はほぼ35万石でした。

井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。 幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。

明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

 

 

日本庭園に立ち寄りました。

オータニ庭園の由来

四季折々の美しさを誇る四万平方米のこの庭園は、もと伏見宮邸でありましたが戦後外国人の手に渡ろうとしたのを、当ホテル創業者故大谷米太郎がこの由緒ある地を失う事を惜しみ、又、当時の行政府の要請もあり昭和二十一年、これを譲り受け荒れはてた庭を改修して名石、樹木を配し、今日のオータニ庭園としたものです。

この地は井伊掃部頭、更にさかのぼって、加藤清正公の江戸屋敷でありました。庭園に残る数々の石灯籠は、その当時の古い面影を偲ばせる貴重なものであります。又、庭園に点在する赤褐色の石は主に佐渡の赤玉石でありますが、その高雅な独特の色彩で庭石として珍重されています。これらの数多くの奇石、名石はその種類、規模に於いて他に例のないものです。

何卒、都心の中の花と緑のオータニ庭園をごゆっくりご鑑賞ください。  ホテルニューオータニ

佐渡の赤玉石です。

古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、佐渡赤玉石は縁起の良い石といわれ、佐渡では家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきました。

しかし、1981年以降では産出量はほとんど無くなってしまい、非常に貴重な石になっています。

 

3        大久保利通暗殺現場

1878年(明治11年)5月14日に明治新政府の内務卿・大久保利通が暗殺された現場はホテルニューオオタニの東側道路、紀尾井町通りの現在の参議院清水谷議員宿舎の前あたりです。

大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発し、明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中で斬奸状をたずさえた士族6名によって暗殺されました。

「紀尾井坂の変」という呼び名がありますが、実際に襲われたのは紀尾井坂ではなく、紀尾井町通りです。

赤いポストの位置が参議院清水谷議員宿舎の前あたりです。

暗殺現場近くにある清水谷公園です。

清水谷公園のあるこの辺りは、江戸時代の紀伊家、井伊家の屋敷境にあり、この境が谷であったことと、紀伊家屋敷内に霊水(清水)が湧き出ていたことから、清水谷と呼ばれていました。「清水谷公園」の名は、この地名から名付けられました。

清水谷公園は麹町区清水谷の景勝地に建てられていた大久保利通遭難記念敷地一帯が、同碑建設発起人から寄贈されたのを受け、東京市が、明治22年5月、都市計画決定し、明治23年3月に開園しました。

開園された当時は、自然の地形を残した背景と、藤、桜、松、楓などの四季折々の風情があり、花見の時期は賑わったようです。

現在の公園も緑豊かな木々があい、中央には、大久保公の追悼碑が配置され、この公園の歴史の尊さを感じさせるものになっています。

園内には、江戸時代の水道に使われていた玉川上水石桝が展示され、水にゆかりの深いところだったことを証明しています。

自然を色濃く残した清水谷公園は、周辺の業務・商業施設の安らぎの場として、また、緑豊かな都会のオアシスとして貴重なオープンスペースとなっています。

贈右大臣大久保公哀悼碑

明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三・金井之恭・奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一段面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。

大久保公記念碑の裏面碑文内容の説明

ここは、大久保利通公が命を落とされた場所です、大久保公は天下の重大事に身を投じ天皇陛下の信頼を得て重きをなした元勲です。突然の暗殺という悲運に会い命を落としました。昔から忠臣や烈士といわれる人々が犠牲の死に会うのは悲しいことですが、乱世や騒乱の常です。大久保公は明治維新の功績で名を挙げ、国がこれから栄え平和を迎える時に、この災いに会ったのです。大久保公の死は、都の人達は勿論のこと天皇陛下も深く悲しまれました。大久保公を知る人で、悲しまない人はありませんでした。大久保公の悲しい凶変から7年の年月が流れましたが、この地を通る人々は、今でも嘆き悲しみ頭を垂れて行きつ戻りつ立ち去ろうとしません。ここに、仕事で働く仲間達が皆で相談して、碑を建て大久保利通公への哀悼の意を示すことにしました。

千代田区指定文化財

明治11年(1878年)に暗殺された大久保利通をしのんで明治21年(1888年)5月に建立された碑です。

大久保利通(1830~1878)は薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の政治家で、明治維新後は版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿に就任しました。西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、1878年5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂仮皇居内の太政官へ出任する途中の馬車を襲い暗殺しました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。

湧水があったことから清水谷と呼ばれるこの周辺は、明治23年(1890年)に東京市によって整備され清水谷公園となりました。

 

清水谷

江戸時代、この地域には紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があり、その頭文字から紀尾井町と呼ばれています。清水谷の名は、井伊家と紀州徳川家の屋敷境の谷筋から清水が湧き出ていたことに由来します。

明治11年(1878年)清水谷付近で大久保利通が暗殺され、この地に「贈右大臣大久保公哀悼碑」(千代田区指定文化財)が建てられました。

清水谷公園は東京市によって整備され、明治23年(1890年)に開園。昭和40年(1965年)に千代田区に移管されています。

公園内には、大久保公哀悼碑の他に、江戸の水道施設である「玉川上水の石枡」(麹町3丁目2番地先出土)が展示されています。

千代田区

 

