伊豆・修善寺温泉は“修禅寺の寺”を中心に発展しました。
ちなみに、修善寺の中心にあるお寺の「修禅寺」の“ぜん”の漢字は“禅”の文字を使い、地元の人たちは「しゅうぜんじ」と読みます。
そして、温泉街の「修善寺」の“ぜん”の漢字は“善”を当て読みは「しゅぜんじ」と呼びます。
もともとは、山全体も含め、お寺の「修禅寺」だけでしたが、温泉街ができ区別のために「修善寺」が使われだしたとのことです。
しかし、更に遡ると、鎌倉時代初期には”修禅寺”の寺は“修善寺”でしたが、鎌倉時代中期に蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)が、蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ避難のために来住した際に、真言宗から曹洞宗に改宗し、その際 “修善寺”の「善」を「禅」に変更したとの説もあります。
目次
1 修禅寺
温泉街の中心にあるお寺です。
この街の全てはここから始まりました。
1.1 山門
修禅寺
修善寺温泉発祥の寺で、平安初期の大同2年(807年)弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから「桂谷山寺」と言われ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺であった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから「肖廬山」と号した。
南北朝時代の康安元年(1361年)に畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1401年)には火災を蒙り、伽藍を全焼して寺は荒廃し衰退した。
その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の隆渓繁紹禅師が住して曹洞宗に改宗され山号も「福地山」と改められ今日に至っている。
1.2 手水舎(てみずしゃ)
暖かい温泉のお湯がでています。
飲泉もできるとのことで飲んでみましたが、癖の無いお湯でした。
1.3 本殿
2 独鈷の湯
修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものと言われています。
修善寺を訪れた観光客が必ず訪れる場所です。
独鈷の湯 独鈷温泉 獨鈷之湯
大同2年(807年)に弘法大師がこの地を訪れた時、桂川で病み疲れた父の体を洗う少年を見つけ、その孝心に心を打たれ「川の水では冷たかろう」と、手にした独鈷杵(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を湧出させたと言う。
そして、大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の10数年の固疾はたちまち平癒したと伝えられ、この後この地方には温泉療法が広まったという。
いわゆる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものと言われている(2007年で開湯1200年)。
なお、現在は観光施設として管理されており、多くの方に見ていただくため、入浴はお断りしている。
この場所にある意味は無いと思いますが、伊東祐親(いとうすけちか)のパネルがありました。
所領は伊東温泉のある伊豆の東側にありましたが、頼朝の旗揚げに際して平家方の討伐組で、頼朝軍と戦い、頼朝が坂東を制圧後自害しました。
独鈷の湯に下る坂の上には巨大な独鈷杵(とっこしょ)のオブジェがあります。
3 河原湯(足湯)
独鈷の湯近くにある観光用の足湯です。
河原湯(足湯)
修善寺温泉にはその昔、 河原沿いに7つの外湯があり、 当時外湯として親しまれていた河原湯は、この足湯の少し上流に佇んでいました。 このため、 平成22年4月3日に開湯したこの足湯が外湯時代と同様に、皆様に楽しんでいただけることを願い、 河原湯と命名しました。
足湯として開湯した河原湯を、 皆様お気軽にご利用ください。
4 独鈷(とっこ)の湯公園
桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の『独鈷の湯(とっこのゆ)』の対岸側にある公園です。
その昔、桂川の河原で病気の父の背中を流していた少年を不憫に思った弘法大師(空海)が、持っていた仏具(独鈷杵とっこしょ)で川の岩を打ち霊泉を湧き出させたという伝説の『独鈷の湯』にちなんで作られた公園で、石造の独鈷杵のオブジェや、湯掛け稚児大師像があります。
独鈷杵
古代インドの武器の一種で後世の密教法具として僧侶の修行に用いられ仏像とともに日本へ伝来した。
この独鈷杵は昭和三十六年修禅寺裏山から発掘されたものを原形拡大したもので実物は金銅で作られ長さ二十四糎、平安中期のものと言われ、工芸美術的にも優れた作品であり、修禅寺に秘蔵されている。
独鈷の湯は弘法大師がこの地をご巡錫のとき、桂川で病夫洗う少年を見てその孝心に打たれ「流れ水では冷たかろう今温かくしてつかわそう」と言って、手にもっていた独鈷杵で川の岩を打ち砕くと霊湯がこんこんと湧き出したので、父子は大いに喜んで入湯すると不思議に十数年の痼症が平癒したと伝えられている。
独鈷の湯は修禅寺温泉発祥の地であり、昭和五十ニ年この地に独鈷の湯公園を開園するにあたり独鈷杵をこの公園のシンボルとして建立したものである。
湯掛け稚児大師
前の川の中に在る独鈷の湯は、その昔、孝行者の息子が年老いた父親の背中を川の水で流してやっているのをご覧になった弘法大師が、水では冷たかろうと、持っていた独鈷で岩を掘ったところ湧き出したものと伝えられています。この故事にあやかって、当町旅館組合が、皆さんの健康を願って、ここに稚児大師の像を建立しました。
お子さまの健全を願う方、ご自身の健康を願う方、もしくは、現在疾患をお持ちの方等、願いを込めてお湯を灌(そそ)いであげてください。
