史跡

秋の京王百草園を散策

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京王百草園は、京王線百草園駅から急な上り坂を歩いて約10分の多摩丘陵の中にあります。

場所は日野市百草にあり、その地名を取って百草園になったようです。

もともとは、平安時代末から鎌倉時代にかけて真慈悲寺という大寺院があったのが始まりです。百草園は、1887年寺の跡地に百草出身の生糸商人青木角蔵が開園したのが現在に至っています。

春は、梅の名所として有名です。

今回は秋の紅葉を眺めに向かいました。

入口はどこかの庵風です。

ここから階段が続きます。

百草園の歴史

百草園は鎌倉街道上道、多摩川の渡し、武蔵国府等を一望す要衝の地にあります。

この地を含めた百草一帯には、平安時代末から鎌倉時代にかけて真慈悲寺という大寺院があったと推定されています。

江戸時代になると、この地に松連寺が建立されましたが明治時代になって廃寺となり同二十年(一八八七年)、百草出身の生糸商人青木角蔵により百草園が開園されました。

昭和三十二年(一九五七年)に京王電鉄株式会社の所有となり、現在に至っています。

京王 百草園

 

入口の階段を登って、10m位で分かれ道があります。

松連庵(園内の中心建造物)までの近道はそのまま一直線に進むことです。

ゆっくりと緩やかなスロープで行きたい場合は、右か左の道を取ります。

園内の茶店です。

日野市指定名勝・史跡

百 草 園(松連寺跡)

百草園のある百草地区一帯には、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、鎌倉幕府の御願寺であった真慈悲寺があったと推定されている。

その後この地には松連寺という寺院が建立された。この寺は江戸時代中期に、小田原藩主大久保加賀守忠増の夫人であった寿昌院慈岳元長尼が再興したことで知られている。

江戸近郊の名所として『江戸名所図会』などに紹介され、大田南畝ら多くの文人墨客が訪れたが、明治になって廃寺となった。

明治二十年(一八八七年)に百草出身の貿易商青木角蔵が、庭園百草園として一般に公開し、北村透谷や若山牧水ら多くの著名人が訪れた。

現在は京王電鉄株式会社の所有となり、梅の名所として広く知られている。

日野市教育委員会

 

寿昌梅(じゅしょう ばい)の由来

ひときわ目を引く梅の古木は徳川家康長男岡崎三郎信康悼のため寿昌院(寿昌院慈岳元長尼)が植樹したと伝わる。 寿昌院は小田原藩主、江戸幕府老中の大久保忠増の夫人で、享保二年(一七一七年)に黄檗宗の高僧慧極道明を開山僧とし、この地慈岳山松連寺を開基した。

大久保氏は徳川家康の三河時代からの忠臣であったが、初代の大久保忠世が預かる遠江国二俣城で、天正七年(一五七九年)に岡崎三郎信康が謀反の疑いをかけられて自刃するという大きな事件がおきる。

この事件以降、百四十年間にわたり大久保家では信康とその母築山御前の追悼のための寺院を各地に度々建立しており、慈岳山松連寺の創建理由や寿昌梅植樹伝説などの根拠にもなっている。

寿昌院は寛保元年(一七四一年) 六十五歳で亡くなった。

その墓塔は、百草園に近接する七生丘陵散策路の傍らにある慈岳山松連寺関連墓地にひっそりと佇んでいる。

令和四年三月    日野市教育委員会

 

 

寿昌梅 (じゅしょうばい)

若山牧水の碑です。

山の雨しばしば軒の椎の樹にふり来てながき夜の灯かな

 

摘みてはすて摘みてはすて野のはなの我等があとにとほく続きぬ

 

拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり

百草園と若山牧水

旅に生きた憂愁の歌人として有名な若山牧水は、まだ学生であった明治四十年前後に、百草園の自然を愛して、しばしば訪れていました。

四十一年春には、小枝子という美しい名の恋人を連れて泊まり、熱烈な恋の歌をよんでいます。

しかし、この恋は悲恋に終わり、一年後にふたたび百草園を訪れた牧水はひとり静かに思いにふけり歌集「独り歌へる」を作りました。

そして、この時期に歌人として立つことを決意したのです。

この牧水と百草園との深いゆかりを伝えるために昭和四十六年秋に建設された歌碑は、牧水の長男若山旅人氏が設計しています。

若山牧水歌碑

 

見晴らし台から、都心を望みます。

小さいですが、遠くに東京スカイツリーも見えます。

芭蕉の碑です。

 

「しばらくは 花の上なる 月夜かな」 芭蕉

 

この芭蕉碑は明治二十年四月の百草園開園に向けて、三堀武蔵が建てたものです。

明治の初めに廃寺となり、荒れ果てていた慈岳山松連寺の跡地を地元出身の生糸商青木角蔵が買い取り、公園として整備したのが百草園の始まりです。

角蔵の横浜での仕事仲間でもあり、蕉風の俳人でもあった三堀(俳号月華)は、もともとこの地にあった「月見塚」という芭蕉碑が無くなっていたことを憂いて新たにこの碑を建立し、「華見塚」と称してかつての様子を復元するとともに、裏面に百草園開園の次第を記して、青木角蔵の功績を讃えました。

園内にあるもう一つの芭蕉碑の裏面には「月華」の俳号で詠んだ三堀の句も刻まれています。

 

子育地蔵尊です。

いわれは、お地蔵さんの頭の後ろの板に書いてあったようです。

 

百草園の野鳥

虫たち

動物たちです。

 

日野市指定有形文化財(考古資料)

真慈悲寺推定地出土の中世瓦〔四十二点〕

平成二十三年八月十七日指定

平成元年に京王百草園内で行われた発掘調査で、一三世紀中頃と同後半に製作されたと考えられる、約五〇〇〇点にのぼる大量の中世瓦が出土した。

特に一三世紀後半には、総瓦葺きの建物が存在したことが推測され、その軒先に飾られた「蓮華唐草文軒平瓦」は、東京都内で他に類例のない特徴的なものである

なお、京王百草園に隣接する百草八幡神社所蔵の阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)の背中に刻まれた銘文から、建長二年(一二五〇)に武蔵国多西郡吉富郷(百草・落川及び多摩市を中心とした地域)に「真慈悲寺」という寺院があったことが知られる。

また鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』の文治二年(一一八六)の記述には「武蔵国真慈悲寺は御祈祷の霊場なり」とあり、重要な寺院と認識されていたことがうかがえる。

これら瓦の出土によって、真慈悲寺の存在とその所在地が、京王百草園一帯に推定されることなり、貴重な資料といよう。

日野市教育委員会

 

 

遊歩道です。

茅葺のあずまやです。

多摩の自然を心行くまで楽しみました。

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