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愛知県蒲郡市の「竹島」と「海辺の文学記念館」

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愛知県蒲郡市の「竹島」周辺とその海岸線は、美しい海の眺めが楽しめます。

また、竹島を眼下に望む高台に佇む、1934年開業の歴史ある「蒲郡クラシックホテル」は、アールデコ調の美しい城郭風建築で、国の登録有形文化財にも指定されており、格式高い雰囲気を醸し出しています。

1       藤原俊成卿像

この地区を開発したといわれる平安時代の国司です。

藤原俊成卿像

この像は、平安時代に三河の国司として蒲郡の竹谷・蒲形地区を開発したといわれる藤原俊成卿の像である。

俊成が国司をつとめたのは、久安元年(一一四五)十二月から久安五年(一四九)四月まで、俊成が三十二歳から三十六歳までの間、藤原顕広と名のっていたころである。

俊成は、三河湾に面して温暖な景勝地の当地を好み、当時クスの木などが群生していた荒地の開発等をおしすすめて蒲郡の磯を築いたといわれている。

俊成が開発成就を願って琵琶湖竹生島から勧請したという俊成ゆかりの竹島は、現在のシンボルとなっている。

俊成は、歌人としてもすぐれ、千載和歌集の撰者として知られており、鎌倉時代の代表的歌人、藤原定家の実父で、平安時代末期から鎌倉時代初期における業績は現在でも高く評価されている。

この銅像建立は、蒲郡開発の祖ともいえる俊成を通じて、広く一般に郷土歴史の理解を深め、文化の高揚をはからうとするものである。

この像は、日本彫刻の重文化点章受章者・日本芸術会員の富永直樹先生の制作である。

この「藤原俊成像」が、永く市民に親しまれて、ふるさとの歴史・文化発展の成因となることを願うものである。

平成三年四月二十八日

 

2       竹島

「竹島」は、三河湾に浮かぶ周囲約680メートルの小さな島です。

国の天然記念物に指定されており、対岸とは長さ387メートルの竹島橋で結ばれています。

最大の特徴は、独自の植物相です。対岸とはわずかしか離れていないにもかかわらず、島全体が温帯性の常緑広葉樹林に覆われ、独特の生態系を保っています。

島の中央には、日本七弁財天の一つである「八百富(やおとみ)神社」が鎮座しています。開運や縁結び、安産の神様として古くから信仰を集めており、島全体がパワースポットとしても人気です。

竹島(天然記念物)

竹島は昔から神聖な場所とされているため、何世紀もの間、 新しい樹木や他の植物が持ち込まれることがなく、 本来の植生が保たれています。

島全体が常緑の暖帯林に覆われており、本土の松林や橋の向こうの丹念に手入れされた芝生とは対照的です。

230種を超える竹島の植物の中で特筆すべき種は、高さ30メートルに達し、 森の他の部分より高くそびえ立つ広葉樹のタブノキ (Machilusthunbergii) や、濃い緑色の葉に香りがあり、光沢があり、3本の特徴的な葉脈があるヤブニッケイ (Cinnamomum yabunikkei) などです。

数種類のシダ、 つる植物、 低木が密生した下草を構成しています。 木々の下には、 キノクニスゲ (Carex matsumurae) という、 とがった種子の頭を持つ草のような植物も生息しています。

キノクニスゲは亜熱帯地域に多く、日本の太平洋岸では竹島以北に生育していません。

 

八百富神社 (やおとみじんじゃ)

八百富神社は、 蒲郡市の沖合に浮かぶ竹島に鎮座する神社です。 全長387メートルの歩道橋が本土と竹島を結んでおり、緑豊かな植生の中に本殿などいくつかの神社が建っています。

八百富神社の歴史は12世紀まで遡りますが、島はそれよりも遥か昔から神聖視されていたと考えられています。

神社と島は境内を横切り、 海沿いの岩場に沿って橋まで戻る散策路で探索できます。

 

3       海辺の文学記念館

かつての旅館「常磐館」の跡地にあります。

海辺の文学記念館 (うみべのぶんがくきねんかん)

海辺の文学記念館では、 蒲郡が20世紀初頭に著名な作家たちの保養地として人気を集めるようになった経緯が展示されています。 1912年に現在記念館がある海辺に開業した旅館「常磐館」 と、その創業者で蒲郡を観光地として発展させるのに重要な役割を果たした名古屋の実業家、 滝信四郎 (1868-1938) を中心に物語が展開します。 館内には常磐館と蒲郡ホテル (現・蒲郡クラシックホテル)にまつわる遺品や資料、 常磐館の客室の再現、 ノーベル賞作家の川端康成 (1899-1972) 谷崎潤一郎 (1886-1965) 志賀直哉 (1883-1971) など、常磐館に滞在した作家たちの生涯や作品を紹介するパネルなどが展示されています。

