宇喜多秀家は慶長5年9月15日(1600年)の関ケ原の合戦で西軍の副大将として戦いますが、敗れて、伊吹山中に逃げ込みました。
その後、京の太秦に潜伏しますが見つかって逃走し、薩摩の島津に匿われます。
慶長8年(1603年)には、島津から家康のもとへ身柄を引き渡されましたが、死罪は免れ、駿河国久能山への幽閉の後、慶長11年(1606年)4月、八丈島へ配流となりました。
八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られましたが、その最初が秀家一行でした。
目次
1 宇喜多秀家のお墓
秀家の墓は、大賀郷にあり、流人のため名前を彫ることが許されず当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだだけの墓石でしたが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号(しごう:おくりなの事)し、その後、高さ6尺の五輪塔型の墓石に改められました。
墓地を囲む石垣の上には、旧領の「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石が設置されています。
大賀郷東里「宇喜多秀家の墓」の側道の道案内。
共同墓地の秀家の墓の入口にも案内があります。
写真の中にある大きな五輪塔型の墓石が秀家の墓で、その墓の左隣にひっそりと寄り添って立っているのが、当初の卒塔婆型の墓です。
東京都指定旧跡
宇喜多秀家墓
所在地 八丈町大賀郷2235-1指定 昭和35年2月13日
宇喜多秀家は、備前国の武将宇喜多直家の子で、羽柴(豊臣)秀吉に従い秀吉の天下統一、朝鮮出兵等に活躍します。秀吉の秀は秀吉の一字を与えられたものです。備中、備前、美作に約50万石を領し、備前宰相として秀吉の五大老に列せられます。また、秀吉の幼女となった前田利家の娘を正室として迎えたことから、前田家とも姻戚関係となりました。
関ケ原の戦いに敗れ、慶長11年(1606)に八丈島に流され、明暦元年(1655)に死去します。墓石には83歳と刻まれています。墓は約7m四方の玉石垣に囲まれた一族墓の中央に位置する五輪塔形の墓石で、天保12年(1841)に子孫が建てたものです。当初の墓石は傍らにある位牌形の墓で、現在地より西北方にあったものをこの地に移転したものです。
平成25年3月建設 東京都教育委員会
いわれは分かりませんが、墓参をした人たちの名前が刻まれています。
2 宇喜多秀家の住居跡
幹線道路沿いの案内板です。
お墓と同じく、
住居跡に向かう途中に宇喜多秀家が築いた岡山城の城石があります。
岡山城内堀の石
これは宇喜多秀家が築いた城石の一部である。
岡山城内堀の石垣は、城下町づくりに最初に着手した宇喜多秀家によって作られたものであることが近年判明した。
岡山城下ではこの石垣を一部縮小して遺跡として保存しており、その祭に出た石垣の一つをここ秀家住居跡地へ寄贈されたものである。
他には秀家生母「おふくの方」顕彰碑にも二個の城石が使われている。
平成三十年 四月 廿日(はつか)
宇喜多秀家顕彰会
八丈島 久福会
秀家が植えたと言われる蘇鉄です。
蘇鉄の花が咲くとその年に赦免があるといわれ、御赦免花と呼んだそうです。
宇喜多秀家縁の蘇鉄
これは秀家が着島時
てずから植えた蘇鉄である。
四百年以上を経た今も秀家の血脈はこの蘇鉄の如く枝分かれし、多くの子孫に受け継がれている。
慶長十一年(1606)着島
明礫元年(1655)病死
享年 八十三才
宇喜多秀家住居跡
ここは戦国武将・宇喜多秀家(1606年34歳で流人として八丈島へ。以後83歳没までこの島に在住)が住んでいた所であり、現在は池や水路、ソテツなどが残っている。
住居跡の石垣は長く延び、その上には椎の巨木があったが、
大風の危険などから、戦後切り倒され、石垣も半分ほど崩されたという。
この地から秀家の墓や付き添い医師の村田道珍斉屋敷跡に
通じる小道がついている。
この地より海(遠い故郷の岡山城方面)を眺め、望郷の念にかられていたであろう。
宇喜多秀家の和歌
