彫刻家で詩人の高村光太郎は終戦の年 1945年5月(昭和20年)62歳の時に、東京のアトリエを空襲で失い、岩手県花巻市の宮沢賢治の実家に疎開しました。
宮澤賢治の亡くなったのは1933年ですが、その後、遺作を管理する賢治の8歳下の弟 宮澤 清六と親交があった縁で疎開先を花巻にしました。
しかし疎開先の花巻でも空襲(1945年8月)を受け元花巻中学校長の佐藤昌氏宅に避難しました。
終戦後、1945年10月花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に廃墟となっていた営林署の作業小屋を払い受け、移築し移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送りました。
そのあばら家が現在の高村山荘です。
詩集『智恵子抄』で有名な奥さんの智恵子さんが亡くなったのは1938年(昭和13年)高村55歳のときですので、花巻に来た時は単身でした。
周辺の地図です。高村山荘から山を登り、智恵子展望台に向かうコースが光太郎の散歩コースだったとのことです。展望台で「智恵子~!」と叫んでいたと、観光タクシーの運転手さんが“実演”してくれました。
山荘の外観は綺麗で、とてもあばら家には見えませんが、実は、あばら家を覆う建物(套屋・うわや)が2重になっています。
昭和32年に最初の套屋(第一套屋)が建築され、第一套屋が老朽化したため第一套屋を覆う第二套屋が昭和52年に建築されました。
そんな訳で、実物は下の写真にある本当に崩れかけた建物で、当時のまま保存されています。
一番外側にある建物の中から、二番目にある建物の窓を通して光太郎の作業部屋を撮影しました。
外観もすごいですが、内側も質素で板敷きの間で生活していました。
寒冷地の花巻での冬は随分辛かったと思います。
井戸です。何と、バケツで水を汲んでいました。
年齢を考えると、結構つらい作業だったと思います。
高村山荘の歴史が、簡単な掲示板に書かれています。
日時計です。精度が悪そうですが、時間感覚がこんなものだったのでしょう。
晴耕雨読の生活を送られていたようです。
山荘の前の「三畝(さんせ)の畑」
三畝は面積(約30坪)を示します。
月光殿はトイレです。
「光」の文字が裏側に透過するように細工してあります。
裏手に回って撮影しました。
家の前の栗の木は、くり だけに 屋根を くり抜いて保存してあります。
高村光太郎の父親 高村光雲も高名な彫刻家ですが、その父親の作品に「老猿」という彫刻があります。
実物は東京国立博物館が所蔵しています。
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=C232
山荘の近くに生えた木の根元の瘤に、その老猿の姿を見て、「ここで父親が見守っていてくれているんだ」と感慨に耽ったとのことです。
下の写真の木の瘤は「老猿」に見えるでしょうか?
私には全く見えませんが・・・・。
山荘の近くに作品、年表や映像の展示された記念館があります。
残念ながら内部は撮影禁止のため外からの写真だけです。
展示されている彫刻のレプリカには代表作の「手」「鯰」などがありました。
光太郎に限らず終戦を迎え、世の中の価値観が大きく変わった時代でした。
厳しい自然の中で、人生を考える時間が必要だったのかもしれません。
花巻関連のブログは以下です。