史跡

「どうする家康」家康のルーツ岡崎で関連史跡探訪

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2023年大河「どうする家康」先取りで愛知県岡崎市に行って来ました。

駿河の今川と尾張の織田、また信濃の武田と戦国時代を代表する大大名に囲まれた三河の岡崎は、徳川家康生誕の地で、信長、秀吉に仕えながらひたすら時を窺い最後には徳川幕府で日本の覇者となります。

「鎌倉殿の13人」の最終回(2022/12/18放送)では、既に家康役の松本潤が吾妻鏡の熱心な読者として登場しましたね。

1        岡崎城

2022/10時点では、改装工事のため、2023年(令和5年)1月までは博物館も城も見学できませんでした。

「大河ドラマ館」がオープンしたらまた寄りたいと思います。

夜はライトアップされていました。

2        殿橋

岡崎城公園の横を流れる乙川に架かる橋です。

御影石製親柱が特色で、岡崎を代表する美しい橋です。

土木学会の「近代土木遺産」にも認定されています。

3        菅生神社

松平家・徳川家康公ゆかりの神社で家康公が25歳の時、厄除開運祈願をされ、社殿・寄進田など厚く崇敬されていました。

菅生神社由緒

岡崎市康生町 菅生川畔鎮座

御祭神 御神

天照皇大御神 (惣社神明宮)

豊受姫命     (菅生稲荷社)

建速須佐之男命 (菅生天王宮)

合殿御祭神   徳川家康公

菅原道真公

御創建

人皇十二代景行天皇の御代(西暦110年)日本武尊東国平定の為当地御通過の砌(みぎり)、高岩にて矢を作り給い一矢を小川に吹き流し給う。

其の後矢を御霊代と仰ぎ伊勢大神を鎮祭し吹矢大明神と称するに葆り(しげり?)岡崎最古の神社なり。

其の後神亀二年(西暦725年)稲荷大明神を勧請し同殿に合祀する。

永正十四年(西暦1517年)七月洪水の節、額田郡宮崎郷より天王宮御流着あり。

直に当神社に合祀の上菅生天王宮と称す。

明治元年(西暦1868年) 菅生神社と改称する。

御祭神を欽仰すれば吹矢大明神を尊崇するに武門の神と仰ぎ、松平初代親氏公の祈願を初め松平一族の崇敬篤く、社殿の造営修復等行われた。

松平清康公大永三年(西暦1523年) 御参ありて御神託を受けて岡崎城内に菅生稲荷大明神の御分霊を移し祀り開運稲荷大明神と号す。

永禄九年(西暦1566年) 大神君家康公二十五才厄除開運の御祈願・社殿造営せられる等、崇敬篤く古来当神社は岡崎城内鎮守の守護神として、御代々の岡崎城主の祈願所となる。

合殿 「東照宮」(徳川家康公)

第一一〇代後光明天皇正保二年(西暦1645年)十二月十七日岡崎城主

水野 大監物忠善により徳川家康公を祀る。

合殿 「菅生天神社」(菅原道真公)

第九十一代伏見天皇正応二年(西暦1289年)河内国丹南郡菅生より、満性寺の開基了専上人により岡崎に菅生天神を祀る。

 

平成二十八年十二月吉日 菅生神社

 

天下に泰平の桜を咲かせた家康公

ヤマトタケルの 徳を仰ぎ志を育んだ松平一族

 

菅生神社は武門の神と尊ばれ、松平初代親氏公を初め一族の崇敬篤い岡崎城主代々の祈願所でした。

永禄九年二月十二日、家康公二十五歳の厄年に当神社にて厄除開運の御祈願をなされ、同年十二月に松平から徳川姓を改められました。

「立志改名」なされた德川家康公は後の慶長八年二月十二日に江戸府を開府され、泰平の時

代を築かれました。

 

岡崎市指定文化財  菅生神社

 

建造物  明神型石鳥居 一基

寛永十五年(一六三八) 岡崎城主本多伊勢守忠利が菅生神社本殿を修復した際に寄進したもので、以後歴代岡崎城主の崇敬厚く幕末にいたる。

明治三十四年(一九〇一) 社地の遷座にともない、石鳥居も移転された。

総高二七一・〇㎝、柱間一八一・五㎝、柱径ニニ・五㎝で、材質は花崗岩(青石)である。

笠木は一本通し、柱には左右それぞれに刻銘を入れる。

台石は自然石の周りを残し、上部を四角に造り出している。

なお、柱表面の一部が剥離しているが、銘文は明確に読むことができる。

(左柱)「奉造立牛頭天王石之鳥居/寛永十五戊寅年仲冬吉日良辰仰翼」

(右柱)「武明長興此柱礎斉堅固矣/従五位下本多伊勢守藤原忠利敬白」

平成二年三月二十二日指定

岡崎市教育委員会

 

4        大樹寺(だいじゅじ)

徳川将軍家の菩提寺です。

桶狭間の戦いで敗れた家康公が逃げ帰り、自害を試みた際に、第13代住職の登誉(とよ)上人から「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんくじょうど)「穢れたこの世を浄土にする」との教えを受け、思いとどまったということで、寺にはその逸話に基付く絵画や書物がありました。