海辺の文学記念館について

蒲郡市は、「海の眺めは蒲郡」 と鉄道唱歌に歌われた景勝地で、とくに本市のシンボル「竹島」とその周辺の海岸風景は絶賛され、 東海地方屈指の保養地として多くの人々に親しまれてきました。とりわけ、 明治末期に、 名古屋の実業家 滝信四郎氏により竹島の対岸に建てられた料亭 「常磐館」 からの眺めは格別なもので、 大正 昭和期にわたり多くの文人たちに愛されてきました。

大正 11 年、菊池寛の作品 「火華」 にはじめて 『常磐館』 が取りあげられた後、 志賀直哉、 谷崎潤一郎、 山本有三、 川端康成、 井上靖など多くの文人たちにより、 常磐館そして蒲郡の海や竹島の素朴な美しさが作品の中に描写されました。 以来、 「蒲郡の常磐館」は、 全国にその名をとどろかせました。

しかしながら、名声を高めた 「常磐館」 は、建物の老朽化とともに世相の移り変わりに対応できなくなり、 惜しまれつつも廃業となって、 昭和57年に取り壊しとなりました。

常磐館がなくなって久しく年月を経ましたが、 市民そして常磐館を愛した人々の心の中には、今も「常磐館への郷愁」 は抱き続けられています。 また、 多くの文人たちがした作品中に、 常磐館は今も存在しています。

そうした「常磐館への強い想い」、 いわゆる 「常磐館文化」 を、 後世にいつまでも継承していくために、 この 『海辺の文学記念館』 は建設されました。 当館は、常磐館にまつわる文化的・歴史的価値を少しでもよみがえらせ、 本市の文化振興の拠点となるよう、常磐館がかつて建てられていた同じ地に建てられています。 当館の建物は、常磐館が建てられたとほぼ同じ頃 (明治末期)に建設された、 市内中央本町にあった岡本医院の建物を模倣復元したものです。 同建物は、平成7年に取り壊されるまで、常磐館と同様に、大正・昭和期の蒲郡に馴染んできた歴史的建造物です。

『海辺の文学記念館』 は、 大正・昭和期において常磐館を愛した多くの文人たちの面影を、三河湾の潮香漂うこの竹島海岸で、 「常磐館」にかわっていつまでも伝え送ってまいります。

3.1      藤原俊成

藤原俊成 略年表

永久2年(1114)      中納言藤原俊忠の子として生まれる 親家と名づけられる

保安4年(1123)     父が他界

姉の夫であった葉室顕頼の猶子(兄弟の子) となり、名前を顕広と改めたのはこの頃だといわれている

久安元年(1145)    12月三河国国司に任じられる 久安5年(1149) 4月までつとめる

応保2年(1162)     二男定家が誕生

仁安2年(1167)     正三位に叙せられる 本家に復して俊成と改名

安元2年(1176)     出家し、法名を釈阿と名のる

養和元年(1181) (竹島弁財天創建と伝えられている)

文治4年(1188) 『千載和歌集』 を奏覧する

元久元年(1204) 11月30日没 91歳

臨済宗総本山東福寺 (京都市) の塔頭(たっちゅう) 正覚庵(しょうがくあん)からおよそ400メートル南下した地に墓所がある

藤原俊成と蒲郡

藤原俊成は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の中で、 三河国の竹谷・蒲形(かまがた)庄 (地区) を開発したと記されている人物である。 優れた歌人であり、第7番目の勅撰和歌集である。 『千載和歌集』 の撰者をつとめた。 俊成から歌を学んでいた平忠度が、 平家一門が都から落ちのびる際に、 師匠の屋敷を訪れて自分で詠んだ歌を書きつけた巻物を託し、後年俊成がその中から『千載和歌集』 に 「詠み人知らず」として採りあげた逸話が 『平家物語』 や能 『忠度』 によって広く知られている。

小倉百人一首で有名な藤原定家の父である。

俊成は、今からおよそ900年前、 平安時代後期の久安元年(1145)12月に三河国国司 (現在でいう県知事) に任命された。

以後、 久安5年(1149) 4月に丹後守を任じられるまで3年5ヶ月間つとめた。

これは俊成が 「顕広」と名のっていた32歳から36歳の時にあたる。

俊成が両庄を開発したという話は、江戸時代後期に著された 『三河国名所図会』という書物にも紹介されている。

『吾妻鏡』 の記事を引用しており、 「俊成卿屋敷跡」 「恋の松原」 「雀の森」 などの項目が立てられている。

恋の松原を描いた挿絵の傍らには、

大島や 小松がさきの ほとけ

あわずか森に 恋の松原  俊成郷歌と云う

と記されている。

蒲郡駅南の「港町3番」 交差点、 竹本油脂本社の一角には、 「涼みが杜」 碑が建てられている。 「すずめのもり」 「すずみがもり」 いずれの響きからも、緑豊かな当時の光景が偲ばれる。