清水谷公園からはホテルニューオータニがよく見えます。

清水谷公園は北白川宮家の邸があった場所で、明治23年に東京市へ下賜され、同年東京市立清水谷公園となった。

昭和31年都立公園となり、昭和40年、千代田区に当公園が移管され、「千代田区立清水谷公園」となる。

移管後、公園内に先代秋元 薫氏が現建物である「偕香苑」を昭和59年に建設、以降茶室として利用され、広く日本文化の伝承と地域貢献に努めてきた。

平成18年3月に御子息である、秋元 裕氏から「偕香苑」をより多くの方々に利用されたいとのことから、千代田区に寄贈された。

千代田区として、秋元氏の意志を尊重し、「偕香苑」を茶道や生け花を始めとした各種の催し物に利用するなど、区民等の方々に愛される施設として活用するものである。

秋元氏への寄贈に対する御礼と、これまでのご功績とご貢献に対し、衷心より感謝を申し上げ、ここに顕彰するものである。

千代田区

 

これが、玉川上水石桝です。

 

ホテルニューオオタニの北側には紀尾井坂があります。

紀尾井坂

坂上の喰違(ういちがい)(江戸城防衛のために設けられた屈曲した道筋と土手)と、椎津谷を結ぶ坂道です。江戸時代、この坂の両側に、紀伊伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことから、一文字ずつ取って名づけられました。

また、坂下に清水谷があるため清水谷坂とも呼ばれていました。

1874年(明治7年)に発生した岩倉具視襲撃事件(喰違の変)の現場としても知られています。

 

4        尾張藩屋敷跡

 

上智大学四谷キャンパス敷地内にある紀尾井亭の西側一般道からの入口付近に碑があります。

尾張名古屋藩徳川家屋敷跡

この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。
尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。
明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。

5        四谷門

現存する四谷門の桝形石垣

江戸城には、内郭10、外郭26の城門があったとも言われ、赤坂見附など現在も地名に残る

「見附」には番人が置かれていました。外部の四谷門は、四谷口・外麹町口とも呼ばれ、甲州街道沿いで町人や物質が行き交う門として交通の要所でもありました。

四谷門桝形石垣は、1636(寛永13)年の御手伝普請で萩藩(現在の山口県)主の毛利秀就(もうりひでなり)によって作られました。

四谷門の構造は、冠木門(かぶきもん)(高麗門)と渡櫓門(わたりやぐらもん)からなる桝形門で、冠木門左手の石垣上には稲荷が祀られ、樹木も植えられていました。門の警備は

3年交代で旗本が担当していました。

四谷門桝形石垣は、明治期に市電の敷設に伴い撤去され、冠木門北面の一部を残すだけです。

しかし。1988(昭和63)年JR四ツ谷駅改修工事等に伴う発掘で、渡櫓門石垣下段の内5段が発見されました。石には毛利家を示す「雁金門(かりがねもん)」の刻印が確認されます。発掘された石垣の隅石部は、JR四ツ谷駅麹町口駅舎南側に保存されており、四谷見附の橋詰から覗くとその姿を見ることができます。

四谷門枡形石垣に用いられた石材

江戸城外堀は、堀や土塁を佐竹家や上杉家など東国大名が、石垣を毛利家、森家、蜂須賀家

など西国大名が御手伝普請で分担して築かれました。

この石材は、JR四ツ谷駅改修工事等で発掘された、四谷門石垣の角の部分を構成していた石です。

江戸城の石垣石は小田原から真鶴半島を経て、伊豆半島東海岸と西海岸の沼津周辺の石丁(切)場で算出された安山岩で、石船で江戸城へ運ばれてきました。

細川家では1636(寛永13)年の外堀普請で計13,452石が運び出されたと言われています。

 

四谷見附と周辺の地域

半蔵門がら四谷口に至る甲州街道沿いには、麹町13町が連なっていましたが、外堀が築かれる際に麹町十一町目から十三丁目は四谷門外(現新宿区側)に移転しました。

甲州街道は、四谷門を出て西へ麹町十一町目に入り、十二丁目の角を南に下りますが、この「大横丁」は江戸の西側で最も繁華な地域であったと言われています。

1873(明治6)年に、四谷門外土橋を通る玉川上水の掛樋修繕を行う時も、この土橋は東京の東西の大通りで、馬車・人力車の通行のみならず、麹町・四谷近辺の住民の苦情もあって通行止めにすることはできず、仮橋を架橋することになったほど、交通量の多い道でした。

1894(明治27)年に四ツ谷駅が設けられると、道路を行き交う市電とともに地域の重要な

交通結節点として発展を続けることになります。

ホテルニューオータニを堀の反対から見た記事もあります。

東京街歩き:石垣だけが昔の名残をとどめる赤坂御門跡 地下鉄から来るとこちらからホテルに入ります。

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