家康が大樹寺に逃げ込んだ時、野武士の一隊が寺を取り囲んだそうですが、寺僧の一人で、祖洞和尚(そどうおしょう)が門の貫木(かんぬき)を持って戦い、敵を蹴散らしたということです。

その貫木も、展示されています。

また、位牌堂には、15代の慶喜を除く将軍の等身大の位牌が安置されています。

 

さすがに立派な山門です。

山門の前の通りも石畳になっていました。

 

山門から岡崎城を望む直線はビスタラインと呼ばれています。

 

山門の前から岡崎城を望む。

山門から岡崎城を望む。

参道から岡崎城を望む

大樹寺の土塀

校門横の白壁の塀は大樹寺の塔頭(境内にある小寺)であった善揚院と開花院のものでした。かつては、南の総門まで続き「旗かけの松」をはじめ、大小の松が生いしげっていました。 (昭和五十二年修復)

 

岡崎城を望む

三門から総門を通して一直線上に岡崎城(三層三階地下一階)の天守閣が見えます。

徳川氏と大樹寺の関係の深さがうかがえます。

 

今に伝わる歴史的眺望

眺望ライン(ビスタライン)

ビスタラインの「ビスタ」は 「眺望・展望」 を意味し、 大樹寺と岡崎城を結ぶ、 標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」 と呼んでいます。

これは徳川三代将軍家光公が、 家康公の十七回忌を機に、 「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、 徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、 総門 (現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。

時は移り、岡崎城も再建されましたが、 大樹寺と岡崎城を史的眺望は往時のままで、 門越しに望む岡崎城は、まるで額の中の絵のようです。

岡崎市

 

多宝塔です。

家康の時代には既に建っていましたので、現在見ている塔を家康も見ていたものと思われます。

国指定重要文化財      大樹寺

建造物  大樹寺多宝塔(付棟札) 一棟

多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。

大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。

松平七代清康により天文四年(一五三五)に建立された。

下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の塔身を立て、四手先で軒をささえる。

屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。

塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。

この多宝塔は上下層の釣り合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。

明治三十七年二月十八日指定

岡崎市教育委員会

 

手水舎です。

ここからは拝観料を払って宝物館と位牌堂を見学しますが、撮影禁止のため写真がありません。

岡崎観光文化百選

大樹寺

岡崎観光

松平家 (徳川将軍家の祖)、 徳川将軍家の菩提寺で、 1475年、 松平四代親忠が、勢誉愚底上人を開山として建立したものです。

松平八代の墓、 歴代将軍の位牌、 家康 73歳の時の木像などが祭られ、 多宝塔(松平七代清康建立)は国の重要文化財に指定されています。

また、三門、総門を通して、南方3kmに岡崎城を望むことができます。

 

 

家康像です。

平成27年に、徳川家康公顕彰400年記念事業として建立されたもので見るからに新しいです。

鐘撞堂

 

5        伊賀八幡宮

文明2年(1470年)、松平親忠が、松平氏の氏神として社(やしろ)を伊賀国より現在の地に移したのがが伊賀八幡宮の始まりとされています。

正面の参道は川の橋を渡って境内に進みます。

蓮池の向こうに大きくて見事な山門が見えます。

手前の石の太鼓橋は通行止めです。

德川家代々祈願所伊賀八幡宮略記

鎮座 岡崎市 伊賀町字東鄉中八六番地

祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現

由緒

当伊賀八幡宮は文明二年(一四七〇年)松平四代親忠公が伊賀国(三重県)から下井田の地に移しまつったのがはじまりである。

その後、下井田を伊賀というようになった。

それから、松平家(徳川家の祖)徳川家代々の祈願所となったのである。

八代広忠公は、天文四年十二月織田信秀が岡崎城を攻めとろうとしたとき、八幡宮に祈願

して井田ヶ原に迎えうった。

そのとき先頭に馬に乗った武者が現われ敵陣めがけて白羽の矢を放った。

すると八幡宮の森の上から黒雲がわき、あらしをよんで、白羽の神矢が雨のように敵陣にとんだ。

たちまち、三万余の敵は敗退した。

広忠公は、みずからその神矢を拾って、八幡宮に奉納した。家康公も、尊敬の念きわめて厚く、出陣にはかならず祈願した。

関ヶ原の戦や大阪の陣には神殿が鳴動し、鳥居が移動したりするなどふしぎなことが起った。

また、桶狭間の戦に利なく軍を引かそうとしたとき矢作川に八幡宮の神使の鹿が現われて、家康公は無事に大樹寺にはいることができた。

こうして、八幡宮は松平家徳川家の守護神として、尊敬をあつめていたのである。

社殿の造営はたびたび行なわれ広忠公の天文年間家康公の永禄年間、家光公の寛永年間の造築がそのおもなものである。

現在の社殿の大部分は寛永十三年の造営である。

昭和八年になって、本殿、幣殿、拝殿、透塀、御供所、随神門、石橋、石鳥居、ならびに棟札などが国宝に指定された(現在も国の重要文化財)。

社殿は、江戸初期の建築の代表で、江戸時代の神社配置形式をよく残しているのである。

伊賀八幡宮

山門を潜ると、お参りする拝殿があります。

さざれ石はここにもありました。

同じ日に岡崎公園近くの味噌屋さんの見学に行って来ました。

そのレポートは下記です。

岡崎のカクキュー八丁味噌(八丁味噌の里)行ってきました

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