長篠の戦いは、織田、徳川連合軍が、武田の騎馬軍団と闘い勝利した有名な戦です。
この戦いで、鉄砲が初めて戦闘の中で使われ、勇猛果敢に鉄砲隊に挑んできた武田勢は手痛い敗北を喫し、武田滅亡に繋がります。
この戦いにおいて信長が本陣を置いた場所が、新東名・長篠設楽SAにありますので、通りすがりに立ち寄ってみました。
サービスエリアの全景です。
天正3年(1575年) 旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。
21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、 三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、 一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね遂には撤退を余儀なくされました。
武田軍は1万2千を失い撤退する中で、 追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激しい戦いでありました。
観光用に馬防柵(ばぼうさく)の展示がありました。
馬防柵
1575年長篠設楽原の戦いで武田騎馬軍団の進撃を阻止する馬防ぎの柵で、 織田・徳川連合軍は陣地の前にこの柵をめぐらし、 鉄砲隊を並べて待ち構えました。
馬防柵に押し止められた上に、 3千挺の火縄銃が絶え間なく火を噴き 武田騎馬軍の惨敗で終わりました。
近代兵器鉄砲が、 伝統的な刀と馬の戦法に取って代わった決定的な瞬間でした。
本陣までは、階段を登ります。
碑がありました。
織田信長戰地本陣跡
天正3年(1575) 長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議をひらき、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
そして、自らは、この茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。
このすぐ北側には、側近、羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。
ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
昭和57年3月30日
新城市教育委員会
長篠・設楽原の戦いに関することは、
設楽原歴史資料館 (0536-22-0673) までお尋ね下さい。
本陣跡にある稲荷神社です。
信長さんもいますよ。
でも、こんな屋根もない土の上で良いのでしょうか。
古戦場のパノラマです。
左手側に武田軍の本体がいました。