比企能員は、『愚管抄』によると阿波国の出身で、頼朝の乳母であった比企尼(伯母)の縁から鎌倉幕府二代将軍・源頼家の乳母父となり、鎌倉幕府の中で大きな地位を得ます。
能員の娘若狭局は頼家の妻であり,長子一幡を生んでいました。
頼家が病気に倒れると一幡を次期将軍に押す比企と、頼家の弟・千幡を押す北条との政争に敗れ、一族は滅亡します。
パネルは大河で比企能員役の佐藤二郎さんに似ていますね。
5 筥湯
修善寺市内にある、外湯です。
独鈷の湯は入れませんが、ここは日帰り入浴が可能です。
筥湯の由来
伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて川原沿いに九つの外湯がありそれぞれ浴客で賑わっておりました。
しかし昭和二十年代には「獨鈷の湯」だけが残って往時を偲ばせるのみとなってしまい、再び外湯巡りを楽しんでいただくため、平成十二年二月に再建したのが筥湯です。
鎌倉幕府の公的な史書である「吾妻鏡」などによりますと、元久元年七月十八日のこと、修禅寺へ幽閉中の源氏二代将軍頼家は北条氏の刺客に襲われますが、記述内容から入浴中であったとの定説になっておりますかつてこの付近にあった旧「筥湯」跡を旅館新築の基礎工事のため掘ったところ、古い湯殿跡が発見され頼家入浴の温泉ではないかといわれております。
筥湯の語源はわかっておりませんが、筥とは竹などで編んだ丸い米盛り器のことで「箱湯」との記載例もあります。
また修禅寺宝物館所蔵の江戸時代の古絵図によりますと、虎渓橋のたもとに「中の湯」があり「此處頼家公御入浴之地也」と書かれてあるところから、筥湯の旧名であり先に発掘された湯殿である可能性もあります。
筥湯
かつて修善寺川沿いにあった七つの外湯のひとつで、元久元年(1204年)7月18日に当地に幽閉されていた鎌倉幕府二代将軍源頼家が、入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉であったと伝えられている。
昭和初期まで続いていた外湯巡りを復活させるため、平成12年2月12日にこの地に再建された。
併設する高さ12メートルの「仰空楼」は、かつて修善寺を愛した文豪「夏目漱石」の漢詩にちなんで名付けられた。
2010年 文豪夏目漱石
修善寺温泉・菊屋旅館滞在100年
-菊屋旅館本館跡・百日紅の樹など-
作家夏目漱石(慶応3~大正5)は、病後の静養のために、明治43年8月6日から松根東洋城(俳人、漱石門下生)の案内で修善寺温泉「菊屋旅館」に滞在した。
初日は別荘に、翌日からはこの地にあった本館に滞在した。
当初は読書のほか、近隣の地の散策などもしていた。ところが暫くすると胃病が兆して、殊に 日晩には大吐血をおこすなど、一時は病状が悪化した。
このため、医師たちは厚い医療をつづけた。
この間はまた、身内の外、多くの友人、門下生らが見舞った。
その後、病状は徐々に快方に向かっていった。帰京も近い日の句に、「帰るは嬉し梧桐の未だ青きうち」がある。
こうして10月11日、医師、鏡子夫人らに見守られ、この地を後にした。
本館跡地の百日紅(「さるすべり」とも)は、晩夏から秋にかけては、美しい桃色の花をつける。
この頃の句に「先づ黄なる百日紅に小雨かな」がある。
なお、現在の菊屋旅館の裏通りは本館にも通じ、かつては漱石や友人、門下生らが往き来した往還でもあった。
現在の菊屋の写真です。
桂川の北に玄関はありますが、宿泊施設はここから川を渡って南にあります。
6 温泉配湯所
源範頼のお墓から桂川へ向かう通称“風の道”の途中には温泉管理施設がありました。
かつて、温泉の乱掘りをした結果、温泉資源が枯渇したため、地域で集中管理を始めたことと、復活した現在の状況が書いてあります。
修善寺温泉について
修善寺温泉は桂川で病の父の体を洗う子供の姿を見た弘法大師が、 独鈷杵(とっこしょ)という仏具で岩を穿ったところお湯が湧き出したと伝えられる 『独鈷の湯』 を中心に発展してきました。
戦後の復興期から高度成長期には宿泊客の増加に伴って温泉の需要が増加した為、温泉井戸の増掘や揚湯ポンプの馬力増を行った結果、昭和25年には海抜85メートルあった温泉水位が昭和40年ごろには海抜0メートル付近まで下がり、塩分が混じるようになりました。
昭和50年には温度も65℃から54℃に下がり、 温泉の主要成分の含有量が低下し、温泉としての質の低下現象がみられるようになりました。
この現象を深刻に受け止めた組合は無秩序だった温泉の管理を一元化することで温泉の枯渇を防ぎ、温泉資源の保護と適正な利用のため、『集中管理』を始めました。
昭和56年に始まった集中管理は36年を経過し現在に至っております。
ここには貯湯槽が2基、その奥に配湯ポンプ等の設備があり「第1配湯所」と呼んでいます。
現在この貯湯槽には7本の源泉から温泉が集められ、 桂川の南側 (上流から見て右側)の温泉街に温泉を供給しながら、下流約1.5キロメートルにある 「第2配湯所」に送られます。
第2配湯所からは桂川の北側の温泉街に温泉を供給しながら第1配湯所に戻ってきます。 これを「キャッチボール方式」と呼び温泉を無駄なく供給出来ます。
このほか中里地区、および小山地区にも温泉を供給しております。
私たち組合は温泉資源の保護と管理により温泉を安定供給し、 再びこの地で自然湧出することを夢見て温泉の集中管理をしております。
修善寺温泉事業協同
集中管理前 (1981年頃) 現在 温泉海抜水位 32メートル 85メートル 平均泉温 54℃ 61℃ 使用源泉数 27本 7本 温泉利用量 2000リットル/分 700リットル/分
修善寺温泉のお湯はクセの無いお湯です。
長期間逗留するには皮膚に負担がかからない良いお湯だと思います。
湯上り後は肌がツルツルとした感じでした。
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