昔の5千円札で有名な新渡戸稲造の旧居跡地(文京区小日向2-1-30)は地下鉄「江戸川橋」から徒歩7分、「茗荷谷駅」から徒歩10分の民家の密集した高台にあります。
現在その地はマンションの建設中で、反対運動ののぼりや横断幕が掛かっていました。
元の建物の外観がどうであったのか、WEBで検索しても出てきませんので、図書館で調べて分かれば記事に追加する予定です。
目次
1 新渡戸稲造の略歴
転居を中心にして新渡戸の年表を記載します。
江戸から明治、大正、昭和まで生き抜いた方で住居の移動もそれなりにされています。
1862年(文久2年) 0歳
盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として、盛岡で生まれる。
1871年(明治4年) 9歳
上京し、叔父の太田時敏の養子となり太田稲造と改名。
1875年(明治8年) 13歳
東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
1877年(明治10年) 15歳
札幌農学校に入学。卒業後北海道庁で上級官吏として働く。
1883年(明治16年) 21歳
帝国大学(後の東京帝国大学、東京大学)に入学。
1884年(明治17年) 22歳
「太平洋の架け橋になりたい」とアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に転学。
1887年(明治20年) 25歳
札幌農学校助教を命ぜられ、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学し、官費でドイツに留学。
1889年(明治22年) 27歳
長兄七郎の死去により、太田姓から新渡戸姓に戻る。
1891年(明治24年) 29歳
メリー・エルキントンと結婚し、日本に帰国し札幌農学校に赴任。
1899年頃(明治32年) 37歳
夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。
その間に「武士道」を出版。
1901年(明治34年) 39歳
台湾総督府の技師となり、台湾に赴任。
1903年(明治36年) 41歳
京都帝国大学法科大学教授となる。
1906年(明治39年) 44歳
東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった。
その後、東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。1920年(大正9年) 58歳
国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた。
1926年(大正15年) 64歳
7年間務めた事務次長を退任した。
1933年(昭和8年) 71歳
カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議終了後 出血性膵臓炎のため死去。
区のH/Pによると、文京区の旧宅跡は、明治37年から没するまで住んだとのことです。
京都帝国大学や国際連盟など東京以外で仕事もしていますので、途中で居なかったこともあったかもしれませんが、新渡戸稲造にとっては、人生で一番長く生活した住居です。
残念ながら、奥さんのメリー・エルキントンとの子どもは夭逝しています。跡を継いだのは養子となった新渡戸孝夫(よしお 1892-1935)と養女となった新渡戸こと(琴子 1890-1985 )です。
二人の長男の新渡戸彰敏(本名:新渡戸誠)が新渡戸家を継いでいます。
しかし、新渡戸彰敏と結婚した武子の間には子供は居なかったようです。
そんな訳で旧宅も維持できなかったのでしょう。
2 新渡戸家
新渡戸家の歴史は、花巻にある「新渡戸記念館」で詳しく知ることができます。
下野国新渡戸あたりに移住
文治5(1189)年奥州藤原泰衡征伐の際、千葉常胤はその功により源頼朝より下野国新渡戸、高岡、青谷の三郷(今の栃木県)を賜わった。
姓を新渡戸に
五代後の貞綱の時新渡戸の郷に居城し、その地にちなんで姓を一時千葉から新渡戸と名乗った。
花巻に移住
慶長3(1598)年に南部利直から年200俵を賜わり、以来安野村(現花巻市高松・矢沢)に居住し、家臣となった。
花巻から移住
新渡戸家はその後、藩内の下北半島に移り、41代目の傳(つとう)、42代目の十次郎(じゅうじろう)が三本木原(さんぼんぎはら、現在の青森県十和田市)の開拓に従事した。
新渡戸家は由緒ある家系であることが分かります。
しかし、家という概念が崩れた現代では、その家を守るという考えがなく、いくら立派な家系でも無くなってしまう可能性があります。
徳川家ですら無くなってしまう可能性があります。
旧居跡に現代のマンションが建設されるというのはある意味、こうした時代の流れの象徴であるとも考えられます。