「御菩提の 多子や植介ん 此寺に みのり乃秋曽 久しかる遍き」
「此寺」とは宗福寺のことで、創建は源為朝の子・為宗とされており、
秀家もここを菩提寺としていた。
この歌は、宗福寺と、菩提寺を同じくする為朝家・秀家家の子孫繁栄を願う歌となっている。
このあたりが、実際に住居のあった場所とのことです。
岡山から寄贈された久福松です。
金沢・大蓮寺の秀家・豪姫供養塔の傍らに咲く「金沢豪姫」椿(ツバキの品種改良に取り組む金沢市の千田清司さん(83)が作った品種)から採取した枝を育てた株が有志によって植樹されました。
豪姫は秀家の正室で、秀家が八丈島に流されたのちも白米、金子、衣類・雑貨・医薬品などの仕送りを続けました。
ハ丈島に「金沢豪姫」椿を植樹した経緯
加賀藩祖 前田利家とまつ(芳春院)の四女豪姫は、夫・宇喜多秀家とは幼い頃より互いに惹かれ合い結ばれた夫婦で、共に当時の天下人秀吉・ねね夫婦に育てられました。
しかし、秀吉亡き後、豪姫27歳、秀家29歳の時、関ケ原の合戦が起こり、豪姫の祈りも虚しく、秀家は敗将となりました。
そして、徳川政権下で息子達と共に久能山に幽閉された後、ハ丈島へ 流刑となりました。このとき、豪姫は養母 高台院ねね の仲介で、内藤ジュリアより洗礼を受けました。(豪姫 洗礼名はマリア)
豪姫は、夫と幼い息子二人に生きて再び会うことが 叶わぬまま、遥か遠い金沢の地で、祈りに明け祈りに暮れる日々を過こしました。
死の間際に「島の者のことを頼む」と言い残し、六十一歳の生涯を閉じました。
ここに有志が集い、金沢大蓮寺境内の秀家・豪姫供養塔の傍らに咲く「金沢豪姫」椿を、ハ丈島の秀家屋 敷跡に植樹し、豪姫の果たされなかった切なる思いを このツバキに託します。
石川県内有志一同
2021年5月23日(豪姫命日)
「金沢豪姫」椿
2009年(平成21年)3月6日
農林水産省品種登録番号第17706号
同年四月に、品種開発者の干田清司氏が、石川県金沢市内の大蓮寺と社会福祉法人陽風園に寄贈
島の北西にある南原千畳岩海岸には宇喜多秀家と豪姫の夫婦が並んだ石像があります。
岡山城開城五百年記念として八丈町が設置したものです。
石像は岡山市の方角を向いていると言われています。
秀家の八丈島流罪に豪姫は同行することを許されませんでしたが、引き離されたまま生涯を終えた夫婦を思い、石像は2人並んで鎮座しています。
夕日が美しい南原千畳岩海岸の海岸線にあり、後ろには八丈富士、前には八丈小島を望むロケーションです。
宇喜多秀家公と豪姫の碑
往時を忍びて幾星霜、天下分目の関ヶ原合戦西軍の将、豊臣家五大老の、備前美作(岡山県)五十七万石の領主宇喜多秀家公は敗れてのち、薩摩の島津家(鹿児島県)に身を寄せ、
同家に塁の及ぶことを憂慮し、駿洲久能山(静岡県)に蟄居、徳川幕府の命により死一等を減じられ、慶長十一年(1606年)四月 三十四才の若さにて長男秀高・次男秀継の他家臣十名と共に八丈島配流の身となるが、
最愛の妻豪姫(前田利家の娘)を伴うことは許されず、在島生活五十年赦免に浴することなく、明暦元年(1655年)十一月二十日八十四才の生涯を閉じる
秀家卿が没して三百四十二年、その秀家公が築いた岡山城が築城四百年を迎えるに当たり、ここに悲愁の将、秀家公と豪姫の碑を建立する
平成九年十二月吉日
3 書籍【宇喜多の楽土】
宇喜多秀家の生涯が分かる小説です。
父親の宇喜多直家があまりにも権謀術策を用いて戦国時代を生き抜いてきたので勘違いされやすいですが、
秀家自身は、戦国武将としては、稀な心優しいい平和主義者であり、民のための「楽土」を作ろうと願っていました。
関ヶ原の戦いは、西軍10万、東軍8万と習いましたが、最終的には西軍3万、東軍11万という圧倒的に有利な条件で、家康が弱者にとどめを刺す戦いでした。
結局、関ケ原は、本文にも書かれていたように、一人の総大将が束ねる兵と、4千、5千の将兵が集まって10万となった兵とでは阿吽の呼吸が必要な戦場では役に立たなかったということでした。
西が絶対的な総大将を立てられなかった時点で関ケ原の勝負はついていました。
これは毛利の責任が大きい。
結局、西側の武将は世渡りに不器用な諸将だった気がします。