藤原俊成と竹島

『三河国名所図会』 の 「竹島弁天社」の項目には、 昔俊成が江州(滋賀県) 竹生島の竹を移植したから竹島という、と記されている。

竹島弁天社は、現在の八百富神社の前身であり、 養和元年(1181)の創建と伝えられている。

江戸時代の享保 20年 (1735) に 「八百富神」の御神号を賜った。

境内には、八百富神社のほかに、 宇賀神社・八大龍神社・大黒神社・千歳神社が祀られている。

藤原俊成は千歳神社の祭神であり、 昭和6年10月28日に鎮座の儀式が行われた折には、俊成を先祖とする冷泉家・入江家の当主らを招き、おごそかな歌会も行われた。

俊成・定家と冷泉家

藤原俊成の子である定家は、 後鳥羽上皇の勅命によって編まれた第8番目の勅撰和歌集である『新古今和歌集』の撰に加わった。

第9番目の勅撰和歌集 『新勅撰和歌集』 では、単独で撰にあたった。

また、代表的な歌人百人の和歌を一人一首ずつ撰んでまとめた百人一首は、後世にかるたとなって広まり、 小倉百人一首として選者藤原定家の名前とともに、世に広く知られている。

藤原定家の孫の代に、二条家・京極家・冷泉家の三家に分かれた。

冷泉家初代為相(ためすけ)の母は 『十六夜日記』の著者・阿仏尼(あぶつに)である。

今もなお古式にしたがった歌会や年中行事・慣習が継承されている冷泉家は、由緒ある和歌の家として知られている。

当家は平安・鎌倉時代より受け継がれてきた貴重な文書典籍を多く所蔵しており、その一部は国宝・重要文化財に指定されている。

京都御苑の北、 今出川通に面している住宅は、 寛政2年 (1790)に建てられた現存最古の公家住宅であり、 重要文化財に指定されている。

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蒲郡市は、 俊成に関する企画展 特別展をはじめ、 「俊成祭」(昭和61年~平成11年) や、 歌会 「披講」 (平成2年) 等を、 冷泉家の協力によって催してきた。

現在も、毎年4月に俊成の名前を冠した短歌大会を挙行して、 親交を保っている。

藤原俊成卿銅像と歌碑

竹島の対岸俊成苑内には、 平成3年に建立された藤原俊成卿銅像がある。

高さ2.8メートル、ブロンズ製、文化勲章受章者・富永直樹氏の制作による。

台座の「藤原俊成卿御詠」 銘板は、 冷泉布美子氏の筆による。

岩間もる 玉かけの井の すゝしきに

千歳の秋を 松風のふく

 

世の中よ みちこそなけれ 思ひ入る

山のおくにも 鹿そなくなる

 

どちらも『長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)』 からとられた歌で、前者は俊成が 52歳の時に大嘗会(だいじょうえ)を寿(ことほ)いで詠んだ歌、 後者は俊成の子 定家が編さんし「小倉百人一首」 にも撰ばれている。

このほか、 市内には俊成の歌碑が2基ある。

「ものあはれ」 歌碑 (平成5年建立) 八百富神社遥拝所玉垣内側

何となく ものあはれにも みゆるかな

霞や旅の こゝろなるらむ    俊成のうた

「浦つたふ」 歌碑 (平成 11 年建立) 特別養護老人ホーム形原眺海園

補ったふ 磯の苫屋の かち枕

聞もならはぬ 彼の音かな

 

3.2      常盤館

「緑西閣(りょくさいかく)」は、「常磐館(ときわかん)」の別館(客室棟)の一つです。

高名な作家達は、こんな感じの部屋で執筆していたのでしょう。

部屋から見る竹島も最高です。

 

3.3      竹島が登場する文学

3.4      蒲郡出身の作家

古代中国の偉人にスポットを当てた作品を得意とする地元出身の宮城谷 昌光(みやぎたに まさみつ)の作品が展示されていました。

3.5      蒲郡ホテル

「蒲郡ホテル」は、1934年(昭和9年)に誕生した愛知県蒲郡市を代表する名門クラシックホテルです。

現在は「蒲郡クラシックホテル」の名で親しまれています。

三河湾と竹島を一望する高台にあり、壮麗な城郭風の建築です。

内装にはアールデコ調の意匠が凝らされ、随所に大理石や格調高い木彫りが施されています。

国際観光ホテルとして開業し、昭和天皇をはじめとする皇族方や、多くの文豪・著名人が滞在しました。

戦時中は陸軍病院として使用されるなどの歴史を歩み、2007年には近代化産業遺産、2012年には国の登録有形文化財に指定されています。

 

4       昔の蒲郡ホテルのパンフレッド

家にあった昔のパンフレッドです。

昔の宿泊料金は随分安いですね。

いったいいつのパンフレッドだったのでしょうか。

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